第238話 準決勝
控室の隅。
「鳴弦館高校戦まえに」と書かれた、一華に渡されたメモを、栞代がゆっくりと開いた。
射場に向かう直前の、ほんの数分。
空気は張り詰めているはずなのに、そのメモが妙な緩さを運んでくる。
そこには、走り書きのような文字が並んでいた。
桐島舞鈴
普段は起きてるか寝てるかわからぬ目をしているが、その実、勝負になると人が変わり、狼の目になる。裏表しかないタイプ。決して油断してはイケナイ。
真壁妃那
忠実なかぐやのおもり係。だがその実力は本物。対策は、かぐやを慌てさせること。気持ちが矢よりかぐやに向く。かぐや愛も本物である。
篠宮かぐや
劇場型の天才。弱点は彼氏。対策として、アメリカの彼氏にハニートラップを仕掛けることを提案する。だれか親戚、アメリカ、ロスに居ない? それとも瑠月さん派遣する? 冴子元部長じゃ、ちょっとねえ。真面目すぎるしねえ。
栞代は眉間にしわを寄せて、思わず吹き出した。
「……なんだよこれ?」
彼女はメモを杏子と紬に差し出す。
紬はちらりと目をやり、すぐに視線を逸らす。
「……これは、わたしの課題ではありません」
その冷ややかな言葉に、栞代はさらに肩を揺らした。
杏子は目を細め、ほんのり笑顔を浮かべる。
「元気付けようとしてるんだね……。」
その声音は柔らかい。
「……これ、絶対に真映の仕業だって、証明されたな。」
栞代が呆れたように言うと、杏子も紬も、ほんの少しだけ表情を和ませた。
控室の外からは、観客のざわめきと、射場を調整する音が遠く聞こえる。
嵐の前の静けさ――鳴弦館高校の三人は緊張の固まりになっている。なのに、光田高校の三人はそれを忘れている。
その笑顔のまま、肩の力を抜き、深呼吸を一つ。
「……さあっ」
杏子の短い言葉に、紬が無言で頷き、栞代が小さく「うん」と返す。
三人はリラックスした表情のまま、しかし瞳の奥に鋭い光を宿し、
静かに扉を押し開けた。
いよいよ――
篠宮かぐや率いる鳴弦館高校との対決である。
射場に立つ六人――光田高校と鳴弦館高校、運命を分ける試合を前に。12月の冷気が道場を満たし、吐息さえ白く舞う中で、空気は針のように張り詰めていた。
的前から28メートル。安土の土の匂いが、冷たい空気に混じって漂う。射場の檜床に響く足音、弓を握る手のかすかな摩擦音――普段は気にならない些細な音までもが、今は鼓膜を震わせている。
観客席の静寂は、まるで波一つ無い海のようだった。
審判の「始め!」が遠くに聞こえた瞬間、ひとつの小さな波が現れた。
栞代は、よし、と心の中で呟いた。いける。いける。さあ、みんな、行くよ。
光田高校 大前 栞代 一射目
弦を引き切るその瞬間、
――「大丈夫、大丈夫」と繰り返す声の裏で、
(あれ……? いや、リズムが違う。肩が……また……?))
大前として最初に矢を放つ重責が、無意識に体を固くしていた。
微細な違和感が走った。
ピシッ――×
力みによる濁った弦音が射場に響き、矢が的の外側へ吸い込まれていく。
心臓が小さく跳ねた。
鳴弦館高校 大前 真壁妃那 一射目
真壁は足踏みを決めると、静かに息を吐いた。
かぐやの視線を背中に感じながら、胸の奥で誓う。
(……落ち着け。今ここで揺れるな。私が流れを作る。)
弓を押し開き、会に入る。一拍の間――
カーン――〇
澄んだ乾いた音が射場を貫き、狙い通りの的心。
狙い通りの中心。
一射決めて、胸の奥で小さく頷く。
紬 一射目
栞代の外しが視界に映ったが、紬の心に波は起こっていない。
(それはわたしの課題ではありません)
紬の射自体というよりも、その表情は、まるで精密機械のようだった。周囲の波乱を一切受け付けず、ただ自分の射法八節のみを粛々と実行する。
淡々と弦を引き切り、淡々と離す。
コォン――〇
音が空に溶ける。
紬は動かない。表情も、呼吸も。
鳴弦館高校 桐島舞鈴 一射目
舞鈴の指先に、汗がにじむ。
(……勝つ、勝つ、勝つ……勝つっ)
ほんのわずかの揺れが、矢に乗った。
――×
かすかな音が、耳に痛いほど響く。
「……っ!」
舞鈴は眉一つ動かさず、ただ呼吸を整えた。
杏子 一射目
杏子は、遠くの何かを見るような目をしていた。
杏子の世界には、時間の概念すら存在しないかのようだった。
誰もが張り詰めている中で、打起こしから離れまで、まるで呼吸をするように自然で、その矢は「射られる」のではなく「引き寄せられる」ように的心へ向かう。
――〇
射場の空気を浄化するような澄んだ弦音。
まるで当たり前のことのように。
鳴弦館高校 篠宮かぐや 一射目
かぐやは獲物を狙う獣のような視線で的を射る。
(……ぜったいに外さん。わたしが決める。)
体全体から闘志が滲む。弦が張り詰める。
力強い会から、鋭い離れ。
――〇
観客席から小さなざわめきが起こる。
「さすが……」
一射目結果:光田2中 鳴弦館2中
二射目・三射目・四射目 ― 拮抗する戦い
栞代。
二射目、肩をほぐすように深呼吸する。
(……落ち着け。いつもの射を。チームのために。)
――〇 命中。
しかし三射目、再び力みが走る。離れが早い。
――×
(……また……!)
四射目でようやく呼吸を整え、本来の弦音を取り戻す。
――〇
(……よし、これだ……!)
真壁妃那。
真壁は一射ごとに小さく息を吐きながら、全てを的心へ運んでいく。
(……大丈夫。かぐやに背中を預けられる射を。)
二射目〇、三射目〇、四射目〇。
鳴弦館の大前として、完璧な仕事を果たした。
紬。
紬はただ淡々と、弦の音だけを積み重ねていく。
(…………………………)
二射目〇、三射目〇、四射目〇。
表情ひとつ変えず、呼吸すら乱さない。
桐島舞鈴。
舞鈴は外した自分を叱るように、静かに目を閉じた。
(……私は、やれる……!勝つんだ。勝つんだ……!)
二射目〇、三射目〇。確実に修正していく。
しかしリードしたと思った四射目、再びほんのわずかな震えが走る。
――×
唇をかすかに噛む。
杏子。
相変わらず、何かに守られているような、ベールで包まれているように杏子のまわりだけ空気感が違う。穏やかで。落ち着く。
全ての矢が、まるで自然の摂理のように的の中心へ収束する。
二射目〇、三射目〇、四射目〇。
彼女の世界には、敵も、緊張も、存在しないかのようだった。
篠宮かぐや。
かぐやは気迫を前面に押し出し、観客すら圧倒する矢を放ち続ける。
(……負けるわけがない。杏子、お前ごときに。麗霞を倒すのはこの私だ……!)
二射目〇、三射目〇、四射目〇。
闘志を矢に込めて、完璧な皆中。
観客すら圧倒する矢を放つ。
同点という運命
結果発表を待つ数秒間が、永遠のように感じられた。
「光田高校、10中。鳴弦館高校、10中。」
――同中。
結果、光田高校も鳴弦館高校も、放たれた矢は10対10。
どちらも譲らず、どちらも崩れず――
審判の声が響く。
「競射を行います。」
栞代は矢を握り直し、深く息を吐いた。
(……ここからだ。まだ、終わらない。)
紬は淡々と弦を見つめ、
杏子は、ゆっくりと次の矢を。
そして、鳴弦館のメンバーも。一切ひるんでは居なかった。
嵐はまだ、これからだ。




