第181話 帰宅
新幹線を降り、学校に戻る頃には、すっかり陽も落ちていた。
荷物の片づけも終わり、道場の鍵が閉められる音が、静かに夜の空気に響く。
「じゃあね」
冴子が軽く手を振った。その瞬間、杏子の中で空気がふっと変わる。
部長に指名された不安と戸惑いでいっぱいだった杏子は、今日が、今が、三年生との最後の日だということを、忘れていた。
ああ、そうだった。
これは、「お別れ」なんだ。
弓を握っていない杏子の手が、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
足元が急に頼りなくなり、声も出なくなる。
弓を握って的前に立つときの杏子とはまるで別人。幼く、無防備そのものだった。
「杏子、またね」
冴子がそっと抱きしめてくれると、杏子は小さくうなずきながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「ちょっと、またもう杏子は……」
横で見ていた栞代が、苦笑しながらそっとハンカチを差し出す。
「いつでも会えるんだから。杏子、泣く必要ないのよ」
沙月もぎゅっと抱きしめてくれる。杏子は、くしゅっと鼻を鳴らすが、それでも涙は止まらない。
そして最後に、瑠月が前に立つ。
杏子はそのまま、瑠月に思いきり抱きついた。
「瑠月さん、ありがとうございます……」
声にならない声を、なんとか絞り出す。
目を閉じた瑠月の頬も、かすかに震えている。
「杏子ちゃん、私……勉強見に来るからね」
瑠月の声も、少しだけ揺れた。
「もう、“瑠月先輩、また来たの?”って言われるぐらい、うんざりするかもよ」
「そんな……言わないです……」
杏子の声は小さく、泣き声まじりで、まるで子どものようだった。
なかなか離れようとしない杏子の腕を、
そっと包み込むように、栞代が優しく引き離した。
「さあ、行こ。おじいちゃん、待ってるよ」
栞代の手に引かれながら、杏子は時おり後ろを振り返りつつ、ゆっくりと校門をくぐっていった。
学校を出ても、杏子の頬には涙の跡が残っていた。どんなにハンカチで拭っても、次の涙がすぐに目の端から溢れてしまう。
栞代は隣で、何も言わず、ただ静かに歩調を合わせていた。杏子の泣き顔を見るたびに、何度も声をかけたくなったが、それがかえって杏子の寂しさを強くしてしまいそうで、黙って寄り添っていた。
しばらく歩いて、信号待ちのとき。
「杏子」
と声をかけた。
その声は、優しかった。「あんまり泣いた顔のままだと、おじいちゃん、心配するよ」
杏子はびくっとして、慌てて涙を指で拭った。「うん……そうだね……」
おじいちゃんの前では絶対に涙を見せない。杏子はそう誓っていた。杏子が泣いた時、おじいちゃんは本当に混乱しちゃう。
だから、普段でも泣かないように頑張ってた。去年は、どんなに悔しくても、悲しくても、そして嬉しくても泣かなかった。泣いたことをおじいちゃんに悟られたくなかった。でも、今年は我慢する力を使い果たしたみたいで、何度も泣いている。感情が膨らむたびに、涙が止まらなくなる。
元気を出さなきゃ。
「ただいまー……」
家の玄関をくぐる頃には、杏子は無理やりにでも笑顔を作っていた。
祖父母はすでに帰ってきていて、玄関には祖父が立っていた。杏子の顔を見るなり、「おーっ、我が天才孫娘、よくぞ帰った!」と両手を広げて迎えてくれる。
「栞代ちゃんも、一緒にご飯食べて行くでしょ? ちょっと簡単な祝勝会だから、一緒に」と祖母が優しく声をかける。
「ただいま……わたし、ちょっと着替えてきます」
杏子はそう言って自分の部屋へ向った。祖父はいつもとは違うものを感じた。
「なあ、栞代。……杏子、なにかあったのかなあ?」
いつもの能天気さが姿を消してる。
なるほどな。
「あ、えっと……」
栞代は少し笑って肩をすくめる。「この大会で三年生は引退するんです。その三年生とお別れで……ちょっとセンチメンタルになってます」
「ほう、別れか。それはもう仕方ないからのう。人生は出会いと別れの繰り返しじゃからのう。……こりゃ、紅茶のランクをあげんとな」
祖父が笑って言うと、奥から祖母の声が「ご飯を先にしましょうよ。二人ともお腹空いてるでしょう?」
その声を聞いて、栞代が元気よく「はいっ」と応えた。
リビングのテーブルには、まるで小さなパーティー会場のように料理が並んでいた。
手前には、祖母の十八番である「ほろほろ煮豚」が、大皿の中央で堂々たる存在感を放っている。ほんのり甘辛いタレが照り輝き、ねぎの千切りがふわりと乗っていた。
その隣には、地元の鯛を使った「鯛の塩焼き」が鎮座している。焼き加減は完璧で、皮はパリッと、身はふっくら。レモンの輪切りと大葉が添えられ、和風の凛とした美しさがある。
小鉢には、さっぱりとした「酢の物」、ほうれん草のおひたし、筑前煮、そしてなぜか「だし巻き卵」が二種類(甘いのと出汁強め)用意されていて、明らかに祖父母の意見が分かれたことが見て取れた。
中央には、赤飯。ちゃんと炊飯器じゃなくて蒸し器で炊いた、本気のやつ。黒ごまと塩がまばらにふられ、湯気が立ちのぼっていた。
「光田高校弓道部三位入賞祝」と書かれた手作りの旗が、唐揚げの山に突き刺さっていたのは、祖父の演出だろう。小さな旗だったが、これまた妙に完成度が高い。
さらに奥には、杏子のための特別メニュー、「とろけるプリン」と「メロン」まで冷えていて、もはや食後の気遣いまで完璧だった。
栞代が一言、ぽつりと呟いた。
「……いや、こんなん出されたら、泣いてたこと絶対に忘れるよ」
祖父は満面の笑みで応える。
「弓道の勝利には、揚げたて唐揚げが似合う!あと、煮豚!あとプリン!」
食卓を見た杏子は、席につく前から、もう笑っていた。
「杏子、ほら。おじいちゃんに報告することあるだろ?」と、栞代が不意に言う。
「え?」杏子が目を丸くする。
「ほら、今日から杏子は、何になったんだっけ?」
「あ……」
杏子はようやく思い出したように、小さな声で。「……部長になっちゃった」
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
祖父が、まるで天変地異でも起きたかのような声で叫んだ。「見たか!聞いたか!この子はやっぱり天才だったんだよー!光田高校よ、見る目あるじゃないか!」
祖母が「近所迷惑!」とたしなめるも、祖父は満面の笑みで杏子を見る。「部長!部長ぉ!これからは部長様って呼ばんといかんなあ!」
杏子は真っ赤になって、顔を手で覆った。「や、やめてってば……」
栞代はくすくす笑いながら、から揚げを取った。「それよりこの料理、絶対食べきれないな」
「よーし、このあとはスペシャル紅茶だ!世界にひとつしかないという、幻のダージリンを淹れてやろう!」
「そんなのあるの?」と祖母がすかさず突っ込む。
「だって、世界にわし、ただ一人だもん。わしの淹れる紅茶は世界にひとつしかない」
「そりゃそーだ」栞代が笑う。「美味しさとは直結しないけどなあ」
「なんじゃと~」
そんなやり取りのなかで、食卓には自然と笑いが溢れていた。
食後の紅茶タイム。杏子のカップに、香り高い紅茶が注がれ、栞代のカップにもそっと湯気が立ち上る。
「栞代」
祖父がふと声を落として、紅茶を差し出しながら言った。「杏子を頼むな。支えてやってくれよ」
栞代は一瞬驚いた顔をしたが、すぐににやりと笑ってカップを受け取る。「……紅茶飲ませてくれたらな」
祖父が「大丈夫じゃ。毎日ちゃんと飲みに来いよ。約束じゃぞ」と胸を張ると、杏子が「なんだか、それ、今までと全然変わらないね」とツッコんで、また笑いが弾けた。
夜の風が、優しく入り込んでくる。
その後、祖父は杏子と一緒に栞代を送り届ける。
栞代の家の近くで栞代が降りた時、珍しく、祖父が降りてきた。
「……栞代、杏子は結構無理するところもあるから、ちゃんと見てやってな。なにかあったら報告してな」
栞代は一歩下がって、「おじいちゃんは、心配性だからなあ。能天気な心配性」
そう往って笑い
「任せとけっておじいちゃん。それにオレだけじゃない、紬もあかねもまゆもソフィアも、みんな杏子が好きで、杏子の味方だ」
その言葉に、祖父は深くうなずき、夜空を一度見上げて、軽く手を振った。
「気をつけて帰れよ。明日もこいよ」
おじいちゃんも気をつけてな」
栞代の姿が消えるまで、祖父はしばらく、その背中を見送っていた。