第203話 ブロック大会団体戦決勝トーナメント その2
大会は、団体戦の準決勝を迎えた。
光田高校は浪都の強豪校、岸和田産大高校。もう一つのカードは、千曳ヶ丘高校と、今大会波に乗ってる紺碧第一高校。
今大会、今まで一言ぐらいしか声をかけなかった拓哉コーチが、生まれ変わったかのように、選手たちに声をかけていた。全国優勝するためには。そのことを最大の目標にし、プレッシャーの中でも真価を発揮できるように、との思いからだったが。
試合直前、控え室の空気は思いのほか、生ぬるく澱んでいた。
まるで大きな試練を前にした者たちの不安が、そのまま熱となって部屋に滞留しているかのようだった。
「……はぁぁ……ヤだ……ヤだ……」
杏子は部屋の隅で体育座りを続けながら、震える指先で自分の膝を撫でていた。その表情は、突然の災厄に遭遇した小動物のように不安げだ。
栞代は杏子の様子を見て、いったい拓哉コーチは何を言ったんだと訝しがった。なんとか杏子を緊張させたいって言ってたけど、ずっと杏子を見てきて、それが無駄だって分らないのかな。緊張というか、怖がらせてどうする。どっちにしろ、弓を握れば変身するってのに。
可哀想な杏子。試合が終わったら、コーチに抗議してやる。
絶対に杏子に触れるな、と言われたが、知るか。
栞代はそっと杏子の横に座り、肩を抱き、大丈夫、大丈夫、と身体を揺らした。
杏子の顔は青白く、誰もが「今から買い物でも?」と錯覚するほどに戦う気配が感じられない。だが、それが杏子だった。弓を握るまでは。
ソフィアはその隣で、祈りにも似た呟きを繰り返していた。「キモチノカタマリ……ヤスラカナココロ……セイシン トウイツ……」と、たどたどしい日本語の呼吸法を唱えながら、頭の中では母国語のフィンランド語、習得途中の日本語、英語の断片、そして昨夜見たアニメの主題歌までもが絡み合って混沌としている。額に浮かんだ汗の粒は、もはや青春の証というより、精密機械の冷却装置から漏れ出した雫のように見えた。
一方、紬は壁に背を預けたまま、「それはわたしの課題ではありません」と小さく呟いていた。おそらく、その言葉すら意識の表層に浮上する前に発せられたのだろう。表情というものが完全に消失し、ただ眼鏡のレンズが時折反射する光だけが、そこに人がいることを示していた。「紬、どう?」と声をかけた栞代に対し、紬は「それはわたしの課題ではありません」と答えた。
いや、あんた今から試合に出るんだけど?
と栞代はあまりのいつも通りの姿にあきれ返った。
そして、ついに杏子が立ち上がった。
手に弓を握った瞬間――世界が変わった。
重力の方向が、彼女の周囲だけ異なる法則に従うかのように。空気の流れも、音の伝わり方も、観客たちのまばたきでさえも、すべてが静寂の中に封じ込められたような錯覚に陥る。
もうそこには、膝を撫でていた不安げな少女はいない。代わりに立っていたのは、背筋を真っ直ぐに伸ばした「弓道の化身」とでも呼ぶべき存在だった。まるで古の武士の魂が現代によみがえったかのように、あるいは弓という道具に宿る精神そのものが形を得たかのように。周囲の誰もが、その立ち姿の美しさに思わず息を詰めた。
弓を引く。
矢が放たれる。
弦の震える音――そして的に刺さる鋭い音。
それだけで、空気そのものが振動した。
観客席のどこかから「すごい……」という感嘆が漏れ、見つめていた杏子の祖父は静かに涙を流し始めた。
その背後で、ソフィアは「Kyoko、あなたはオソロシイ人」と呟いた。緊張で小刻みに震える手は、杏子の放った空気が届いた瞬間、ぴたりと止まった。ソフィアが放った矢が見事に的を捉えた時、ほんの一瞬だけ杏子に視線を向けて微笑んだ。「あなたの横は本当に暖かい」―
そして最後に、紬の番が来た。
無表情のまま、感情を読み取らせることなく、しかし矢は冷静に、正確に、一切の迷いもなく的の中心を射抜いていく。
一本、また一本。機械的とも思える正確さで。
まるで精密に調整された時計のように、予定された結果を確実に刻んでいく。
観客のどよめきも、プレッシャーも、紬には届いていないようだった。最後の一本を放ち終えても、一切の変化が無かった。
結果は僅差の勝利だった。10対9。
しかし、その数字の背後には「魂の叫び」「仲間への愛情」「冷徹な集中力」「青春の汗」という、計り知れない価値が込められていた。
コーチの拓哉は、その一部始終を見つめながら悟った。
「この子たちには、作為的なものは何一つ通用しないな」
何もしていないように見える杏子が、結局は全ての中心で、安心を与え続けていた。
そして、もう一つの準決勝。
これも激しい試合になった。勢いに乗る両校は互いに一歩も譲らぬ激戦となった。
特に千曳ヶ丘高校は、つぐみのワンマンチームと見られていたが、つぐみがひっぱりことにより、この大会中にどんどんメンバーが成長しているようだった。
対する紺碧第一も一歩も譲らず、競射の最初は、互いに全員的中という激しさだった。
だが、三週めで雌雄は決する。
一つ図抜けた力を発揮するつぐみが、やはりエースの意地を見せ、勝負を引き寄せた。
これで、決勝のカードは、光田高校対千曳ヶ丘高校となった。
弓道は、精神集中、呼吸、姿勢といった非常に繊細な要素が結果に大きく影響する。
一射ごとに精神状態や体調、その日のコンディションが反映されやすく、同じ選手でも日によって大きく成績が変動することが普通だ。
特に高校生女子の場合、精神面が成長段階にあり、緊張やプレッシャーの影響を受けやすいことから、安定した結果を出し続けることが難しいと言われているし、結果が示している。
精神的な強さやその場の集中力が大きく結果を左右する競技であるため、安定して勝ち続けること自体が非常に難しいスポーツなのは間違いがない。
だからこそ、光田高校の安定感は、杏子の安定感と共に異常ともいえた。その反面として、弓道という性格上、十分に実力のある千曳ヶ丘が勝ち進んだこと自体は、まったく不思議でもなんでもない。
拓哉コーチは観覧席の手すりに肘を掛け、スコアボードの数字が並び替わるたび胸の奥が微妙に上下するのを感じていた。振り返ると、接戦ではあったが、光田高校が危なげなく決勝へ駒を進めるのは織り込み済み――にもかかわらず、千曳ヶ丘の快進撃がそこへぴたりと追いついてきた瞬間、鼓動が一段大きく跳ねた。
つぐみの矢は、あの厳敷で削られた時間を埋め合わせるかのように鋭く、なおかつ柔らかい。杏子は相変わらず“軌道に余計な振動が一切ない”としか形容できない端正さで、的の中心を穿つ。どちらも――いや、どちらこそ全国の頂へ向かうためにある射だ。
あの二人は、光田高校在籍時から、競い合っていた。主につぐみだが、杏子を越えようと必死になってた。
拓哉コーチはつぐみはずっと見ていたから、変遷の一つ一つが分かる。一方が、杏子は突然に現れ、抱いていた常識を全て覆す存在だった。
二人とも、拓哉のコーチ人生に置いて、決して忘れられない存在だ。 胸の奥に湧くのは高揚か、あるいは奇妙な痛みか。
杏子とつぐみの巡り合わせを思うと、勝敗だけでは測れない“何か”が確かにその的の先で待っている、と直感できた。
光田高校のコーチとして、光田高校が優勝する最善手を考えなくてはならない。
――しかし、一人の大人としては、二人がこの舞台でしか交わせない言葉を矢に託し切る瞬間を、見届けたいとい気持ちもある。だが――
拓哉は深く息を吸い、手すりから離れた。高鳴る鼓動を押さえるでもなく、そのまま胸に残した。
同門対決に弱点を抱える杏子。今までは個人戦だったから、その弱点を受け止めることもまた可能だったに違いない。
だが、団体戦になった時。しかも相手はつぐみだ。
引き裂かれる思いがあるだろう。それは杏子にとって、栞代、ソフィア、紬のために、つぐみを倒せるかということでもある。
おそらく、団体戦のメンバーとして、的前に立てば、いつもの杏子になるだろう。そして、それは、優勝するために必要な選択に違いない。
だが――。弓を離した時、今の杏子は何を思うのか。
拓哉コーチは、目の前の優勝の輝きよりも、杏子のこれからを思い、胸の奥がきしむほどの苦渋の選択を下す。




