第244話 決勝戦
決勝戦の射場に、観客の誰も息をひそめ、張り詰めた緊張が支配する。
会場全体が、光田高校と鳳城高校、それぞれの矜持と自負という旗を掲げたまま、時を止めていた。
熱気もざわめきも、舞い上がる空気さえも、二つの“誇り”が正面からぶつかるのを見守るかのように静止している。
ただ、矢の放たれる音だけが、無言の緊張を切り裂いていた。
1射めは、お互いが自らの姿を見せて、それぞれに皆中。
一歩も譲らない始まりになった。
二射目。
栞代。
胸の奥が熱くなる。
(まだ、まだ、行ける。)
一歩も引かない気迫が、矢に乗る。
音が響き、再び的中。
ナディア。
眉間に一筋の汗。
(ここで外せない。外さない。)
弦を引き切り、矢が刺さる瞬間、瞳が光る。
的中。
紬。
瞳は氷のように澄んでいる。
弦を離す。
音が、静かに空気を裂いた。
的中。
曽我部瑠桜。
緊張を超えた集中が、彼女の体を走る。
放たれた矢が、真っすぐに――的中。
観客席から抑えきれない拍手が広がった。
杏子。
微笑んだように見えた。
今できる最高を。澄みきった姿。
矢が的を射貫き、空気が震える。
麗霞。
彼女もまた、静かに微笑む。
望んでいたシーン。
待ちわびた光景。
放たれた矢が、風とひとつになって中心を射抜く。
三射目
栞代。
緊張よりも歓びが勝り、心も身体も軽やかになっていく。
気づけば、的と自分しか見えないほどに集中が研ぎ澄まされていた。
楽しさが全身を満たしていき、身体が意思に応えてくれる――まるで自分が一段、上の次元に引き上げられたようだった。
ナディア。
金髪がわずかに揺れ、静かな瞳が的を射抜く。
(ここに来るために、私は全てを懸けてきた。)
高らかな弦音、鋭い軌跡――的中。
観客席がどよめき、すぐに静寂に戻る。
紬。
無表情。まるで別世界の人。
彼女の中では、そもそも的と自分しか存在しない。
彼女の目は冷静な光を宿す。
矢が的を真ん中に貫いた。
曽我部。
手が震えていた。
(私は……ここまで来られた。)
それでも、最後は信じるだけ。
放たれた矢が風を裂き、中心へ――的中。
杏子。
(おばあちゃん、見てて?)
そして、弦を引き、離す。
一歩も揺れない。
まるで星を射抜くような一射が、中心へ。
麗霞。
髪が風に揺れる。
この場所を全身で受け止めている。
矢は力強く的を貫き、鳳城応援席が大きく息を吐いた。
四射目
栞代。
(杏子がいる。紬がいる。みんながいる。)
自信に満たされる。迷いもない。
放たれた矢が、見事に真ん中に刺さる。
ナディア。
表情は変わらず、ただ前を見据える。
矢が一直線に走り、中心に吸い込まれた。
紬。
彼女の瞳は何も語らない。
矢は僅かに的枠の外を掠める。
両校通じて、初めて的を外す。
曽我部。
微かな汗を感じる。
気持ちを込めて弦を引く。
まわりは一切見えていない。
しかし、空気が触れる。
勝負を分ける一射を、付き合う。
杏子。
ゆっくりと弦を引き、静かに放つ。
誰もがその矢の行方を知っていた。
――的中。
麗霞。
最後の矢をつがえ、その場を支配する。
鋭い音と共に、矢が真ん中に突き刺さる。
結果
光田高校 的中11
鳳城高校 的中11
射場に張り詰めていた空気が、わずかに揺れ動く。
誰も声を出せない。
ただ、心臓の鼓動が耳にうるさいほど響く。
真映が思わず口を押さえ、つばめが膝の上の拳を固く握った。
祖父は口を押さえながら、目に涙をためている。
祖母はゆっくりと手を握り、瑠月はやさしく背中をさする。
瑠月と祖母は視線を交わし、小さく頷いた。
冴子は高校総体を思い出していた。
杏子を欠くという厳しい状況の中、準決勝、決勝と、競射を含めて一本も外さなかった。杏子が乗り移ってくれたかのような、どこか自分ではないような感覚の中過ごした時間。
それでも、決勝の鳳城高校との試合では、4本差という圧倒的な差を付けられた。
あの時も一緒に居た、栞代と紬。
どれほどの悔しい思いをしていたのだろう。
一切表面に出さなかった二人。
半年経った決勝の舞台で、これほどまでの結果を出せるとは。
的中だけを見たら、冴子は杏子と全く変わらない。
少なくとも、最後の二試合は。
それでも。
杏子の弓道の力、というのは、これほど仲間の力をも引き出せるのか。
(……ほんと、すごいな、杏子。)
胸の奥に、少しだけ苦い思いが揺れる。
自分だって、あの夏まで部長として必死に仲間をまとめてきた。
「自分の背中で引っ張るんだ」と思っていた。
でも――いま、射場で仲間たちが見せている表情は、あの頃とは違う。
栞代は一度崩れかけたのに、立ち直り、迷いのない眼差しで弓を引いている。
紬は無言で、ただ静かに支えになっている。
そのすべての中心に、あの杏子が立っている。
(……わたしじゃ、こんなふうにはできなかった。)
冴子は小さく息を呑んだ。
杏子の力は、強い言葉でも威圧でもない。
どこか幼いような、天然めいた優しさと、弓を引くときだけ現れる圧倒的な美しさ。
それが仲間の心に火をつけ、矢に力を宿す。
心の奥で笑いながらも、冴子は震えを覚える。
(杏子……いま、仲間ごと、全部を連れて勝とうとしてる。)
それは、冴子が自分でも欲しかった「何か」。
それを目の前で実現している杏子に、冴子はただ、静かに畏怖の念を抱いた。
そして、胸の奥から湧きあがるような誇りで、そっと目頭を押さえた。
冴子が目頭を押さえた、その横顔を、沙月は見逃さなかった。
親友だからこそ分かる、あのわずかな陰り。
「……冴子、なに考えてる?」
沙月はそっと耳元で問いかけた。
冴子は小さく肩をすくめ、苦笑する。
「……杏子、やっぱりすごいなって。わたしじゃ、ここまで……」
言いかけて、視線を落とす。
その瞬間、沙月が冴子の肩を軽く小突いた。
「ちょっと。何言ってんのよ。」
冴子が驚いて顔を上げると、沙月は微笑みを浮かべていた。
「冴子も、全力で引っぱっていってくれたじゃない。あんたがいたから、今のみんながあるんだよ。」
言葉は柔らかいのに、その瞳には揺るぎない確信が宿っている。
「……証拠なら、ちゃんとあるじゃない。」
沙月は射場に目を向け、思い出すように言った。
「高校総体のとき、最後、13本連続的中してたじゃない。あれ、誰がどう見ても、立派だったよ。私、あのとき本気でしびれたもん。全員の力、引き出してたよ」
冴子の胸に、じんわりと熱がこみあげる。
「……覚えてたんだ」
「当たり前でしょ。」
沙月はにっこり笑った。
「杏子は杏子のやり方でみんなを引っぱってる。でも冴子は冴子のやり方で、ちゃんとみんなを導いたんだよ」
冴子は小さく息をつき、ほんの少し潤んだ瞳で沙月を見た。
「……ありがと、沙月」
沙月は肩をすくめ、冗談めかして言う。
「ほら、そんな顔しない。あんたは、誇っていいんだから。それに、そもそもあんだだよ、杏子の弓以外の力も見つけて、部長にしたのは」
観客席の熱気の中で、二人だけの穏やかな空気が流れた。
冴子は再び射場を見やり、杏子たちの背中を、今度は胸を張って見つめた。
そして、審判の声が響く。
「……競射を行います。」
場内が大きくざわめき、すぐに静まり返る。
戦いは――まだ、終わらない。




