第219話 杏子宅にて
杏子宅での激励パーティー
夕暮れの約束
全国選抜大会を間近に控えた杏子の家には、夕方の光が格子窓から柔らかく差し込んでいた。玄関先で部員たちを迎える祖父の声が、静寂な住宅街に響く。
「いや、みんな、よう来たなー」
祖父の言葉には、孫娘の夢を見守り続けてきた長い年月の重みが込められていた。つばめの顔を見つめながら、感慨深げに頷く。
「つばめさんは、こうして改めて見ると、やはりお姉さんによう似てるな~」
「ありがとうございます」
「紬さんも久しぶりじゃのう。もっと遊びに来てもいいんじゃぞ。遠慮はいらん」
祖父の温かい誘いに、紬は相変わらずの無表情で応じた。
「それは私の課題ではありません」
栞代が慌てたようにフォローを入れる。
「いや、紬、それは紬の課題だよ」
言いながら、にやにやしてる。
しかし祖父は、まるでやりとりを楽しむかのように、カラカラと笑い声をあげた。
「いやいや、大丈夫じゃ。紬さんのその返事は、『はい』という意味じゃ。ちゃんと分かっとる分かっとる」
紬はさらに淡々と付け加えた。
「それも私の課題ではありません」
この一連のやりとりを見ていた杏子は、思わず堪えきれずに笑い声を上げた。家族が広がったようで、仲間がちゃんと理解し合えているのが嬉しかった。
「さあ、おじいちゃんが入れてくれた紅茶があるの。みんな、リビングに上がって」
温もりの中で
「まあ、おじいちゃんの数少ない得意技だからな、紅茶は」
栞代の軽口に、祖父は得意そうに胸を張りながら、丁寧に淹れた紅茶をそれぞれのカップに注いでいく。湯気が立ち上る香りが、部屋全体を包み込んだ。
「紅茶で乾杯とは、なかなか洒落とるじゃろ。ほほほほほほ」
「その笑い方っ」
栞代は苦笑いを浮かべながらも、祖父の心遣いに素直に従った。
そのとき、祖父の表情が急に真剣になった。胸を張り、声を震わせながら言葉を紡ぐ。
「みんな、念願だった全国大会優勝、おめでとう。ついに達成したな。杏子の夢が、ついに叶った。みなさんのおかげじゃ。本当に、ありがとう」
その声の奥に込められた感情に、祖父の目が潤んでいくのを見て、栞代は慌てて口を挟んだ。
「お、おい、おじいちゃん。まだ大会はこれからだよ」
「いやいや、わしほどの人物になるとな、未来が見えるのじゃ。今大会は間違いなく光田高校の優勝じゃ。がははははっ」
祖父の豪快な笑い声が部屋に響く中、四人は呆れながらも、その確信に満ちた声に不思議な安心感を覚えていた。
「お、意外と熱くないな。おじいちゃん、ちゃんと温度計算してたんじゃん」
栞代が珍しく素直に褒めると、今度は祖母が手作りのクッキーを運んでくる。スープにサンドイッチ、季節のフルーツまで並んだテーブルは、まるで小さな宴のようだった。
「なんで苺やキウイはフルーツって感じがするのに、みかんは全く言葉が似合わないな」栞代が軽口を挟む。
「もしお腹が空いているなら、ご飯もちゃんとあるで」
祖父の申し出に、みんなは微笑みながら首を振った。
「なんぼほど食わせる気やねん」栞代が笑いながら、苺をつまむ。
それぞれの想い
「で、どうなんじゃ? 調子の方は?」
祖父の問いかけに、栞代が口を開く。
「まあ、一華がものすごく綿密な計画を立ててくれて、追い込みから調整、準備まで、完璧に仕上がったって感じかな」
しかし栞代は、つばめの微妙な違和感を感じていた。
視線をつばめに向けながら、そっと話を振る。
「つばめはどう?」
つばめは少し考えてから、正直な気持ちを口にした。
「自分では意識してないんだけど、目標を達成しちゃったから、正直、どこか調子が狂っちゃってるかも」
その言葉を聞いた祖父の目が、穏やかに輝いた。
「あの試合は、本当に素晴らしかった」
祖父は、その場面を再び見ているかのように話し始めた。
「個人戦に全てを懸けてたつばめさんに対して、つぐみは団体戦でチームを引っ張り続けて、相当な疲労が蓄積されておった。つばめさんが有利だったのは確かじゃ。しかし、勝負にそんなことは一切関係ない。つばめさんは最後まで丁寧に、まるで杏子の魂が乗り移ったかのような美しい射を見せ続けた。対するつぐみさんは、もう気持ちだけで弓を引いておった。互いが互いを高め合う、そんな素晴らしい試合じゃった」
「いえ、ほんとにそうなんです。練習からずっと杏子部長に付き添ってもらってて、杏子部長が乗り移ったみたいに、静かに姿勢のことだけ考えることができたんです」
つばめが遠い目をしながら言った。
杏子の目に、あの日の光景が蘇ってくる。
「わたしも、あんな弓を引きたい。あんな美しい姿を見せたい」
杏子の言葉には、純粋な憧れと感謝の気持ちが込められていた。
あの時、杏子が素引きを始めたことを知っている栞代は、深く頷いた。
「あの時から、明らかに杏子は変わったよね。」
「ほう。栞代もちゃんと分かるか」
「分かるよ。今までも杏子は弓を握った時の集中力というか没頭力というかがすごくて、部員の間では『宇宙人』って呼ばれてたけど、なんというか、静かになったっていうか、一つ一つに新鮮な喜びがあるっていうか。今までも杏子の弓を見てると、羨ましいし、ああなりたいって思ってたんだけど、その威力がハンパなくなったな」
祖父は深く頷きながら、愛おしそうに杏子を見つめた。
「最近のぱみゅ子は、本当に初めて弓を握った時のような喜びに満ちておる。わしが優勝を確信しているのは、そこじゃ。ぱみゅ子はずっと『当てよう』としていなかった。つまり『勝とう』ともしていなかった。今はさらにそこから離れて、ただ喜んでいるように見えるのじゃよ」
「まあ、なんだかよく分からないけど、言いたいことは分かるような気もする」
栞代の言葉に、杏子は少し照れながら答えた。
「一つ一つがすごく楽しいの。静かな気持ちで弓に集中するのはずっと好きだったけど、今はそれに加えて『嬉しい』っていう気持ちがあるかな」
「まあ、その後すぐに、あんまり当たらないので、ぱみゅ子は落ち込むんだけどな」
「そのエピソード今要る?」
栞代のつっこみに、笑い声がひろがった
ライバルたちの影
「ところで、ライバルの様子はどうじゃ?」
祖父の質問に、栞代の表情が少し引き締まった。
「ま、弓道って気持ちが大事だから、どこも全国に来るようなところは、全部恐いんだけど。でもやっぱり、鳳城高校はすごい。麗霞さんは本当に磐石でした。冷静に考えると、向こうは頂点にいて、こちらは成長している最中だから、距離は縮まっているはずなのに、相変わらず遥か遠くにいる感じ。頂点どこだよ。的場さんも安定しているし、瑠桜さんだけが少し外していたけど、雰囲気が杏子に似ていて、あの三人に隙はないですね」
「それに的場さんは綺麗し」
そういってつばめは笑った。
「その話題出す? でも、あの時も話題に出たけど、麗霞さんの孤高な感じがやっぱり惹かれるかな。おじいちゃんも麗霞さんのファンなんだろ?」
「うむ、最初に見た時から、あの弓はただ者ではないと思ってたんじゃ」
「ウソ付け。最初は弓なんて見てなかったくせに」
「そ、そんなことないぞ。のう、紬さん」
「それはわたしの課題ではありません」
お約束の展開に、杏子と杏子の祖母が同じ顔で笑ってる。
「鳴弦館はどうじゃ?」
「篠宮かぐやは迫力があってすごいけど、なんか隙だらけなんだよね。弓道の常識を一人で覆す子だよ、あの子は。去年の部長の鷹匠さんが可愛がってるのが分かる。気迫もすごくて、結局当ててくる。真壁も安定してるし、あそこも三人目次第と思ってたら、桐島もまたすごい」
ここまで一気に言った栞代は、一華のノートを思い出す。
「そいえば、一華が、かくやを倒す祕策をノートに書いてたぞ」
全員なんとなく分かっているけれど、それでも続きを聞きたかった。
「彼氏に浮気をさせるってさ」
ひとしきり笑い声が響いたあと、栞代が続ける。
「で、一華は、その刺客として、ある人物の名前を書いてたんだっ」
「ソフィアさん?」
つばめが興味津々に訊ねた。
「杏子だ」栞代がそう言った瞬間、祖父が噴火した。
「な、なんじゃと~っ。一華さんを招集しろ、今すぐに」
栞代がゲラゲラ笑い
「安心しろ、おじいちゃん。そんな命知らずのこと、書くわけないだろ、一華が。ウソだよ、ウソ」
「栞代、実はお前の紅茶だけ毒入りじゃ」
栞代は、笑い声で応えていた。「おいしい毒だよ」
「ところで、我が光田高校は、この4人がフル回転するのか? ブロック大会の時のように」
栞代が答える。
「長丁場だし、交代しながらの方が体力的にも精神的にも有利だからね」
「そうじゃな。本当に四人全員の力が必要になる。それは鳴弦館も鳳城も同じはずじゃが。あと、かぐやさんに感じたんじゃが、麗霞さんを超えたいという迫力がひしひしと伝わる。ちょっとつぐみに似てるな」
つばめに視線を向けながら、祖父は続けた。
「つばめさんはもう一度、お姉さんとの対戦がある。きっとつぐみは雪辱に燃えておるじゃろう。受けて立つ方はどうじゃ?」
つばめは少し意外な答えを返した。
「もう、一回超えたから、なんだか満足しちゃってるかもしれません」
「でも今回は団体戦にもエントリーしているし、頼むよ、つばめ」
栞代の励ましに、つばめは何かを考え込むような表情を見せた。その様子を察した紬が、なぜか突然口を開いた。
「それはわたしの課題ではありません」
「い、いや、そりゃそうだろ」
栞代のツッコミに、部屋中に笑い声が広がった。
夕暮れの誓い
リラックスと集中。
祖父はそっと呟きながら、みんなの表情を見回した。
「みんな、頼んだぞ」
その言葉の背後には、表面的な激励を超えた深い祈りがあった。孫娘の夢の実現を、そしてこの素晴らしい仲間たちの健闘を、心から願う老人の静かな想いが、夕暮れの部屋に優しく漂っていた。
「おじいさん、一つお願いしてもいいですか?
「なんじゃい、つばめさん。何でも言ってくれよ」
「優勝したら、わたしも呼び捨てにしてください」




