第245話 決着
審判の「競射!」という声が、張り詰めた空気を切り裂く。
張り詰めた空気の中、的が星的へと変えられる。直径36センチの霞的から、わずか24センチの星的へ。見た目には三分の二だが、感覚としては半分以下の面積になったように思える。ほんのわずかな集中力の欠如が、勝敗を分ける。一呼吸の乱れが、弓を引くわずかな力加減が、そのまま結果に直結する。
わずかに、観客席の空気が揺れる。
目に映る的はたった一回り小さくなるだけ。
しかし、引く者にとっては、目の前の世界が半分に縮んだような錯覚を起こす。
その白に、自分のすべてを置かなければならない。
それでも、六人の射手は、誰一人、表情を変えなかった。
心の奥で風が吹き荒れていても、外には出さない。
弓を持つ者の矜持。それが、そこにあった。
この舞台に立つために費やしてきた、想像を絶する練習量と努力。
予想してきたこと。
それが、極限の緊張の中で、彼女たちの心を支えていた。
栞代
弓を構えた瞬間、肩から背中にかけて、さっと冷たい感覚が走る。
白が小さい。息が浅くなる。だが、次の呼吸で、自分でも驚くほど落ち着いていた。
弦を引き、残心を意識する。
「……見えてる」
徐々に、白が輪郭を増し、焦点が研ぎ澄まされていく。
何かを掴み始めていた。
弓を引くという動作が、もはや意識的な行為ではなく、身体の深い部分から自然と湧き上がる流れのようだ。
一本一本の矢が、自分自身の成長を確かめるように、まっすぐ的に向かっていく。
矢が走る。
張りつめた空気に音が響いた。
中心。栞代の胸がひそかに熱くなる。
的場・ナディア・ヴィクトリア・アナスタシア
風が弓をなでる。
ナディアは、ふっと目を閉じてから、すぐに見開いた。
眉ひとつ動かさず、澄んだ横顔が射場の空気を支配する。
彼女は自分自身を絵画にでもするように、背筋をすっと伸ばし、弦を引いた。
矢を離すその瞬間すら、優美な動作。
白い的を貫いた瞬間、観客席の誰かが小さく息を飲んだ。
紬
無表情。
仕草が、機械のように正確だ。
何も考えず、ただ、弦を引き、呼吸する。
紬にとって「的が小さい」という情報は、ただの数字にすぎない。
淡々と弓を引く。
彼女の射は、一切の感情を排した、機械のように正確で美しい。
ただ的に向かう。
矢が放たれる。中心に吸い込まれる。
彼女のまつ毛すら、微動だにしない。
曽我部瑠桜
両手が、ほんのわずかに汗ばむ。
(大丈夫、大丈夫……)
何度も何度も、練習で的を追った日々を思い出す。
「麗霞さんになる」
心でつぶやき、丁寧に矢を番えた。
ぎこちなさはない。
力を込めすぎず、弱すぎず――完璧な弓手で放たれた矢は、星的の白を貫いた。
胸の奥で小さな灯がともる。
杏子
すべての喧騒が遠のいている。
射場にいるはずなのに、どこか高い空の下にいるようだった。
「おばあちゃん、見ててね」
心の内でそっと呟き、弦を引く。
まるで、弓そのものが彼女の身体の一部になったかのように、しなやかで、力強い。
静謐でありながら、内に秘めた圧倒的な美しさを放つ。その姿は、周囲の喧騒を遠ざけ、ただ一人、弓と対話しているようだった。
矢は微塵も迷わず、白の中心を射抜いた。
雲類鷲麗霞
彼女が立つだけで、射場の空気が変わる。
足元から立ち上がる静かな気迫が、まるで見えない炎のように揺らめく。
この舞台に立つことを、誰よりも待ち望んでいた。
彼女の射には、杏子とはまた違う、すべてを超越したかのような威厳が満ちている。
放たれる矢の一つひとつが、まるで自身の存在を証明するかのように、力強く、そして美しかった。
伝統ある流派という背景。
麗霞は瞳を細め、弦を引き絞った。
その動きは、古の武士のようであり、同時にしなやかな舞のようでもあった。
放たれた矢が、星的の中心に突き刺さった瞬間、
観客席の心臓が、一斉に跳ねた。
一射、また一射。
四射、すべて的中。
両校の選手たちは、互いに一歩も譲ることなく、最初の四射を完璧に的中させた。
静寂と緊張の中で、誰もがその矢に、自分の誇りと夢を乗せていた。
射場を包む空気は、ただ張りつめるだけでなく、どこか神聖な光を帯びているようだった。神聖な祈りのようだった。
そして五射目。
栞代は、完全に「無」に入っていた。
もはや完璧の域に達しているようだった。
これまでの疲労も、重圧も、すべてを超越したかのような澄み切った一射。
弓と一体、空気と一体、ただ矢が放たれる感覚だけが身体を満たす。
栞代自身、自分がどこか遠くでぼんやりと弓を引いているかのような、その姿を自らが見ているような、不思議な感覚に包まれていた。
「無の状態とは、まさにこれか」と、ふと、自信が心に生まれた、
ほんのわずか、胸の奥に自信が芽生える。
だがその自信は、慢心と紙一重な感情だった。
その瞬間だった。
矢は、ほんのわずかに的の縁をかすめ、外れた。
通常であれば当たるはずの軌道。
小さくなった的に嫌われる。
わずかに逸れ、的を外す。
「……っ!」
声にならない声が喉に詰まる。
何が狂った? 何が違った?
脳裏が真白になる。
完璧だったはずなのに――。
わずかな慢心が、この一射を狂わせたのだろうか。
その動揺の波は、静かに、そして確実に射場全体に広がっていく。
鳳城高校、大前、的場ナディア。
本来なら、他人の矢など一切関係ない。
城高校の選手たちは、本来、対戦相手の射に左右されることはない。
ただひたすらに自分の弓を引くだけだ。
叩き込まれていたはずの鉄則。
しかし、この勝負の空気に満ちた射場は、あまりにも繊細だった。
栞代が放った小さな波紋は、的場ナディアの心にも届いてしまう。
わずかに肩が強張る。
――外すはずが、ない。
なのに、矢は同じように的枠をかすめて外れた。
どよめきが、しかし声にはならない。
観客席では、手を握りしめる者、うつむく者。
決して声を出せない分、応援席の空気が大きく揺れた。
完璧な射を見せ続けてきた両校。
一本外せば決着がつく、という極限の状況で、互いに矢を外した。
静まり返っていた応援席は、まるで堰を切ったかのように、小さな吐息と、かすかなどよめきがこぼれた。緊張と弛緩が、交互に会場を支配する。
そして、紬。
いつもと変わらぬ瞳で弓を構える。
しかし、全身を襲う疲労は限界を超えていた。
ここまで積み重ねてきた肉体的、精神的な疲労が、彼女の冷静さを奪ったのか。
本来であれば動揺に左右されることのない紬。
だが、放たれた矢が、わずかにぶれる。
星的の白を外れた瞬間、紬の眉がわずかに寄った。
「……まだ、だいじょうぶ……」
追いこまれた状況の中、光田高校応援席で、杏子を、そして光田高校弓道部を最後まで信じる声が零れる。
それを聞いた瑠月が、そっと目尻を拭う。
(おじいちゃん、すごいね。わたしも、信じるね。……杏子ちゃん)
高校生には、この極限の勝負を続けるのは限界なのか。諦めにも似た空気が流れ、鳳城高校の応援席にも、どこまで続くのか。杏子と麗霞の一騎討ちになるのか。そんなムードが漂い始めた。
曽我部瑠桜。
高校で麗霞を知り、麗霞の背中を追ってきた少女。
初めて握った弓を、何度も何度も、泣きながら引いた日々。
ただひたすらに麗霞に憧れ、その射を真似しようと努力してきた。そ
して今も、ただ麗霞を思い、弓を引く。
その想いを込めた矢が、星的の白をかすめて――残った。
的枠ぎりぎりに、鮮やかに。
会場の空気が波打つ。
その瞬間、鳳城高校の応援席から、抑えきれない喜びのざわめきが起こり、光田高校の応援席は、静かに息を呑んだ。勝負の明暗が、はっきりと分かれた瞬間だった。
それでも。
杏子は、変わらなかった。
その切迫した空気の中、全く変わることなく美しい。
静かな風の中に佇むように、淡々と、ゆるやかに、弦を引く。
心は波立たない。
ただひとつ、白い的を貫く未来を、そこに描くだけ。
矢は、凛とした音を残して、真ん中へ吸い込まれた。
最後の矢。
雲類鷲麗霞。
射位に立ったその姿は、すでに完成されたひとつの芸術のようだった。
風も、観客も、すべてが遠のく。
呼吸が、弓とひとつになる。
この場面を待ち望んでいたかのようだった。
重圧に打ち克ち、仲間たちの期待を背負う、堂々とした姿。
誰よりも美しく、完璧な射で放たれた矢は、まっすぐに的の中心に突き刺さる。
誰に言うでもなく、胸の内で呟く。
放たれた矢は、一直線に星的の中央を穿ち、揺るぎない音を残した。
光田高校の応援席に、静かな沈黙が流れる。
会場の全体から、ため息が漏れた。
鳳城高校の応援席が、小さな拍手の波で震える。
射場の風が、優しく頬を撫でていった。
栞代は唇を噛み、紬はただ目を閉じ、杏子は静かに受け入れた。
澄んだ笑みが浮かんでいた。
勝負は、決した。
鳳城高校は、選抜大会の連覇記録をまた一つ伸ばした。




