第193話 杏子宅で。シュレーディンガーの弓
笑い声と弾む余韻を胸に、バスはようやく光田高校へと着いた。
全員がバスから降り、用具を片づけたあと、
「それじゃ、軽く最後に一言で、解散しよか」
と、パスの喧騒に疲れ切り、気合の全く入っていないのんびりしたコーチが杏子に呼びかけた。そこで杏子が、みんなの輪の前へ。
「じゃあ、みんな、家に帰るまでが大会だから」
「それ、絶対に言うと思った」真映が早速突っ込む。
顔をまっ赤にした杏子が、言葉を続けた。
「みんなと同じチームでほんとに良かった。ありがと。気をつけて帰ってね。またあした」
「杏子も」「部長も~」
と、部員たちがそれぞれ声をかけながら笑顔で帰路についた。
「ま、オレたちも帰るか」
と、いつものように栞代が寄り添い、肩を寄せ、二人で杏子の家へ歩き出す。
杏子の家では、祖父母が今か今かと待っていた。
「落ち着いておじいちゃん」
「いや、迎えに行けば良かった~。なにかあったらどうしよう~」
「栞代ちゃんが一緒なんだから、大丈夫よ」
玄関を開けると、祖父母が暖かく迎えてくれる。
台所では、控えめながら、杏子の好物の準備が進んでいた。
ほかほかの味噌汁に焼き魚、小鉢にほうれん草のお浸し、茶碗蒸しに栗ご飯、マッシュルームまで――
どれも、祖父の好物とシンクロする、愛情たっぷりの献立。
毎日のように来ているので、すっかり自宅気分の栞代。着替えもある。
杏子は軽く着替えて、祖母を手伝う。
栞代は先にシャワーを浴び、ゆっくり着替えを済ませると、杏子と交代。栞代は食卓へ。
祖母を手伝いながら、ふと声をかけた。
「あの……おばあちゃん、杏子は、大丈夫かな?」
祖母はほほえみながら答える。
「そうね。あの場面、どんな結果になっても、後悔してそうね。どちらにしても、後悔するのは、やっぱりおじいちゃんに似たところがあるみたい」
「そうなんですね」
「でも、わたしはどっちでもいいの。杏子がどんな選択をしても、いいのよ。杏子が元気でさえ居れば。でも、それもあんまり心配してないわ。いつも寝たら翌日には元気になるし。そこはわたし似ね」
と、穏やかに話した。
「ぱみゅ子は優しいからのう。ワシに似て」
続いて祖父が、お茶目に好物をつつきつつ口を開く。
「だが、最後、混乱したまま弓を引かなかったのは、さすがにわしのぱみゅ子じゃ。姿勢を見出しながら弓を引くより、よっぽどいい。それでも、すごい勇気が要ったろう。勇気があって優しい。わしに似たんじゃなあ」と祖父が嬉しそうに笑う。「団体戦では当たり前のように感じているみんなの支えが、個人戦では逆に作用するからなあ」
そんな話をいていたら、杏子がシャワーから出てきた。
「さあ、二人とも、いっぱい食べてね。団体戦優勝おめでとう。こんどは紬ちゃんも連れてきてね」
「喜びます。おばあちゃんは、弓道部ですっごい人気だから、みんないつも来たがってるんですよ。いつも羨ましがられてます。今日、紬誘えば良かったなあ」」
「そうじゃろう、そうじゃろう。みんなわしに会いたいだろうしなあ。困ったなあ人気ものは辛い」
「そこは同情されてますけどね。相手するの大変だねって」
「ふふふ、まだまだ幼いのう。わしの相手をすることがどれほど幸せなことか分らないとは・・・・」
「そだね~。寿命までに分ればいいなあ」
いつもの掛け合いをにこにこしながら聞いていた祖母と杏子だったが、さあ、暖かいうちに、という祖母に従い、食事にした。
温かな食事と、そこに込められた優しさに触れて、二人の心は安らぎを得ていった。
食後は、いつもの祖父の自慢の紅茶が出てくる。
確かに美味しいが、これを飲んでる間は、いつも祖父の蘊蓄話を聞かなければならない。嫌、というほどでもないけどね、と栞代は付き合う覚悟を決めている。
「さて、栞代。見事な県チャンピオン、おめでとう。ぱみゅ子を見習って、実によくやった」
栞代は少し照れながら、「ありがと、おじいちゃん」と頭を下げる。
「言っておくが、ぱみゅ子は去年勝ってて、春も勝ってて、すんごいんじゃからな」
「分かってるよ。オレが杏子に弓でかなう訳ないのは、重々分かっております。今回も、杏子が居てくれたし、杏子が心配で逆にリラックスできたのがほんとに良かったんだ。勝つというより、そごち居たいって気持ちだったから」
「うむうむ。栞代もなかなかわかってきたな」
「そうかい?」
「わしはな。ぱみゅ子が、弓道というものは、的中するかどうかだけではない、さらに上の次元に昇華した記念すべき大会であったと思うのじゃ」
「ほ~」
「本来は弓道は的にあててなんぼ、じゃ。じゃが、まず、ぱみゅ子のすんばらしく美しい姿勢、これはもう現在の日本で一番美しい」
「まあ、美しい、というのは主観だからな」
「そして一番優しい」
「・・・・・・・・。それが弓道になんの関係があるのかちょっとよく分らないが、まあ、それも主観だし。あ、ただ、おじいちゃんに対しては間違いなくそうだろな。おばあちゃんはおじいちゃんに対してはツンデレだしな」
「しかも感性が豊かじゃ。わしの淹れる紅茶の素晴らしさをよく分かっておる」
「ま、おじいちゃんの紅茶はほんとに美味しいからな」
「そしてなんといってもかわいらしい。わしが長年生きてきて、こんな可愛い女の子は見たことだない」
「さっきの美しい、のとはまた違うんだろうなあ」
「美しさと可愛らしさは違う価値観じゃ。そして、なにより、真面目じゃ」
「それはそうだな」
「そして日本一の弓の練習量じゃ。ぱみゅ子の練習量はすごいぞ。絶対に日本一じゃ。こんなに真面目に努力しているのは、日本にぱみゅ子を置いてほかにおらん」
まあ、杏子と並ぶ練習量と言えば・・・・・。と、栞代は雲類鷲麗霞を思い浮かべる。
「そんな練習している杏子が、優しさ故に・・・・・ううう、、、不憫じゃ・・・」
「お、おい、おじいちゃん、元気だせよ」
心配する栞代を横目に、祖父は声を大きくする。
「しかしじゃ」
「お、おい、なんだよ、急にそんな大声で」
「先にわしは言ったじゃろう。杏子は、既に矢を的に当てるか当てないか、そんな世俗を超越している存在なのじゃ」
「は~」
「これをわしは、シュレーディンガーの弓だという発見したのじゃ」
「は? な、なんだよ、そりゃ?」
「わしは先に言ったじゃろう、ぱみゅ子は“当てる・外す”を超越した存在なのじゃ。ほれ、これこそ、シュレーディンガーの弓じゃ!」
「……シュレーディンガーの弓?」
得意満面に胸を張って祖父は続ける。
「そうじゃ。あの量子実験のシュレーディンガーの猫と同じじゃ。観測するまで“生きてる”とも“死んでる”とも言えん状態じゃろ?同じじゃ、ぱみゅ子の弓もな、矢を放つその瞬間、“当たっている”とも“当たってない”とも断定できんのじゃ!」
い、いや、それ普通のことだろう。栞代はぐっと突っ込みを押し殺した。
横で聞いていた杏子は呆然とし、祖母は笑いを堪えていた。
「いいか、栞代。これは物理と精神の融合じゃ。矢が飛ぶ瞬間、その結果はわからん。しかし最も重要なのは、“観測者”――我々“観測者”――つまり、お前もわしも、そしてみんなの心じゃ。周囲の心のありようじゃ。つまりな、ぱみゅ子の一射は、放たれた瞬間からみんなの心の中で、既に“当たってる”んじゃよ!こんな弓を引ける人間が、ぱみゅ子のほかに居るか? いや、この広い宇宙を探してもぱみゅ子以外には独りもいやしないのじゃ。つまり、現実にあたるか当たらないかなど、すでに超越しておるのじゃ。存在するだけで価値がある――それが、ぱみゅ子の“シュレーディンガーの弓”なのじゃ!」
なんか全然知らないけど、それでも、本来のシュレーディンガーの猫理論とはまるで違う気がしたが、まあ、おじいちゃんが元気になるなら、いっか。それにしても、弓道を結びつけるとは、おじいちゃん、恐るべし。量子力学までだして屁理屈こねてまで、杏子を褒めまくるとは。
祖父は得意気に頷いて、さらに言葉を重ねた。
「そうじゃろ?わしはこれを“シュレーディンガーの弓”と名付ける。しかも、本物のシュレーディンガーの猫のように、50%の確率、という訳ではない。だから、本家をも越えとる。
そもそも、その段階が価値があるのじゃ。もうぱみゅ子は、存在だけで価値があるのじゃああああっ」
「観測される前から、既に“当たっている”。結果よりも、その瞬間に人の心を動かす力――それがみんなの支えじゃ。」
「どちらでも価値がある。存在するだけで価値がある。あたるかどうかは観測者に掛かっている。観測される前から、すでに“当たっている”と認識さしていなければならん。つまり、今回の結果は、わしの責任じゃっ」
もはやなにを言っているのか全くワカラン。理解しようという気にもならん。
栞代は呆れ果てるが、意見をすると倍以上返ってきそうなので、黙っていた。
杏子とおばあちゃんは、そんなやり取りをにこやかに見守る。
「そうじゃそうじゃ。ぱみゅ子の弓は、すでにみんな“当たってる”のじゃ。実際の結果なんかどーでもいい。心が動いたら、それはもう“当たった”のじゃ!」
ますますなにを言っているのか分らなかった。
だが、栞代は、全くなにを言っているのか分らなかったが、何を言おうとしているのかは分かった。
杏子。ほんっと大変だな。でも、杏子がおじいちゃんのことも好きっていう気持ち、ちょっと分かったわ。
まあ、そもそも今回杏子は、弓引いてないけどな。
矢置いて棄権したんだし。だから、別に外した訳じゃからねえ。




