第207話 男子弓道部の快挙
ブロック大会、女子個人戦決勝の姉妹対決は、お互いの全てをかけて戦った、素晴らしいものだった。互いの全てを懸けて戦うという意味では、死闘という言葉が思い浮かぶが、そのような戦いではなく、お互いの魂と魂が響き合い、高めあう、誰もが憧れるような戦い、それは祈りにも似た時間だった。
互いの存在を認め合い、高め合うための、無言の対話だった。
矢が放たれるたび、会場に満ちるのは緊張ではなく、敬意と感謝の静けさ。
それは、勝敗を超えた、二人だけの美しい約束のような一戦だった。
見るもの全ての心を動かした。
光田高校女子弓道部は、それぞれに大きな思いを抱き、磐石の体制で全国に向うことになった。
一方、同じブロック大会で、男子チームもついに歓喜の瞬間を迎えていた。
ブロック大会・男子団体優勝――光田高校男子にとっては、滝本先生が顧問復帰後、初めて掲げる大きな優勝旗だ。
勝負が決まったあとの控室で、いつもなら悪ノリの先頭を走る松平清純と海棠哲平が、今日ばかりは言葉を探せず抱き合ったまま肩を震わせている。
これまで「銀ばかり」と揶揄され続けてきた男子チームの努力が、ついに結実したのだ。
「……優勝、したんやな」
海棠のぼそりとした一言に、松平は堰を切ったように泣き笑いを爆発させ、周囲の後輩たちが「松平さん酸欠っすよ!」と慌てて背中を叩く。
表彰式のあと、女子マネージャー・まゆから贈られた手作りのキーホルダーを受け取った松平は、またしても涙腺を崩壊させ、号泣。あの感動の抱擁を見せた海棠ですら、「いや、泣きすぎやろ……」とツッコむ始末だった。
あまりの大袈裟な嗚咽に、女子側の 真映 が眉をしかめる。「うわ、喜び方が限界突破やん……どん引きですよ」
男子の一角——自称〈まゆらー〉がざわめく。
だがその実、ガチ勢は松平一人で、1年生6人(松本湊大・高橋蒼大・佐藤匠真・中村壮太・鈴木遼介)は、先輩の手前、それっぽく歓声を上げているだけだ。
そこへ、1年生の鈴木遼介が「アベック優勝バンザイっっ!」と声を上げると、即座に真映が反応。
「アベックとか言うな!昭和か!」
一方、2年の 立川まこと・山下正士・一ノ瀬飛鳥、そして先ほど抱き合っていた海棠は、密かに ソフィア派。だがソフィアは女子優勝メンバーとして写真撮影の真っ最中で、近づこうとすれば、あかね・真映・一華の鉄壁ガードがすかさず立ちはだかる。
立川が「あ、挨拶くらい……」と視線を投げても、あかねが無表情に腕を組み阻止。真映も追い打ちで「ソフィアは全校の宝やで! 鑑賞は遠目からお願いします!」とニヤリ。
とはいえ、男子も女子も、頂点に立った同じ日を共有するのは初めてだ。
滝本先生はトロフィーを抱え、「次は全国で!」と満面の笑み。拓哉コーチと握手を交わしていた。
松平はまだ鼻をすすりながらも、まゆのキーホルダーを胸ポケットに収めて立ち上がる。
「みんなで撮ろうぜ! まゆさんと、ソフィア選手と、もちろん女子チャンピオン全員で!」
真映が「はいはい、写る前に顔洗いな涙男!」と背中をどつき、栞代は「あー……もうええわ、ほら並び」と半ば呆れつつも笑う。
西日に照らされた弓道場前。
男子の勝ち鬨と女子の笑い声が一枚のフレームに収まり、キーホルダーが揺れるたび、小さな刺繍の弓矢がきらりと光った。
ブロック大会が終わったあと、杏子が道場の匂いをまだ纏ったまま玄関をくぐると、ダイニングには湯気立つサツマイモのポタージュと、小ぶりのローストチキンが並んでいた。
「お帰り、優勝おめでとう!」──と足音を聞きつけた祖父が両手を広げて飛び出してきたが、次の瞬間、祖父の表情に微かな困惑が浮かんだ。
「あれ? 栞代は?」
「栞代もちょっと思うところがあって、一人になりたいみたい」
「そうかあ。栞代にも繊細なところがあったんだなあ」
「怒られるよ。栞代は誰よりも繊細で人の気持ちが分かる優しい気持ちの女の子なんだよ」
「──うぐっ」
杏子の手刀ツッコミが素早く額にヒットした。
「ぱみゅ子が先に怒っとるやん」
その暖かい声に笑顔を向けながら、杏子は、部屋に入り、着替え、日常に戻って行った。
「先にお風呂に入ってらっしゃい」祖母の優しい声に従い、杏子は一日の疲れと緊張を湯船で洗い流す。温かな湯に身を委ねながら、今日一日の出来事を静かに振り返った。つぐみとつばめの姉妹が見せてくれた、魂と魂が響き合うような美しい競射。あの瞬間、杏子の心に新たな光が差し込んだのだった。
食卓に向かうと、祖母がレースのテーブルクロスを丁寧に整えながら、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「杏子、優勝おめでとう」
「うん。あ、ありがとう。でも、わたし、今日は決勝戦も出なかったし、個人戦にも出なかったんだよね」少し寂しそうな表情を浮かべたが、
「それでも、今日はぱみゅ子にとって、とても意義深い日になったな」
祖父がそう言うと、祖母もゆっくりと頷き、「次の試合では、きっと新しい杏子に出会えるわね。見逃せないわ」と静かに語りかけた。
杏子の胸の奥で、温かな感謝の念が湧き上がる。初めて弓を手にした幼い日から、基礎練習に励んだ長い月日まで、どんな時も変わらず見守り続けてくれた祖母の存在。その愛情の深さを改めて実感した杏子は、心からの言葉を紡いだ。
「うん。必ず見に来てね」と言った。祖母は慈しむような眼差しで頷き返す。
そして、雰囲気を変えるべく、
「それじゃ、おじいちゃんは食べる係ね。杏子はスープをよそってあげて」
祖父は張り切って鶏肉を丁寧に切り分けながら、愉快そうに声を上げた。
「むむ、この胸肉の柔らかさといい、この香ばしさといい、まさに的の中心を射抜いたような完璧な焼き上がりですな!」
「お味の中心?」杏子が思わず笑みを浮かべると、祖母はティーポットから琥珀色のダージリンを注ぎながら、優しく諌めた。
「少しは弓道から離れたら?」
食卓には、サツマイモのポタージュが立てる甘やかな湯気と、焼きたての鶏肉から響く微かな音が漂っている。杏子はスプーンを持つ手を一瞬止め、静かに呟いた。
「今日のつぐみさんとつばめさんの競射は、本当に美しいものでした」
「今日のつぐみとつばめの試合は、本当に素敵だったな」
「そうね」祖母が穏やかに相槌を打つ。
「わたしもあんな試合をしてみたい」
祖母はまた、黙って黙って頷いた。
祖父は鶏の骨を丁寧に外しながら、茶目っ気たっぷりにウインクを送る。
「見えたなら撃て。弓は嘘つかんからのう」
「今、いいこと言ったと思ってるでしょ?」祖母と杏子が声を揃え、食卓に温かな笑い声が響いた。
その笑い声が立ち上る湯気に溶け込みながら、夜は静かに更けていく。
杏子の心に、新たな想いが芽生えていた。
早く弓を引きたい。
それは、初めて弓を手にした時の、あの純粋で真っ直ぐな気持ちそのものだった。




