第220話 大会前日
全国選抜大会前日の公式練習。
大会会場に到着した光田高校弓道部は、普段の練習場とはまるで違う、張りつめた空気に包まれていた。広々とした射場、天井から垂れ下がる全国大会の大きな横断幕、そして各地の代表校が放つ独特の緊張感――。そのすべてが、彼女たちに「ここが全国の舞台だ」と静かに、しかし確かに実感させていた。
杏子は静かに矢を番え、呼吸を整えていた。動きは滑らかで、外から見れば落ち着き払っているように映る。しかしその胸の内では、久しぶりに味わう高揚感と、すばらしい会場で弓を引ける喜びを全身で感じていた。全国の強豪たちが放つ一射一射の重みに、自然と背筋が伸びる。
公式練習が終わると、光田高校の一行は控えの練習場へと移動した。杏子にとって、弓を引かずに一日を終えるなど考えられない。大会前日であっても、最後の一射まで自分の感覚を確かめておきたいのだ。
そんなとき、不意に静寂を破るように現れたのは、鳳城高校の黒羽詩織だった。
「なんかさ、練習会場で会うのも、もう飽きたわ」
黒羽はそう言いながら周囲の視線など気にも留めず、まっすぐ杏子のもとへ歩み寄る。
「なにか用?」と、栞代がすかさず前に出る。
「お前、相変わらず個人戦には出てこないんだな」
栞代には目もくれず、杏子に言葉を放つ。
栞代は眉をひそめた。「お前だって、団体戦のメンバーに入ってないだろ」
黒羽は口元をゆがめて笑う。「結局、どっちもどこかに欠陥抱えてるってことだな。麗霞より先に、私が身の程をわきまえさせてやろうと思ったけど、そこまで行き着いてないみたいだな。まだまだってこと」
「おい、いい加減にしておけよ」
「ま、栞代とか言ったか、お前が県チャンピオンとして出るんだろ。せいぜい、私の射をよく見て勉強するんだな」
吐き捨てるように言い残し、黒羽はひらりと身を翻して射場へ戻っていった。
杏子はそのやりとりを見て、少し不安げな表情を浮かべていた。
栞代はそっとポケットからゴム弓を取り出し、杏子に手渡す。「ほれ、握ってな」
杏子は思わず笑みをこぼす。杏子は普段は引っ込み思案で気が小さくて、ちょっ幼いところもあるが、弓を握れば性格が変わる。そのことから最初は冗談半分のお守りだったが、今ではそれが確かに心を落ち着かせてくれるお守りになっていた。
「ありがとう、栞代」
杏子が仲間のもとへ戻ると、部員たちは次々に笑顔で迎え入れた。その温かな空気に包まれ、杏子もようやく安堵の笑みを浮かべる。
すると、相変わらず期待通りの真映が居た。
「部長~! 全国大会の空気、吸ってみました? なんか普通の空気と違いますよね! これが全国の空気ですよ!」
真映が両手を大きく広げて深呼吸している姿を見て、あかねは呆れたような表情を浮かべた。
「真映は大きく両手を広げて、深呼吸しながら大声をあげた。
「部長〜! 全国大会の空気、吸ってみました? なんか普通の空気と違いますよね! これが全国の空気ですよ!」
その姿を見たあかねは、苦笑混じりに眉をひそめる。
「真映、お前な、空気は全国どこでも一緒やで?」
真映は首をかしげながらも、目を輝かせて反論する。
「えー、やだなぁ。そんなことないですよ! ほら、あかね先輩も吸ってみてください!」
だがあかねは鼻で笑うように、軽く首を振った。
「吸わんでええわ。てか、もう吸ってるわ! それより、お前のその謎のテンション、どうにかせぇや(笑)」
真映はきょとんとした顔をして、ちょっとだけ声を落として言う。
「でも先輩、そんな普通なフリして、昨日の夜は、めっちゃ真剣でしたよね」
と、尋ねるように言い始めると、あかねの頬が赤くふくらんでいった。
「そ、それは……見てたんかいっ」
苦しそうに言葉を詰まらせるあかね。そのとき真映が小悪魔のように微笑んで、声を弾ませた。
「えへへー、実はあかね選抜、部長と栞代さん、紬さん、つばめの健闘、真剣に祈ってたんですよ〜!」
真映の台詞に、あかねはパッと目を見開いた。顔がさらに赤くなり、思わず口を押さえる。
「なっ……なにバラしてんねんっ!効果無くなったらどうすんねん」
その声は真映に届かず、横で聞いていた栞代と杏子は、クスクスと笑い合いながらも、あかねの方を見て、小声で「ありがとう、あかね」と伝えた。
「あ、図星だ! あかね先輩ほんとに優しいですからね。 大丈夫ですよ、私の"あかねさんの願いが叶いますようにダンス"を今から披露しますから」
「やめろ! 絶対やめろ! お前のダンス、絶対に意味逆転するわ」
そんなやりとりを微笑ましく見ていた一華が、手にしたノートを見ながら口を開いた。
「すみません、私、他校の練習も見学したいのですが」
杏子が振り返る。「他校の?」
「はい。今回の出場校の射型や戦術を分析しておきたくて。特に鳳城高校の黒羽選手の射については、データが不足しています。それに、各地区の代表校がどのような練習メニューを組んでいるかも興味があります」
一華の目は真剣そのものだった。データ収集への情熱は、彼女の理知的な性格を如実に表している。
「一人で行くのは危険だな」と栞代が言う。「オレも付き合うよ」
「私も一緒に行きます」杏子も頷いた。
「わーい! 私も行きます! 他校の選手たちに私の"全国大会記念ダンス"を披露して...」
「真映、お前は絶対あかん」あかねが即座に制止する。「国際問題なるわ」
「えー、なんでですか? 私のダンスは平和の象徴なのに」
「平和どころか戦争が始まるわ」
一華は苦笑いを浮かべながら、「真映さんは控えの練習場で、みんなの緊張をほぐしてもらえませんか? それも大切な役割です」と優しく提案した。
「そうですね! じゃあ、私は留守番組の士気向上に努めます!」
真映が敬礼のポーズを取ると、あかねは安堵のため息をついた。
「一華、お前がおってくれて本当に良かったわ」
こうして杏子、栞代、一華の三人と、杏子オタクのまゆと、まゆとセットのあかねが加わり、一行は、他校の練習を見学するため公式練習会場へと向かった。一華の分析的な視点が、明日の試合にどのような影響をもたらすのか、それは彼女自身にも予想がつかなかった
公式練習会場を見学しながら、一華は手にしたノートに次々と他校の情報を記録していた。射型の特徴、練習メニューの構成、選手の癖まで、その観察眼は鋭く、分析は的確だった。
練習を見終わった時、栞代が話しかけた。
「一華、すげーな。よくそんなところまで見えるもんだな」
感心したように言うと、一華は少し照れたような表情を見せた。
「いつも杏子部長にポイントを教えてもらってるんです」
「でもさ、一華」栞代は少し真剣な顔になった。「お前のその才能、弓道には勿体ないんじゃないか?」
一華の手が止まる。
「え?」
「弓道って、相手のないスポーツでもあるからさ。お前のアナリストとしての能力、戦術立案の才能は、もっと相手がいるスポーツ、例えばバスケとかバレーとかの方が活かせるんじゃないかって思ったりするんだよ」
一華の表情が少し曇った。ノートを胸に抱きしめるように持ち直す。
「いえ、私は...弓道部の役に立ちたいんです」
その声には、はっきりとした意志が込められていた。
「一華」杏子が口を開く。「一華には、私たちみんな感謝してるよ。ほんとにありがとう。まゆは今選手兼任だから、その経験を上手く一華に伝えて、一華を支えてて、今もうほんとに日本一の体制だと思ってるよ」
栞代は慌てたように手を振る。「いや、一華。俺が言いたいのは、一華にはもっと活躍できる場所があるんじゃないかってことなんだ」
杏子が付け足す。
「栞代の言葉は、一華を否定してるんじゃないの。一華の才能を認めているからこそ、もっと大きな舞台で活躍できるんじゃないかって心配してくれてるんだよ。ほら、まゆは弓を引きたいって目標、叶えてるから。一華もそうしたことがあるのかなって」
一華は少し考え込むような表情を見せた後、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます、栞代さん。でも、私は弓道部にいることで、データ分析だけじゃない大切なことも学んでいるんです。杏子部長の集中力や技術、栞代さんの気迫、みんなの努力...みんなどんどん上達してる。そしてそのお手伝いを少しでもしたい。それが、私にとって何より価値があることなんです」
一華の言葉に、栞代は嬉しそうに頷いた。
「それに」一華は続けた。「弓道は確かに相手のないスポーツですが、だからこそ自分自身との戦いを分析することに意味があると思うんです。心理状態、技術の微細な変化、環境要因...それらを数値化して改善につなげることが、私の役割だと思っています」
杏子と栞代は、一華の真摯な想いに改めて感動を覚えた。彼女の弓道部への愛情と、アナリストとしての誇りが、その言葉からひしひしと伝わってきた。
「ま、その、杏子部長の宇宙人ぶりは数値化できませんけれど」
と言って、みんなを笑わせる一華だったが、栞代から
「一華も冗談言えるんだな」と褒められたが
「あ、いや、冗談じゃないんです。ほんとなんです」と応えて、顔を赤くした。
一華の言葉に、栞代とあかねは声を殺して笑った。
確かに、弓道は相手のいないスポーツである。しかし、だからこそ一華の分析能力が最大限に活かされる環境がそこにはあった。他の競技では相手の戦術や動きに左右される要素が大きいが、弓道においては純粋に自分自身との戦いを数値化し、客観的に測定することが可能なのだ。内面的な成長や技術向上の微細な変化も、一華の鋭い観察眼と分析力があれば、確実にデータとして捉えることができる。
そして何より重要なのは、再現性の追求である。一度の成功を偶然の産物として終わらせるのではなく、それを再現可能な技術として確立すること。一華の分析により、成功の要因を細分化し、体系化することで、部員たちは確実な技術向上を図ることができるのだ。
さらに、弓道という競技の特性上、微細な改善の積み重ねが大きな成果をもたらす。わずかな角度の違い、呼吸のタイミング、心理状態の変化――。これらの小さな変化を数値で捉え、継続的な向上につなげることができるのは、まさに一華の才能があってこそなのである。
また、弓道の世界では、伝統的な指導法と現代的な分析手法を融合させることで、新たな価値を創造することが可能だった。長年の経験に裏打ちされた指導者の感覚的な指導を、一華の客観的なデータで裏付けることにより、より説得力のある指導を実現できる。感覚と数値の両立――それは弓道指導における革新的なアプローチとなり得るのだ。
さらに、熟練者が長年かけて身につけた技術を分析し、数値化することで、後進への技術継承を体系化することも可能になる。これまで「感覚で覚えろ」と言われがちだった技術的な要素を、具体的なデータとして示すことで、より効率的で確実な指導が実現するのである。
そして何より、一華のデータ分析から新しい練習方法や技術改善法を発見する可能性も秘めている。従来の常識にとらわれない、科学的根拠に基づいた革新的な練習法の開発――それは弓道界全体にとっても大きな貢献となるかもしれない。
一華の才能は、決して弓道には「勿体ない」ものではなかった。むしろ、弓道という競技だからこそ、彼女の分析能力が最も輝く場所なのである。伝統と革新、感覚と科学、個人と団体――これらすべての要素が交錯する弓道の世界で、一華は確実に新たな可能性を切り開いていくのだろう。
そして忘れてはならないのは、まゆの存在である。人に伝える能力、として理知的すぎる一華は、時に言葉の選択を間違える時がある。そんなとき、まゆの優しさが絶妙の緩衝材になる。
杏子が日本一、と言ったのは、完全に本気の言葉だった。




