第199話 大会直前
浅い朝、光田高校のマイクロバスは、大会会場へ滑り込んだ。うっすら曇ったガラス越しに見えた弓道場は、黒瓦の屋根を薄い靄に浮かべ、まるで水墨画の一角のようだった。
車を降りると、青い畳から立ちのぼる藺草の匂いが、むせ返るほど濃い。杏子はその香りを胸いっぱいに吸い込み、祖母の弽を軽く握りしめた。試合前の小さな験担ぎだ。隣で栞代が黙って頷く。視線の先――控え所の脇に、淡い水色のジャージを着た少女がこちらを向いていた。
つぐみだった。
「はーい!」
声を上げ、一直線に駆け寄る。駆け寄ってくる杏子の笑顔につぐみは安心する。
「杏子には、部長の威厳ってないね」
こちらも笑みを浮かべながらにこやかに応えた。
「この上、威厳まで出されちゃ、お手上げだよ」
少し遅れて駆け寄った栞代が息を切らせながら言う。
「個人での2位はまだしも、団体の3位はちょっと驚いたよ。もともと千曳ヶ丘って強かったん? まあ、淡湖(つぐみの所属する千曳ヶ丘高校の地域名)のことは全くわかんないけど」
栞代が続けた。
「まあ、鳳泉館以外は結構ダンゴかな。鳳泉館はやっぱ強い。層が厚い。でも、高校総体にはちゃんと行くぜ」
すっかり強気を取り戻しているつぐみの言葉に杏子と栞代は安心する。
「今日はほんと、楽しみだったんだ」
つぐみは少し俯き、前髪の下で照れたように口角を揺らした。だが笑みの裏に、わずかな影が張りついていることを杏子は見逃さない。
「つばめは当番で、荷物のチェックとかしてるから大丈夫だよ」
「ああ、悪いな。そこは部長としての権力を使った訳だな?」
つぐみが、らしい軽口を叩くと
「杏子がそんなことできると思うか? オレだよ、オレ」
と言って栞代が笑った。「でもま、一年生だからある程度は当然だけどな」
「力あるからと言って除外はしないが、とはいえ、いつも杏子勝手になんでもしちゃうから、一年生の方が気をつかってたりするけどな」
「部長になってもかわんないんだなあ」
「杏子の頑固さ、忘れてんな?」
と、栞代がちゃかし、三人がひとしきり笑う。
「コーチが……まだ、肩が、前にひと呼吸ずれてるって」
杏子はコーチからの伝言を伝える。
杏子の目の前で弓を引く。
踏み開いた足幅、膝の緊張、肘の角度――完璧に見えつつ、ほんの数ミリ、左鎖骨の起伏が甘い。
引き分け、会を深め、離れ。矢の乾いた音。
「的中はする。でも、長くなると甘噛みになる」
杏子はつぐみに優しく触れ。
「ここ、前には無かったクセだよね」
隣で栞代が小さく頷く。
時間は圧倒的に無かったが。
「寄りは戻ってる。でもね――」
杏子は言葉を探し、「左の肩線が、会に入った瞬間に微かに落ちる時があるね」
つぐみの睫毛が震えた。彼女自身、そこにこそ違和感があると薄々感じていた。
「どうすっかな……」
問いかけは途中で消えた。
「数引ければなあ」
「あまり細かく気にしすぎても、大きな流れは間違いないから」
「ピクセル単位で指摘するやつのセリフじゃねーな」
瑞々しい畳の匂いが間を埋めた。つぐみは唇を結び、肩でゆっくり息をした。
栞代が一歩前に出て声を添える。「ま、杏子の“目”はピクセル単位やから、長い目でみると絶対に間違ってないけど、今悩みすぎるのもな。試合はすぐだから、ちょっと片隅に置くぐらいでいーだろ」
つぐみは苦笑交じりに「短気決戦になることを祈るわ」と。
「最後にあと一本、いい?」
つぐみの願いに杏子は深く頷く。髪を揺らし、三人の距離が音もなく縮まる。
弦音は澄み、的を撃ち抜く手応えが場の空気を震わせた。
――うん。飲み込みの早さは変わってないな。
杏子の胸の奥で小さな鐘が鳴る。けれどそれがここだけではなく、勝負が長引いた“あの瞬間”にも保てるのか――答えはつぐみだけが知る。
矢を抜きながらつぐみが囁く。「ありがとう」
杏子はただ「うん」と微笑み、栞代は背中を軽く叩いた。
残り一時間。
つぐみは千曳ヶ丘の控え所へと颯爽と歩き出す。その背中からは、ほんのわずかだが――肩線を支える目に見えぬ糸が張り直されている気配があった。
そこへ、千曳ヶ丘の女子が駆けつけてきた。黒髪を後ろでまとめた、涼しい目をした子だ。
「杏子さんと栞代さんですよね? 私、千曳ヶ丘一年の 篠森葵 っていいます!」
名前を言うより早く、深い一礼。
「ああ、葵さんね。つぐみの姿撮影してくれた」
「はい、チェックのためだったんですねえ。ピクセル単位の指摘、聞いてますよ」
杏子は、紅潮させる。
「つぐみ先輩はほんとに大変な目にあいましたけど、千曳ヶ丘では、結構楽しくやってると思います」
「そだな。あいつ、後輩から慕われるタイプだって、今改めて分かったわ」
「めっちゃ気にしてくれますしね」
「葵さんは、行かなくてもいいの?」
「残念ながら、レギュラー落ちしちゃいましたから、拗ねてます」
と言って笑った。
つぐみが気に入りそうなタイプだな。と杏子は思う。
「杏子さん、またゆっくりとお話聞かせてくださいね」
「あ、は、はい」
「総体化粧事件でバズッたやつとか」
杏子はまっ赤な顔で俯く。
「葵さん、あれは、杏子のおじいちゃんの仕業なんだ。あんまりまだ詳しくは言えないんだけど、つぐみが今笑顔なのは、あれも一因だからな。ま、そのうちにな」
栞代がいつものように間に入った。
「はい。なんとなく、はなんとなく。でもありがとうございました。つぐみさんと一緒に練習できて、楽しいです」
そう言うやいなや、ぺこっと頭を下げて、去って行った。
「オレたちも行こうぜ。身体動かさないと」
そう言って、栞代は杏子をひっぱってみんなのところへ向った。




