第221話 大会初日個人戦 その1
大会初日の朝、空はまだ薄曇り。宿舎のロビーに集合した光田高校弓道部の面々は、どこかそわそわと落ち着かない。
今日は、男女の個人戦。出場するのは、女子が栞代とつばめ。そして男子は、海棠哲平が出場するも、完全に別行動となっていた。
杏子は、部長として、送り出す役目に徹する。ニコニコと優しい笑みを湛えて、二人の背を押す。
「がんばってね。……ちゃんと、楽しんで。」
その一言で、つばめの表情がふっと和らいだ。
「もう一度、お姉さんと同じところで引けるね」
つばめは黙って頷いた。
栞代の方には、短く、静かに目を合わせるだけで十分だった。二人の間には言葉はいらなかった。
厳かな雰囲気になった瞬間、しかし、そこに真映が割って入る。
「部長~! 全国大会の“朝”って、いつもの朝と全然違いますよねっ」
両足をパタパタさせながら、真映は神妙な顔で感触を確かめている。
「……お前な、そのボケてるのか真面目なのか、微妙なライン付いてくるのやめろ」
と、あかねが即ツッコミ。
「いや、今回は、総体の時と違って、なんかちゃんと全員で出るんだなあって気持ちが沸いてきてて」
「それ、部長のおじいさんに聞かれたら、お前消されるよ」
と、栞代は低い声で応え、真映をびびらせた。
「それはわたしの問題ではありません」
最近、紬はソフィアの影響でまわりを気にすることもできるようになり、雰囲気が悪くなってきたと察すると、いつものセリフを披露する。
「いやま、そりゃそーだろ」
栞代が表情を和らげる。
マネージャーの一華はというと、ノートに目を落としながら、選手のコンディションデータを再確認していた。
「栞代さん、起床後の心拍と睡眠時間、理想値。つばめさん、筋温もほぼ問題なし。今日のリズムでいけば、各一本目の集中率は8割以上になる判断できます」
「えーと、日本語でいうと、『今日も元気! ちゃんと当たるから安心して!』ってことね」
と、まゆが優しく訳す。「ちなみに睡眠時間以外は、一華の目測による推定値です」
そして、栞代が最後に口を開く。
「ここまで来たら、もう自分を信じるだけやから。どんな結果でも、しっかり受け止めて、次に繋げる。明日の団体戦に繋げられるよう、やってくるわ」
その言葉を聞いて、みんな頷いた。栞代は付け足して、
「それと、オレの居ない間、好き勝手して杏子を困らせた奴は、あとで覚えとけよ。お前らの中に、ちゃんとスバイ仕込んだから、全部分かんだぞ」
といって栞代は笑い、部員たちは、お互いを疑惑の目で探っていた。
選手たちは拓哉コーチと共に別行動になり、杏子たちも会場に向った。
ソフィアが杏子に
「Kyoko,Kayoが居ないと心細いんでしょ」
と話しかける。
「大丈夫よ、ソフィア。もう小学生じゃないんだから」
といいつつ、落ち着かない。
あかねは、まゆの車椅子を押しながらそのやりとりを聞いた。
「たしかに小学生じゃない。幼稚園児なんだよな、弓を握っていない時の杏子は」とまゆにだけ聞こえるように小声で呟くと、まゆはおかしそうに笑ってた。
「真映がはっちゃけなきゃいいけど」
「大丈夫、一華と楓がぴったりマークしてるわ」
そして杏子は三人の様子を見て、安心した。「頼りになるわね」
その後からは、わたしの課題じゃありません、という顔をして、紬が続いていた。
全国選抜大会・女子個人戦──予選から準決勝へ
開会宣言からの緊張がまだ空気に残る射場で、光田高校の二人は淡々と的に向かった。栞代は呼吸の深さまで計測したかのような正確さで四本を連続的中させ、観覧席にどよめきを呼ぶ。対照的に、つばめは三本目まで音のない弦音を響かせながらも、最後の一本をわずかに右に外した。弓道特有の静寂が破れることはないが、その一拍の“外れ”は確かに残響として場内に漂った。
杏子の抱いた小さな違和感
予選後、つばめと合流した杏子は、つばめの肩越しに着姿を覗き込み、そっと口を開く。
「つばめ、いつものくせが少し出てるよ。ほんの少しだけ浮いてた。離れで軸が逃げた分、弦が早く離れてる」
つばめは瞬きを一度だけ挟み、すぐに頷いた。指摘自体は技術的に理解できる。しかし本人の胸奥には、針で突かれた程度の反応しか起こらない。ここが杏子のいう“違和感”の正体だった。
何か微妙な違和感がある。それはつばめも感じていたことだった。
目標を越えたあとの空洞
ブロック大会で姉・つぐみを破った瞬間、つばめは心の天井を突き破ったつもりだった。だが実際には、天井のその上にまだ一枚、つぐみの背中がある。姉を超えるという念願は確かに叶ったが、それは「コンディションの悪い姉に勝った」という但し書き付きだと自分でも薄々わかっている。
だから、絶好調の姉に勝ちたい、と繋がるはずなのに、何かが食い違っていた。
どんな形でもあれ「勝利した」ということ自体がとてつもなく大きかった。
もし、今誰かがつばめに「弓道を辞めてもいいよ」と言えば、弓を置いたかもしれない。昇華仕切れない感情がつばめの無意識に小さな空洞を作り、今は射位に立つたびに底の抜けた水瓶のように集中をゆっくりと漏らしていく。それは本人に見えず、かといって完全に隠し切れるものでもない。
準決勝──静かな分岐点
選手 1本目 2本目3本目4本目的中数
栞代 ○ ○ ○ ○ 4/4
つばめ ○ × ○ × 2/4
準決勝、射場に立った栞代は再び完璧だった。離れのたび、矢は無駄のない軌道を描き、ほぼ同一線上に的心へ吸い込まれる。
一方のつばめは、二射目の取り懸けでわずかに脈拍が跳ね上がり、その細波が肘の内線に伝わった。離れの瞬間、弦が袖口をかすめるほどの僅差で振れ、的の左白を削るだけで止まった。三射目は修正し的中させたものの、四射目では再び肘が下がり、先ほどの白痕をなぞるように外れた。
矢声は必要以上に静かで、つばめの表情も不思議と凪いでいた。自覚なきまま、風のない池に石を投げても波紋が広がらないような感覚が彼女を包んでいる。
違和感という名の入口
控室へ戻ると、つばめは、肩で浅く息を繰り返した。感覚がついてこない。掴み取るべき“芯”は霧の中に溶け、指先をすり抜けていく。
栞代は、つばめの影に差し込む小さな亀裂が気掛かりだった。
つばめは「大丈夫、明日は当てます」とだけ笑う。しかし歩幅はわずかに揃わず、射位で感じた浮遊感が足跡にも残っていた。
試合は、決勝に向っていく。




