第225話 団体戦初日 予選と決勝トーナメント一回戦
女子弓道団体戦――予選と決勝、その間にあるもの
大会の朝、光田高校弓道部の控室には、独特の緊張感が漂っていた。予選の射場は、まだどこか和やかで、部員たちも「いつも通り」を意識しながら矢を番えていた。
杏子は静かに呼吸を整え、栞代は肩の力を抜き、つばめは少しだけ不安げな表情を浮かべていた。
予選――「いつも通り」の強さ
予選は、各校が一斉に的を狙い、的中数の合計で順位が決まる。
この時、選手たちは「まずは通過を」という共通の目標を持ち、普段の練習の延長線上で矢を放つことができる。
射場にはまだ余裕があり、観客席のざわめきもどこか遠い。
「大丈夫、練習通りにやればいい」
そんな空気が、部員たちの肩の力を自然と抜いてくれる。
だが、もちろん、全国制覇を目標とし、常にそこに向き合いながら追い込み、その上で、平常心を掲げる強豪校は、予選といえど、当たり前のように結果を出していた。
鳳城高校は、全員バーフェクトの12本、鳴弦館高校はそれに続く11本。そして、弓道の強豪県の代表として博湾の青梅工科高校、尾煌の尾張旭丘高等学校が10本を決めて上位を固めた。
光田高校は、相変わらず、杏子と栞代の安定感は際立ち、二人とも外さず4本とも的中させたが、つばめの復調はならなかった。
つばめの不調――スランプの入り口
つばめの不調は、しかし、その根底には、彼女自身の心の揺らぎが静かに横たわっているのは、確実だろう。ブロック大会個人戦制覇の「達成感」と「空白」がきっかけなのは間違いなかった。
しかし、技術的には、杏子と積み上げてきたものは確実に見についているし、体調の面も、一華がサポートしている。
つばめがブロック大会の個人戦で優勝した瞬間、それは彼女にとって長年の目標が叶った瞬間だった。姉・つぐみを越えること――それが、つばめの弓道人生、いや、生きる上での大きな指標であり、心の支えでもあった。
だが、目標を達成したその後、つばめの心にはぽっかりと空白が生まれた。
「もう一度、姉を越えたい」「もっと上を目指したい」と思う一方で、かつてのような強い渇望や焦りが、どこか薄れてしまったのだ。
無自覚な「燃え尽き」と迷い
本人は自覚していないが、つばめの中には「燃え尽き」に近い感覚が芽生えていた。
目標を達成したことで、次に何を目指せばいいのか分からなくなっている。
姉を越えた勝利が、つぐみのコンディション不良という“但し書き”付きだったことが、心のどこかで引っかかっている。
「本当に自分は姉を越えたのか?」という迷いが、無意識のうちに射に影響を及ぼしている。
練習ノートやデータにも、つばめの射型や的中率の微妙な乱れが現れ始めていた。
離れのタイミングのズレ。
集中力の持続の難しさ。
これらはすべて、つばめの心の中に生まれた「次の目標」への迷いと、達成感の後の空白が出発点となっていた。
つばめはまだ「自分がスランプに陥っている」とはっきり自覚していない。ただ、どこか射に芯が入らず、以前のような手応えが感じられない。その違和感が、やがて本格的なスランプへとつながっていく――まさにその入り口に、今、彼女は立っていた。
「あの時、姉を越えたはずなのに、どうしてこんなに心が揺れるんだろう」
つばめは、誰にも言えないまま、静かに自分自身と向き合い始めていた。
この静かな迷いと空白こそが、つばめの不調の本質であり、スランプの始まりだった。
それでも、杏子と積み上げてきたものは、かろうじて1本の的中を残した。
光田高校は、9本的中。6位で、決勝トーナメントへの進出を決めた。
女子弓道団体戦の大会は、予選から決勝トーナメント、そして勝ち進むごとに空気がまるで変わっていく
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決勝トーナメント――「一本の重み」が変わる
だが、決勝トーナメントが始まると、空気は一変する。対戦相手が目の前に立ち、勝ち抜き方式の一発勝負。対戦相手が明確になり、「この一本で終わるかもしれない」という重圧が、選手たちの背中にのしかかる。
さらに勝ち進むほど、射場の空気は張り詰め、観客の視線や応援の熱気、勝敗のかかった静寂が、心の奥まで染み込んでくる。多くのチームはそのプレッシャーに呑まれ、予選よりも思うように力を出せなくなる。
決勝トーナメントでは、予選よりも的中数が伸びないことが多い。
「どうして、さっきまであんなに当たっていたのに…」
選手たちは、射場を離れるたびに自分の矢を振り返る。
予選の「安定」と、決勝の「重圧」。
その間にある見えない壁を、選手たちは一射ごとに乗り越えようとしているのである
。
けれど、光田高校は違った。
その中心にいるのは、杏子だった。
杏子は、弓を握れば「宇宙」に行く、「宇宙人」と呼ばれるほど、まわりの空気や状況からいい意味で浮き上がる。どれほど緊張感が高まっても、杏子は常に冷静で、穏やかに、ただ弓と向き合う。勝ち進むほど、むしろその集中力と安定感は増していく。
そもそも、杏子の中にあるのは「姿勢のこと」だけ。あとはたまたま、という、絶対に弓道という競技から離れられない「的中」から距離を置いていることが、それを実現できていることが、彼女の圧倒的な強みだった。
かつて唯一の弱点だった「相手のことを思いすぎて自分の射に集中できなくなる」欠点も、今では完全に克服している。杏子にとって、いまや怖いものは何もなかった。
そんな杏子の姿は、チームのメンバーにとって大きな支えだった。
「杏子がいるから大丈夫」
その安心感が、緊張で縮こまりそうな心を解きほぐしてくれる。栞代も、つばめも、紬も、杏子の姿を見て、杏子を感じて、杏子と同じ気持ちになろうとする。
勝ち進むごとに、相手チームはどんどん緊張を強めていくのに、光田高校だけは逆に落ち着き、むしろ強くなっていく――それが、彼女たちの最大の武器だった。
そしてそれは、杏子が抜けた時にも発揮され続けてきた。
拓哉コーチが意識的に追いこんでも、そのしなやかな強靱さは変わらなかった。
それは、絶対的なエースがいるチームだけが持つ、特別な強さだった。
光田高校は、勝ち進むほどに強くなる――その理由は、杏子という存在と、彼女に導かれる仲間たちの絆にあった。
決勝トーナメント一回戦。
光田高校は、房総拓殖高等学校との対戦だった。
不調のつばめに変わり、紬が出場した。
杏子と栞代は変わらず安定し、紬も大会の空気に左右されたのされなかったのか。相変わらずの無機質さでまとめ、10本対6本。
順調なすべり出しだった。




