第214話 練習試合開始。
鳳城高校、鳴弦館高校、そして光田高校――今や名実ともに高校弓道会のトップ三校が揃う。静まり返る道場に揃い、合同練習試合がいよいよ始まろうとしていた。
空気はぴんと張りつめている。弓道場に張られた白い幕、のれん。そこにつながる廊下には三校の生徒たちがずらりと並び、息を殺しながら一礼を待つ。
三週間後に控えた全国大会に向けての、最後の実戦練習だ。この練習試合に向けての各校の思惑もそれぞれであった。
慣れ親しんだ弓道場で迎え撃つ鳳城高校は、全国大会出場メンバーをそのまま、そして、セカンドチーム、サードチームも、一切の忖度のない、実力第一主義で選んだメンバーが試合に挑んでいる。
対して光田高校は、選手の組み合わせ、弓道部として全体の団結を示すため、そして今回の全国大会のみならず、夏の高校総体を睨んだ組み合わせで挑む。
鳴弦館高校はその中間とも言えた。全国出場チームの最後の一人の選考を主体に取られえていた。
それぞれの高校のトップチームが揃う。
光田高校は、栞代、楓、杏子。
鳳城高校は、雲類鷲麗霞、的場・アナステシア、曽我部瑠桜。
そして鳴弦館高校は、篠宮かぐや、真壁妃那、桐島舞鈴。
試合前、緊張で色をなくしていた楓に、栞代は、オレだけ見とけ、といい、杏子は、
「ちゃんと見てるからね、楓。一番綺麗な姿勢を見せてね」と笑顔を見せた。
「あたるかどうかは、たまたま、よ」
そういえば、一番最初鳳城高校との練習試合、杏子はもうガチガチだったのに、弓を握ったとたんに落着き払って、しかもいきなり的中させたな。最初から宇宙人だったな、杏子は。
栞代は、少し懐かしく思い出していた。
鳳城高校の陣営は、まさに風格そのものだ。雲類鷲麗霞は凛と足を止め、的を見据え、他の選手たちもまた全身全霊で的前に立っている。的場アナスタシア、曽我部瑠桜が背筋を伸ばし、たしかなる緊張と集中の波動が漂う。
鳴弦館高校は、篠宮かぐや、真壁妃那を中心にまとめられた布陣。
特にかぐやは、蓄えられた不安定さを内に秘め、しかしその眼には澄んだ光が宿っていた。話題になった雑誌記事の影の重圧をものともせず、むしろそれがこの場を引き締める養分になっているような、静かな気迫がある。充実した練習をしてきたことを伺わせる。
一射め。栞代、雲類鷲麗霞、篠宮かぐや、錚々たるメンバーの揃い踏み。誰もが自らの射を丁寧に見せて、全員的中。
姿勢だけ、姿勢だけ。呪文のように繰り返した楓は、栞代に続き、見事に的中させた。
この緊張する場面で当ててくるとは。栞代は感心する。
そして杏子。今までは正しい姿勢のことだけを考えていた。そして、それは全ての場面で杏子を支えてくれた。だけど今は、姿勢という形式を超え、技術という枠組みを超えて、これまで歩んできた全ての道のりが、一つの美しい調和として結実している。
技術も、意識も、精神も、すでに全ては矢に込められていた。
積み重ねてきた全ての時間が、静かに結実している。
弓を手にする時、杏子はもう何も考えない。考える必要がないのではなく、考えることを超えた場所で、自然と身体が動いている。
無心になろうと努めるのではなく、無心という安らぎの中で、自分自身を自由に表現している。
矢は杏子の今の姿が描く、最高の自分の表現だ。背伸びをする必要もない。縮こまる必要もない。そのままの姿でいい。いや、むしろ、そのままの姿しか表現できない。
それでいいのだ。ただ純粋な歓びだけが宿っていた。
彼女が生きてきたすべてが、「矢」として結晶化していく——そんな射。
観る者はただ、息を呑むしかない。
そこには、技も心もなく、ただ“杏子”そのものが、あった。
すぐ後で見ていた麗霞は、杏子が何かを乗り越えてきたことを感じた。そして、今までは確実にあった距離が、完全に無くなったことを悟った。そしてほんの一瞬、微笑んだ。
確かに驚異。静けさの中に己の全てを溶かす、まるで空気のような射。
比べるでもなく、打ち負かすでもなく、ただ、射場に自身の“存在”そのものを置く。
勝負に拘るかぐやは、好敵手と思うけれど、杏子はもはや敵ではなかった。共演者だった。
その衝撃は、曽我部瑠桜がまともに受けたようで、的を外す。
瑠桜は――その矢に、心を撃たれた。
圧倒された。飲み込まれた。
そして、矢は外れた。
杏子の矢が“感動”をくれたからこそ、自分の射が乱れた。
つまり自分はまだ、受け取るだけの感受性の中に生きている。
それは未熟の証であると同時に、伸びしろの証でもあった。
そして、的場・アナスタシア。
杏子の姿には胸が打たれた。けれど、それは彼女の中で“美”として処理された。
杏子の矢は儚く、美しい。
だが、自身が越えてきた痛み、母国と日本の文化の間で揺れた日々、家族を守るために流した涙、それらがアナスタシアの内面を、まるで鋼のようにしていた。
“感動した。でも、私の矢とは違う。この後も彼女の矢は、まっすぐに的心を射抜いた。微塵の迷いもなく。
結果的に、鳳城高校は、一本のみ外し、11本。
鳴弦館高校、かぐやは、杏子の射を見た。正面から。全身で。
だが、その瞬間に、自分の内側で「比較する」ことを封じた。彼女は自分は常に最強だと信じていた。絶対的な自信があった。比較など意味はない。
“あれはあれ、わたしはわたし”。まるで、通り過ぎる竜巻に背を向けるように。全く動揺を見せず、皆中した。
また、真壁妃那は、その衝撃を「芸術」として受け止めた。杏子の矢を“美しい”。だが、そのことと”強さ”は、また別の問題だ。逆に精神が研ぎ澄まされた。かぐやの方が強い。信仰心は揺るがず、また、そのかぐやに寄り添える自分への自信も揺るがなかった。
そして、桐島舞鈴。
鳴弦館高校弓道部の三番手、だが“無名の三番手”とは程遠い。桐島は、これまで大きな大会の表舞台に立ったことはほぼない。入学以来、個人戦には出ず、団体でも控えの扱いが多かった。なぜなら、彼女は「大会に出たい」と言ったことが、一度もなかったから。
もともとは鳴弦館の“練習の番人”と呼ばれていた。どんな環境でも、同じ射を、淡々と、冷静に、丁寧に、繰り返す。言葉少なく、感情を表に出さず、ただ的だけを見つめる姿に、部員の誰もが「舞鈴には何かある」と薄々感じていた。
そして昨年――部内でかぐやが退部、復帰、また混乱と、波乱が続いたその期間、
全ての空白を埋めていたのが桐島だった。誰かが崩れても、舞鈴の射だけは狂わなかった。練習試合で全的中を続け、不動監督も「一目見たい」と漏らしたほどだが、
本人は「別に」とだけ言って流した。
この選抜前、東雲監督が満を持して「本気でいく」と決めたとき、最初に名前を挙げたのが彼女だった。
東雲監督いわく――
「篠宮が天才、真壁が信頼、なら、桐島は“空気”だ。試合の空気を変えず、流れを断たず、すべてを整える。そういう存在。」
つまり、彼女は“動じない”のではなく、“世界そのものに干渉されない”、射の静寂を纏っているのだ。
鳴弦館高校はパーフェクトの12本的中だ。
三校のエースチームは、やはり、の実力を見せつけ、静寂に満ちた弓道場で、一射一射に込められた魂の対話が繰り広げられていた




