第200話 ソフィア宅で
ブロック大会のメンバー表が一華によって貼り出された時、ソフィアは掲示板の前で跳びはねた。
「Kyoko!私、予備メンバーに登録されたっ」
実はつばめが個人戦に専念したいということで、団体戦の登録メンバーから外れた。
杏子は、前もって拓哉コーチから、あかねではなく、経験のためにソフィアを予備メンバーとして登録する、と言われていた。
拓哉コーチは、全国大会優勝を本気で狙う強豪校としては、選手層の薄い光田高校にあって、選手としての経験をソフィアに積ませたいという思いがあった。
選手としての登録は始めてではあったが、ソフィアは恵まれた体格と真面目な練習態度で、実力を蓄えていた。
そしてそれは、一心に杏子に憬れ、杏子の練習態度をひたすら真似し続けた結果でもあった。長い基礎練習も嫌がらず地味な練習を続けられたのも、杏子の足跡を辿っているという思いがあればこそだった。
基礎練習をずっと一緒にやってきた楓は、自分のことのように喜び、真映が「きゃーっ」と歓声を上げ、栞代が頷いて笑う。仲良しの紬も、いつもの無表情が崩れ、笑顔になっていた。このときばかりは、いつものセリフは出なかったようだ。
杏子が「Onnea,Sofia!」(おめでとう、ソフィア!)」と、紬に聞いて覚えたての言葉で伝えると、ソフィアが「Kiitos paljon, Kyōko!(ありがとう、杏子)」 と大きな目をくるくるさせた。
そして楓がiPhoneを見せた。そこには、絶えずソフィアと楓のことを気にかけ、連れ添って共にに歩んでくれた瑠月が居た。
「ソフィア、おめでとうっ。今度練習を見に行くね」と瞳が潤んでいた。
「Kiitos paljon, Ruka!」
その様子を見ていた真映は
「あっ。忘れてたっ。コーチ、なんでわたしじゃないんでしょう?」
いつもの真映に戻って叫んだ。そしてあかねが、
「わたしも真映と一緒に出場するのが夢だよ。がんばろうな、二人で」としんみりと受けみんなを笑わせた。
その日、練習が終わると、ソフィアが杏子に声をかけた。
「Kyoko! 今日ちょっとだけ家に来て欲しいんだけど?」
「え?」
「Ukkiが、是非ともKyokoにお礼が言いたいって! 」
「Ukkiはおじいちゃん」横で紬が無表情で通訳してくれる。
「でも、ソフィアが頑張ったからで、わたしなにもしてないよ?」
ソフィアは真っすぐ杏子を見つめながら、少し照れくさそうに笑った。
「Ei se ole totta, Kyoko.」
彼女は一歩前に出て、杏子の腕を掴みながら言った。
「Minä haluan tulla sinun kaltaiseksesi. …それが、わたしの tavoiteなの。」
「違う、杏子、あなたになりたいの、目標だから」紬が横で通訳を続ける。
そして、軽く首をかしげながら微笑む。
「Ukkiにも、それを話したらすごく喜んでね。‘お礼を言いたい’って」
少し小声になって、きゅっとスカートを握る。
「だからお願い、Kyoko。tule meille käymään, edes hetkeksi」
「少しでいいから、来て」紬が続ける。そして。
「ソフィアの祖父、エリックは、杏子のおじいちゃんと同類。ソフィアが可愛くて仕方ない。違いは杏子のおじいちゃんは紅茶。エリックはコーヒー党。ここは行くのが良き」
紬の解説が入る。
杏子が少し困った顔をしていると、紬がそれを察したように
「それはわたしの課題ではありません」と無症状で告げた。
そのやりとりを見ていた栞代が紬の頭をくしゃっとしながら
「杏子、おじいちゃんに連絡してちょっとだけ行こ。オレと紬は、なにか買い出ししてから行くから、先に行ってて。ソフィア、オレも行っていいかな?」
ソフィアの目がさらにキラリと輝いた。
「Tottakai!! 栞代ありがと! Ukki も iloinen だし、Kyllä, kyllä! 」
嬉しさのあまり手をぱんっと叩いて、栞代の腕を両手でつかむと、ぐっと近づいて、
「Pikku juhlaにしよう! mummo に suomalainen kakkuお願いしてあるの! だから、たのしみにしてて!」
「おじいちゃんも喜ぶ。パーティする。おばあちゃんがケーキだす」
心なしか、紬の訳が簡略しているようだが、意味は十分伝わった。
そして続けてソフィアに言った。
「"Sofia, Kyoko menee. Huoltaja Shioriko antoi luvan."」
二人は目を合わせ、楽しそうに笑った。
「おい、分かるように言ってくれよ」と栞代が言うと
「それはわたしの課題ではありません」
紬のお決まりのセリフが返ってきた。
(杏子は行くよ。だって保護者の栞代から許可が出たからね)
"Tervetuloa, neiti Kyoko."」
玄関で迎えたのは長身の老人――エリック・ヴィルタ。銀髪をきれいに撫でつけ、深い湖を思わせる青い瞳が柔らかい。隣には笑顔のリーサ夫人。
杏子が頭を下げると、エリックは両手を合わせる日本式のお辞儀で返した。
「”Sofia on aina haaveillut siitä, että saisi vetää jousen yhdessä kanssasi. Kiitos.”」
杏子が戸惑っていると、エリックが
「ああ、ごめんなさい、杏子さん。わたしも興奮すると、ついつい。
ソフィアはあなたと試合に出るのを夢見ていました。それが実現したのも、あなたのおかげです」
「いえ、エリックさん。全部ソフィアの努力の成果です。あの、それより、高校総体の時のことを、改めてお礼を言いたくて。本当にありがとうございました」
「いや、それはもう何度も聞きました。それにあれはあなたのおじいちゃんが面白かったから協力したんです。もう終わったこと。それより、今日は楽しんでください」
そう言ってリビングへ通されると、山葡萄のジュースとシナモンの香るプッラが用意されていた。ソフィアはクッションを抱えてソファに跳び乗る。
祖母のリーサが、ケーキを運んできてくれた。
エリックはコーヒーを淹れてくれた。
そして話しだした。
ソフィアが少し釘を刺す。
「Ukki、杏子にケーキをゆっくり食べさせてあげてよ」
エリックは目を細めつつ、続けた。
「わしが日本に惹かれたのは三十年以上前だ。初めて『能』を観た夜、あの静と動の呼吸にフィンランドの森を思った。そして言語にも不思議な親近感を抱いたんじゃ」
「言語の親近感、ですか?」
「たとえば――」エリックはテーブルに人差し指で“KITE”と“KIITE”を書き分ける。「英語の友人たちは、この二つを発音でも聞き分けでも苦労する。だが日本人もフィンランド人も、母音が二つ続けば長さで別の音節だと直感する。わしらは“仲間”なんじゃよ」
杏子の目が丸くなった。
「たしかに、“来て”と“聞いて”は全然違います」
「うむ。フィンランド語にも『tuli(トゥリ=火)』と『tuuli(トゥーリ=風)』のように、母音が一つ伸びるだけで意味ががらりと変わる単語が山ほどある」
ソフィアがクッションの陰から顔だけ出す。
「tuoli(トゥオリ=椅子)もあるよ。風に座っちゃダメだけど、火に座るのはもっとダメ!」
杏子が吹き出し、リーサが目を細めた。
エリックは笑みを浮かべ、今度は“tapa”と“tappa”を紙ナプキンに書く。
「母音だけでなく子音を二重にすると、意味も発音も変わる。tapa は『習慣』。tappaは『倒す、仕留める』。日本語でも『さか(坂)』と『さっか(作家)』のように促音が意味を分けるじゃろう? この“長さと詰まり”を区別できる耳は、世界では意外と少ないんだ。
この感覚が日本人とフィンランド人の『秘密の共通鍵』なんじゃよ」
ソフィアは肩をすくめる。
「ほらね、ちょっと退屈でしょ?」
「ううん、面白い」杏子は首を振った。
エリックは調子に乗って
「日本人にもフィンランド人にも母音が全部「あ・い・う・え・お・う・ゆ・お・や・え」…みたいに独立してて、子音とくっつかないから、どちらの言語も「あいうえお」の発音感覚が大きくズレないんだよ」
「ダメ、杏子、ケーキ食べよ」
とソフィアは、杏子の手を取り、テーブルの端へ連れて行き、ケーキを目の前に置いた」
「お、おい、Sofia、ほかにも、音節リズムが似てるとか、子音クラスターが少ないから人の名前の発音とかは容易とか、あるんだけど」
と名残惜しそうに話すエリックおじいさんの姿は、どこかおじいちゃんを思い出して、微笑む杏子だった。
「でもやっぱり、わたしもエリックも一番感謝しているのは、杏子のビデオを見たSofiaが、日本に来るという決心をした、ということね。Kyoko、ありがとう」
「いいえ、わたし、何もしてません」
胸の前で恥ずかしそうに手を振る杏子に
「Kyokoは、自分の弓がどれほど勇気を与えてくれるか、全く気がついていないのよね」
とソフィアは笑った。
「でも、ちゃんとそれを受け取るだけの感性がSofiaにはあったことが重要じゃ。さすがこのエリックの孫じゃ。」
その言葉にソフィアの頬が赤くなり、リーサがそっと孫の背をさすった。
「エリックさん、フィンランド語と日本語、今度は違うところを教えてください」
と杏子が言うと、エリックは目を細めて
「いやいや、Kyoko、君は本当にいい子じゃのう。子音の種類や数が、フィンランド語には日本語にない「l」や「v」などが多く、日本語にはない音がある。イントネーションやアクセントじゃが、日本語は「高低アクセント」、フィンランド語は「強勢アクセント」。リズムの組み立て方が違うんだ。フィンランド語は後半にアクセント、子音が弱め、子音が連続して出たり、終わる音が「ん」で終わらなかったり、日本語でも動詞活用はあるけど、フィンランド語は格変化と合わせて膨大な活用形式がある」
「Kyoko! だめだって、調子に乗ると永遠なんだから~」
と言って、ソフィアは、エリックが位置を変えたのを見て、もう一度杏子の手をとり、テーブルの位置を変えた。
エリックはカップを置き、真面目な顔で、まっすぐ杏子を見つめた。
「Kyoko、Sofiaにどうか、力を貸してやってくれ」
杏子は背筋を伸ばし、深く一礼した。
「そんな。わたしの方こそ、ソフィアとずっと一緒に居させてください。ソフィアのこと、大好きなんです」
「英語も教えてくれるもんな」
話に夢中になって気がつかなかったが、いつのまにか栞代と紬が部屋に入っていた。
エリックは「おー、Kayoさん、Sofiaがお役に立てて、とても嬉しいです」
「エリックさん、Kayoでいいですよ」
と栞代が照れながら言うと、杏子は
「あ、おじいちゃんには栞代って呼ぶなって最初言ってたのに~」と拗ねた表情を見せた。
「え、そこ怒るとこ?」
と、栞代が笑うと、紬が杏子に向って
「エリックじいさん、杏子のおじいちゃんと同じだろ?」
と呟いた。
「“世界のおじいちゃん孫溺愛同盟”や」
表情ひとつ変えず、言う紬に、栞代が
「コーヒーと紅茶の違いはあるけどな」
と突っ込むと、
「それはわたしの課題ではありません」と返し、場は笑いで包まれた。
その後、栞代と紬が仕入れてきた材料を囲み、リーサ指導のもと、皆で夕食とデザートを作り上げた。鍋の香りとオーブンの甘い匂いが混ざり合い、こぢんまりとした宴は途切れることなく続いていった。
迎えに来た杏子の祖父がエリックに感謝の言葉を述べ、仲よさそうにしていたのだが、コーヒーと紅茶論争が始まりかけた瞬間、ソフィアと杏子が慌てて二人を引き剥がしたのだった。




