第235話 決勝トーナメント 準々決勝前に
通路の片隅。
照明は少し暗めで、試合会場から届く弦音がかすかに響いている。
試合は続き、選手たちは深呼吸をしながら順番を待っていた。
短い空き時間ではあったが、少しでもみんなの顔を見たくて、杏子たちは通路にでてきた。
「……杏子部長っ!」
一番に駆け寄ってきたのは、やっぱり真映。
頬をほんのり赤くしながら、声を張り上げる。
「見事にいっつも通りでしたね! この調子でオーケーっっ。でもでもでも、今日は絶対優勝するから! 安心してください。失格だけ気をつけてください。だってわたしが付いてますからっ!!」
杏子に抱きつき一気に話す。
肩を揺らし、拳を握る真映の勢いに、杏子は目を丸くしたまま「う、うんっ」と答える。
その横で、あかねがにっこり笑って真映の頭をぺしっと軽く叩く。
「プレッシャーかけてどうする? ま、弓を握れば杏子にはなんの関係もないけどな。……杏子にはなんの心配もしてないよ。弓が折れたら大変だけど、あれだけ手入れしてるし、み~んなで、杏子の弓と矢は何度も点検したからなっ」
杏子はこくりと頷き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「おいおい、オレと紬には激励の言葉なしか?
栞代がつっこむと、あかねが
「杏子がしっかりしてたら、なんとかなるだろ。とはいえ、もちろん、栞代、そして紬、二人のこともちゃ~んと応援しているから、安心しろ」
「知ってるよ」
栞代が苦笑いしつつ、応えたら、すぐに紬が
「それはわたしの課題ではありません」と呟く。
ソフィアが、そんな紬の手を取る。
「Tsumugi、Molemmat, muista tämä… (つぐみ、みんな、これを覚えておいて)
あなたたちならできます。ここまで来たんだから、自分を信じて。」
落ち着いた声が、不思議と選手たちの心を静めていく。
まゆが車椅子を進めて、そっと杏子の手に触れた。
「……杏子、この場所に居られて、幸せ。杏子の姿をこの舞台で見ることが出来て、ほんとに良かった」
「まゆったら」
去年、直前で帰省し、棄権した。祖父の病室で一緒に試合を見たまゆ。今日はわたしの試合を見ててね。
楓が少し照れたように顔を上げた。
「……が、がんばってください。ほんと、あの……」
杏子は思わず笑みをこぼし、「ありがとう、楓」と楓の手を握り、優しく答えた。
「楓、杏子Loveが炸裂してんな」
栞代が笑う。
その隣で、つばめが拳を握りしめて一歩前へ。
「迷惑をかけて、ほんとにごめんなさい。みなさん、がんばってください」
「つばめ、大丈夫。紬の調子は絶好調よ」杏子が優しく応えると、栞代が続いた。
「オレらは、全員で一つのチームだ。全員の力で一つ一つの矢が決まる。誰が出場しても同じだ」そう言ったあと、栞代はニヤリとしながら「杏子以外はな」と付け足して、笑いを誘った。
そして、後ろから聞き慣れた声。
「杏子ちゃん、しっかりね。」
瑠月が微笑んで、優しく髪をそっと撫でてくれた。
「ほんとに素敵よ。あなたの弓を引く姿が大好き。ずっと、一番長く見せてね。ね?」
杏子はその手の温もりに目を細めた。
「はいっ」明るく、まっすぐに応える。
「がんばってこいよ。」
冴子が短く言うと、沙月が明るく笑った。
「ほんっと、いつもの杏子でいきな! みんなもな!しんどき時は杏子を見たらいい。ちゃんと弓を握らせてな」
その瞬間、通路の向こうから元気すぎる声が届く。
「おおおっ! ぱみゅ子ーーー!!応援グッスが禁止された~~~」
杏子のおじいちゃんが、巨大な手作りの「必勝ぱみゅ子」タオルとうちわを掲げて現れた。
「係員に止められたんじゃ。けしからん」おじいちゃんは憤慨しているようだが、
「あのさ、おじいちゃん、弓道は、ほんとは応援もダメなんだぞ。声を出してもだめ。相手に対するリスペクト、これが大事なんだ」
栞代が呆れたように諭す。
「なんじゃと?! ぱみゅ子の応援に何が悪いんじゃ!」と憤慨するも、
「おじいちゃんも、もう応援歴長いんだからさあ。ま、元気がなによりだけどな」
と栞代。
横で祖母がくすくす笑いながら、杏子の手をぎゅっと握った。
「杏子ちゃん」その言葉に全てが込められているようだった。
「栞代ちゃん、紬ちゃん、あなたたちも、いつも通りでね」
その優しい声に、栞代と紬も「はい」と短く答えた。
さすがの紬も、ここでいつものセリフは言わないんだな。そう思うと、栞代は何かおかしくなった。
通路の端で、コーチが腕を組んで黙って見ていた。
何も言わないけれど、その視線が「行ってこい」と語っていた。
杏子は深呼吸をした。
目を閉じてから、そっと開ける。
(……大丈夫。みんなといつも、どこでも、一緒だから。)
その時、控室前の通路の奥から、静かに歩み寄る影があった。
「……つぐみ!」
杏子がぱっと顔を輝かせると、つぐみは杏子、栞代、紬の順番に抱きしめた。
「……来てくれたんだね。」
「近いからね。それに・・。」
つぐみの声は穏やかだったが、ほんの少しだけ揺れている。
その理由を、光田高校のみんな、わかっていた。
彼女がかつて在籍していた厳敷高校が、次の相手だということを、みんな知っているからだ。
杏子が何か言おうとしたが、つぐみは先に小さく息を吐いて、笑顔を作った。
「厳敷には苦しめられたけど、野蒔が居るからな。あいつには世話になったし、まあ、なにより、弓道部のメンバーには恨みがある訳じゃないしな」
ほんのわずか、目が遠くを見る。そして、つぐみは言った。
「杏子、新しい杏子を、楽しみにしてるよ。野蒔、杏子、もちろんおじいちゃんも、栞代も、みんな。みんなが居なければわたしは今笑ってないからな。だから、お互い最高の射を見せてくれることを願ってる」一気に話したつぐみ。そして続く言葉は飲み込んだ。
野蒔にもちゃんと自分の矢を見せろよ。
今までの杏子なら、野蒔との対戦は嫌がるはず。でも、今の杏子なら。
楽しみにしてる。そして次はわたしだ、と。
杏子が優しく微笑む。「つぐみが教えてくれたんだ」
つぐみは小さく手を振り、通路の端に下がった。
目を合わせた時、二人とも、ありがとう、と伝えあった。
ずっと教えてくれてたつぐみ。わたしの傲慢さ。全然気がつかなかった。でも、つぐみ姿を見て、ようやく分かったんだ。つぐみ、見ててね。
コーチが、そろそろ、と合図をする。
杏子、栞代、紬は、互いに視線を合わせて頷き合った。
そして、光田高校の三人は静かに歩き出した。夢に向って。




