第204話 ブロック大会団体戦決勝へ
「コーチ、杏子に何言ったんだよ。もう何言っても、弓さえ握ったら宇宙に行くんだから、無意味なんだよ」
栞代がコーチに詰め寄った。語調を丁寧にする余裕もなく、その眼差しには静かな怒りが宿っていた。
「次したら、杏子のおじいちゃんに言うぞ。おじいちゃん怒らせたら見境ないぞおっ。杏子のためなら、日本ごと沈没させるからな。」
言葉こそ誇張に満ちていたが、栞代の抗議は真剣そのものだった。
緊張を与えようとしても、まったく意味がない。普段の杏子が怯えるだけだから。普段の杏子を怖がらせて、意味なんかない。ずっと見守り続けてきたコーチが、それを理解していないはずがないのに——そんな思いが栞代の言葉を熱くした。
「栞代さんは、ほんとに保護者なんやなあ」
言葉は受け流しつつ、コーチは呆れ顔だ。
「ソフィアは杏子のコピー機になろうと必死だから、弓を引く杏子見たら強制的に心が落ち着くしかないし、紬はそもそも弓を引く時の感情がどこに宿っているのか、全くワカランし・・・・・。
まあ確かにそう考えたら、変なやつらばっかりだな」
栞代もコーチと同じくあきれ顔になる。
「わたしを入れてやっと世間の常識人としての平均値に達するということですなんですよ、コーチ。やっばり人選間違えてますよ。光田高校の名誉を考慮しないと」
「真映、お前は部内試合で負けたんや」
「あ~。あの日は、お腹痛かってん。お腹の調子さえ万全やったらなあ。部長をびびらす弓を引けたのに」
「お腹が痛くない時は、頭が頭痛になんのやろ? 真映は特別やから、足が頭痛になんのかもしれんな?」と、あかねと真映のやりとりが続いた。
「まあ、君たちを緊張させるのは無理だと分かったよ。逆に、全国の舞台で君たちが緊張するのか、楽しみになってきたぐらいだよ」
「そう言われると、杏子が怯えながら弓引くの、見てみたい気もするな。でもそん時は、地球が滅びるかもしれん」と、栞代が受けた。
「それから、準決勝のもう一試合、千曳ヶ丘と紺碧第一は、激しい競射の末、千曳ヶ丘が勝った。
振り返ると、千曳ヶ丘は、全部競射で勝ち上がっている。
接戦を振り切ると、精神力は著しく成長するものだ。そしてそれは弓道において、最も重要な要素だ。なんせ、精神力のスポーツだからな」
とはいえ、技術力の裏付けは絶対に必要だけど。拓哉コーチはこの言葉は喉の奥に留めた。技術力は磨き上げている。
「だから杏子は恐いんだよな。精神力とか超越してるもん。だって、杏子に精神力全然ないぜ。なのに動じない。絶対宇宙人だ」
栞代は杏子に目をやり、可笑しくなった。
コーチは続ける。
「今更ながら、小鳥遊つぐみさんの底知れぬ力にも驚いた。
もちろん、団体戦は一人の力で勝てるほど単純じゃないが、それでも、あの気迫、完全に元の状態に戻ってる。
ある意味、君たちにとっては、鳳城高校や鳴弦館高校に匹敵する強敵といえる」
「そしてそんなつぐみさんをスカウトした俺の目はなんと確かなんだろう。って、コーチ、今思ってますねっ」あかねが茶々を入れる。
「君たちは、もう少し、礼のこころを深く胸に刻み、目上の者を敬い、慈しみを持って接することを学ばねばならん。武道の道は、強さだけでなく、誠実さと謙虚さを育てるものだということを忘れてはならない。私は自信を無くしたよ」
部長の杏子を先頭に、全員が頭を下げる。
今日の拓哉コーチは実によく話すな。栞代を始め、弓道部員は皆思った。
「それでは、間もなく決勝が行われるんだが、決勝戦のメンバーと立ち順の発表をする」
決勝はそのままソフィアで行くのか、紬を入れる予選の時のメンバーに戻すのか。それとも続けてオレが外れるか。誰が出ても杏子が居たら問題ないな。
栞代はコーチの声に耳を傾けながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
拓哉コーチの声は、特別な感情の起伏を感じさせない、いつもの平静な調子だった。拓哉コーチ自身、そもそも感情の変化がそれほど激しくない人なのだ。栞代が杏子をことを思い目を細め、ソフィアは思わず背筋を伸ばす。紬だけは相変わらず「それはわたしの課題ではありません」とばかりに、いつもの無表情だ。ポーカーフェイスというより、無感情という言葉がふさわしい。
「大前には、栞代さん」
「はい」
「中に、ソフィアさん」
「kyllä(キュッラ)」
コーチは一拍置いた。ソフィアに経験を積ませることを第一に考えたんだな。まあ、紬はここでの経験が無くても、いつも変わらないだろうな。栞代がそんなことを思った瞬間
「落ちに、紬さん」
え? 部員たちの間にざわめきが起きた。
「え? 杏子は?」珍しく紬自身が声をあげた。
「決勝では杏子さんは外れてもらう」
え? 部員たちは再び騒然となった。
もちろん、ブロック大会では、経験を優先させるため、杏子が外れる場面もあった。だが、重要な決勝で杏子が外れるなんて、誰も想像していなかった。
光田高校弓道部は、今や明らかに杏子の部であった。
杏子が外れるなんて。全員がそう思った。
そして、驚いたことに、最初に抗議したのは真映だった。
「……ちょ、ちょっと待って!コーチ、それ、ホンマに言ってるん!? 時期外れのエイプリルフール?かなんかなん?」
「わたしがたった今、目上のものに対する態度を伝えたはずだが」コーチの目線は変わらなかったが、そのことが帰って迫力を増した。
場の空気が凍りついた。普段、絶対に強制したりしないコーチ、そして、普段なら「変わりに出るならわたしやろ~っ」とヘラヘラしながら言いそうな真映の目は、まっすぐにコーチを見据えて、一歩も引いていなかったいた。
「部長抜きの、決勝って? いやいや、それ、光田高校弓道部ちゃいますやん。
うちら、杏子さんの弓見て、ここまで来たんやで?
誰もそれ口にせんけど、全員、心の中では“部長がいるから大丈夫”って、思ってるやん……うちらが所属してるんは、弓道部やなくて、杏子部やねん!」
一瞬、言葉を探して、真映は拳をぎゅっと握りしめる。
「部長は……あの姿勢、あの背中、あの集中……宇宙人言うけど、もう、ほぼ精霊。天から舞い降りた射の女神。そんな人が引いてるの見たら、誰だって心が震えんねん!
ソフィアさんも紬さんも栞代さんも、みんな、部長が居てるから安心できるんやん!」
もちろん表面だけとは分かっていたが、いつもは杏子を倒したい、超えたい、と口癖のように言う真映から、こんな言葉が出てくるとは。
あかねと栞代が、真映を制止しようとする。
「おい、落ち着けって」ソフィアが真正面から真映を抱きしめる。胸元に顔を埋め、口を塞いだ
拓哉コーチは、静かに、淡々と続けた。
「これまでも杏子さんが抜けたあと、みんなでその穴を埋めようと何度も頑張ったことがあっただろう。夏の総体がまさにそうだ。だから君たちは大丈夫だ。それに、杏子さん抜きでも、ブロック大会に優勝できないようじゃ、全国での優勝なんて、夢のまた夢だな」
今大会は、ほんとに拓哉コーチらしくなく、煽ってくるな。
総体では確かに杏子が居ればと何度思ったか分らない。杏子は自主的に出場を辞めたのと同様だから、コーチはそのことで、怒ってるのかな? いや、まさか。そんな人じゃない。
確かにコーチの言葉はその通りなんだ。杏子が居ない。その分、結束して頑張ったのは事実だ。だが、今回はそもそもまるで意味が違うじゃないか。
栞代は冷静にコーチの思惑を探ろうとした。
そして、杏子を見た。
コーチに頭を下げ続けている。
そして。
顔を上げた杏子の表情。
どこか心の重荷が降りたような安堵の表情を浮かべていた。
その表情を目にした瞬間、栞代は直感的に理解した。
そうか。
つぐみだ。
弓を持たせたら宇宙人とも評される杏子の唯一の弱点だ。
同門対決、相手の事情を知ると、とたんに集中できなくなる。
個人戦では、自分さえ諦めればそれで済んだ。自分が結果を引き受ければいいだけだ。
それでも、いつも辛そうにして、おばあちゃんとおじいちゃんが支えていた。おばあちゃんの「無心に姿勢だけ」を守れなかったから。当たるかどうかじゃない。姿勢のことだけを考えられなくなったことへの後悔だ。
だが、今回は団体戦だ。オレもソフィアも紬も居る。絶対に杏子はいつもの杏子であろうとするだろう。
だが、試合後、杏子は苦しむに違いない。
オレやソフィア、紬のためにつぐみを倒したと苦しむに違いない。だからと言って、集中を失い、逆の結果になれば、つぐみのために、オレやソフィア、紬を、そして光田高校弓道部全員を裏切ったと、杏子なら思うだろう。
杏子は――前に出る子じゃない。
でも、弓だけは、別だった。
それは祖母の夢。果たせなかったその想いを、自分の手で叶えたい。祖母がお願いした訳でもなんでもないのに。その一点だけが、杏子を動かした。気弱な心に、一本だけ差し込まれた芯のように。そもそも出発点から、人の気持ちを汲もうとしていた。
杏子は、人の痛みを、自分の痛みのように感じる。
誰かが怪我をしたら、杏子の心が痛む。誰かが泣いていたら、自分も泣きそうになる。誰かの悩みを聞けば、夜眠れなくなる。
そして――相手のことを「知れば知るほど」、集中できなくなる。
ライバルに対してもそうだ。だが、それはまだ「祖母への思い」で覆い隠せていた。
だが、寝食を共にするほど、時間を過ごした相手には、とても無理だった。
杏子には、それができなかった。
そしてそれは――祖母の教えとは、真逆のものでもある。
姿勢のことだけを考える。あとのことは全て、たまたま。
それができない。
まあ、そんな杏子だからこそ、ほっとけないし、支えてやりたくなる。
優しすぎる故の弱点。今の杏子には耐えられないかもしれない。コーチはそのことを憂慮したんだ。いつかは越えなければならないとしても、今は負担が重すぎる。
紬やあかね、まゆ、杏子と付き合いが長い2年生には、コーチの思いが分かったようだ。
一年生とソフィアは、納得いかない表情ではあったが。
まあ、仕方ないな。夏のブロック大会では決勝で負けてるだけに、今度こそ、と思う気持ちもあるだろうし。そういった思いは、見ているものの方が強かったりするものだ。
「言っておくが、負けるつもりはない。絶対にここで優勝して、全国に繋げるんだ」
コーチは、冷静に言い放った。
緊張した状況で試合をさせたい。最終的にコーチのその思惑通りになったという訳だな。
考えれば去年の選抜大会、今年の総体、杏子の分もと思って、オレも随分強くなってるよ、確かに。
コーチ、杏子の夢を叶えるためにも、絶対に優勝してやるぜ。




