第19話 弓道場に響いた言葉
練習試合から帰ってきたその日、白樹ヶ浜駅で解散したあと、拓哉コーチと顧問の滝本先生は学校へと向かっていた。連休最終日のこの日、二人は意を決して三年生部員を呼び出していたのだ。
「来てますかね?」
「来てると思う。私は男子を、コーチは女子をお願いしますね」
「わかりました」
弓道場の扉を開けると、そこには3年生全員が揃っていた。少し不機嫌そうな顔を浮かべている者もいたが、打ち合わせ通り、拓哉コーチは女子3年生を集め、滝本先生は男子を担当した。
緊張した空気の中、彼の目には、どこか覚悟がにじんでいた。
「わざわざ呼び出して、何なんですか?」
「どうしても来てくれって言うから来たけど……受験生なんですけど」
「休日に集めて、何の話があるんだよ」
「どうしても来てくれってことだったからきたけどさ」
生徒達は口々に悪態付いていたが、今日の集合を知らせた時の様子が真剣だったことと、休日とはいえ、一応受験学年だったので、外出している訳では無かったので、集まることに支障はなかった。普段はあまり深く関わりを持たなかったコーチの態度に、微かな違和感を覚えたのかもしれない。
「それで、鳳城との試合はどうだった?」
「惜しかったが、負けた」
「やっぱり。そりゃ無理でしょ」
呆れたような声の中、コーチは静かに話しだした。
「今日皆に集まって貰ったのは、謝罪したいと思ったからだ」
「謝罪?」
ざわつく声が止まり、空気がピンと張り詰めた。
「私が去年、コーチに来たとき、君たちの反発が大きかったことは分かっていた。元々、弓道部は“本気でやる部活”ではなかったのに、急に方針転換されたんだからな」
「そりゃそうだろ」一人が小さく呟く。
「去年の3年生は、受験を名目に、すぐに来なくなったが、そのあとも時々顔を出しては、君たちが練習をしていないか圧力をかけていたよな」
3年生たちは黙って聞いていた。
「それでも君たちは、部活には最低限来てくれた。それだけに、私のやり方が間違っていたことをずっと後悔している」
3年生たちは黙ったままだったが、その視線はコーチに向けられていた。
「私自身、ずっと弓道は義務だった。弓道が嫌いだった。親に強制されてやらされているだけだったからだ。一度は反発して辞めたが、戻ったとき、自分が本当に弓道が好きだったことに気づいた。でも、その経験があるからこそ、人に無理をさせるべきじゃないと思い、皆にも強制はしないと決めていた。だが、それを理由にして、君たちに必要なことを伝えるのを避けてしまったのは、私の責任だ」
コーチの口調は真剣だった。その言葉は、3年生たちの胸にじわじわと染み込んでいくようだった。
「それでも、下級生たちには厳しい練習を課してきた。君たちにも本来はそうするべきだったという気持ちは間違ってなかったと思う。だが、『先輩』であるプライドを考えれば、違うアプローチが必要だった。国広花音さんがその壁を破って練習に参加したことで、さらに君たちににはプレッシャーになったことも分かっている。花音さんは確かに勇気があり、素晴らしかったが、また君たちにはそれぞれ違うやり方があったはずだったんだ。これは私の落ち度だ。本当に申し訳ない」
「それで、何が言いたいの」
部員の一人が不機嫌そうに尋ねると、コーチは一呼吸置いて、静かに言葉を紡いだ。
「あと一月でもいい。弓道をやってみないか?」
「え? いまさら?」
「そうだ。いまさらだ。そして最後のインターハイ予選に出てみないか?」
「いや、もういいよ」
「たとえ結果として矢が中らなくても、高校の部活の総決算として、その結果を持って卒業してほしい」
「でも、それも格好悪いだろ」
「確かに格好悪いかもしれない。だが、今の君たちも相当格好悪いぞ」
「な、なんだよそれ」
「一生懸命やってダメな格好悪さを選ぶか、何もやらない格好悪さを選ぶか、それは君たちの自由だ。だが、今までやらなかったのなら、一回ぐらいはやってみる格好悪さを試してもいいんじゃないか?」
沈黙が続いた。やがて、一人の女子部員がため息混じりに呟いた。
「先生、それ、分かるけど……今更練習するの、恥ずかしいよ」
「それはちゃんと考えてある」
「え?」
「この近くに、先代の顧問の先生がやっている道場がある。そこで練習すれば、下級生には絶対に見つからない」
「ほんとに?」
「もちろんだ。そしてその道場の先生は、わたしの恩師でもあり、また、杏子を育てた立役者だ」
「杏子を?」
「そうだ。ずっと横目でも弓道を見ていて、杏子の射型の、射法八節の美しさに憧れないか? 彼女の姿勢の美しさは別格だ。わたしもあれほどの姿はなかなか見ることがない。その杏子を一から育てた恩師のところで、やってみないか」
「杏子か」
「あいつ、試合ではどうだったの?」
「皆中だった」
「そっか。さすがだね。私たちが相当プレッシャーかけたあの雰囲気の中でも、全部中てたもんな」
「その杏子を育て上げた立役者が中田先生だ」
「おばあちゃんじゃないの?」
「そのおばあちゃんを教えたのも中田先生なんだ」
「そうだったのか」
「もしかして杏子の妹弟子ってことになるのか?」
「それヤだな」
「その道場では、どんな初歩の練習からでもやり直せる。恥ずかしがることはない。そこを使えば、最後の試合に向けて練習できる」
「……考えておくよ」
その一言が出た瞬間、場の空気がわずかに緩んだ。
コーチは深く頭を下げて言った。
「今日は来てくれて、話を聞いてくれて、本当に、ありがとう」
「強制はしなくない、という思いから、結果的に君たちを放置してしまった。本当に謝りたい。もっとぶつかるべきだったと思う。
だが、今なら、まだ、時間はある。残り少ないということは、まだ時間はあるということだ」
「だから、一応は考えるけど、そこの練習は絶対にバレないんだね」
「みんなは学校で練習するからな」
「なるほど」
「とにかく、一度考えてほしい。私に対する複雑な思いもあるだろうから、全然違う先生に教わるのがいいと思うんだ」
「で、練習はいつよ?」
「普通に学校が終わって、放課後行けばいい。最初の日は一緒に行こう」
「まあ考えておくよ」
「明日、部活に来てくれたら、その時にタイミングを見て送っていく。来るまで待つから。臭すぎる言葉だが、君たちには、本当に可能性がある。それを忘れないでくれ」
その言葉を聞いて、3年生たちはそれぞれ複雑な思いを胸に道場を後にした。
その背中に射す夕陽は、少しだけ明るさを増していた。