第180話 新部長
鳴弦館高校のメンバーたちは、押し殺した悔し涙をそっと拭い、静かに頭を垂れた。その姿に、勝利した鳳城高校の選手たちもまた、誰一人として喜びを表現することはなかった。互いに深く礼を交わし、淡々と試合の幕を下ろす――その光景が、改めて杏子の胸に強く焼き付いた。
勝敗に一喜一憂するのではなく、何よりも大切にされているのは、相手への敬意と感謝の心。勝者も敗者も、互いを高め合う存在であり、相手がいてこそ自分も成長できる――杏子は、まさにそれを実感していた。
「礼」とは、単なる形式ではなく、心から相手を思いやり、尊重すること。武道の心は、強さを誇ることではなく、相手を敬い、己を律することにあるのだと、杏子は静かに感じていた。
改めて学び、感じた夏だった。
表彰式が終わったあと、拓哉コーチは、会場の側の小さな広場に全員を集めた。
そこで、冴子が、ゆっくりと深呼吸をする。
「みんな、今日は本当にありがとう。応援に来てくれたみんなにも、心から感謝しています。そして……これで私たち三年生は、弓道部を引退します」
冴子の声は、静かだけれど、どこか誇らしげで、そしてほんの少し震えていた。
続いて瑠月も、涙をこらえた笑顔で言葉を紡ぐ。
「三年間、いろんなことがあったけど、みんなと一緒に弓を引けたことが、私の誇りです。本当にありがとう」
沙月もまた、冗談めかしながらも、感謝の気持ちを伝える。
「みんな、これからも元気でな。やり残したことがあるけど、みんななら、必ずできると信じてる。協力は惜しまないから、必要ならいつでも言ってきて」
三年生たちの言葉が終わると、場に静かな余韻が流れた。
杏子は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
改めて寂しさが襲ってきた杏子は、静かに涙を堪えていた。
入部した時、正直に抱負を語った時。直接的には栞代が助けてくれた。
そしてその後は、冴子さん、瑠月さん、沙月さん――三年生たちが、いつもそっと支えてくれた。あっ。そいえばわたし、花音部長にちゃんとお礼言えたのかな。そんなことまで思い出していた。
一緒に練習した日々、くだらない話で笑い合った時間。
思い出が次々と胸に溢れてきて、杏子は溢れる涙を堪えることができなかった。
もう一緒に練習できないのかな。もう、瑠月さんと、冴子部長と、沙月さんと、試合に出ることはできないんだ・・・・。
思い出すと、どんどん胸の奥から涙が溢れてきた。寂しさが、波のように押し寄せてくる。もう一緒に練習できないのかな。もう一緒に試合にでられないんだ。
想い出が襲ってくる中、まるで遠くで話してるように、ぼんやりと冴子部長の声が届いた。
「それでは、次の部長を発表します。これが、私の部長としての最後の仕事です」
冴子は、沙月、瑠月と目を合わせ、いたずらっぽく微笑む。
「次の部長は……杏子です」
「ふひゃあ??」
杏子の口から飛び出した謎の音に、場が一気に明るくなった。
涙が一瞬で引っ込んで、みんなが笑い出す。
「え〜! 冴子部長! わたしじゃないんですか〜!」と真映が叫び、空気がさらに軽くなる。「お前だけは絶対にヤダ」とあかねがすかさずツッコみ、爆笑の渦が広がる。
みんなが笑っている中で、杏子だけが、戸惑いと不安の入り混じった表情で立ち尽くしていた。
「杏子、ひと言お願い」と冴子が優しく促すと、杏子は立ち上がったものの、何かを飲み込むように唇を噛みしめ、「わたしには無理です、できません……」と、か細い声で言った。
「冴子部長のようには、絶対できません」
冴子は、微笑んで首を振る。
「そんなの、全然なる必要ないよ。杏子には杏子らしい部長像があるはず。それに、みんな協力してくれるよ」
沙月がすぐに続けた。
「優しいからって、杏子に甘えるようなやつは、この部には居ないし、さぼる奴も・・・・・まあ真映があやしいけど」
一瞬笑いが起こる。
「それより、むしろ、杏子と一緒に的前に立ちたい、って思ってるやつばっかりだから、練習のしすぎの方が心配だわ」
「杏子ができないことは、みんなで補えばいい。事務作業はまゆと一華がぜんぶやるってさ」
その声に、まゆと一華が揃って手を挙げた。
「杏子は、勝手に弓だけ引いてたらいいよ。あとはみんな勝手にやるから。ほんと、それでまとまる部ってすごくない?」
栞代が、隣の紬に「な、そう思うやろ?」といつものように話を振ると、紬は静かに「はい、そう思います」といつもと全く違う返し方をした。
いつものやりとりとは違う紬の返事に、場が少しだけ静かになる。
でも杏子には、それが紬なりの最大のエールだと、ちゃんと伝わっていた。
このムードを打ち破ったのは、やっぱり、真映だった。
「杏子先輩、無理ならわたしがやりますから、安心してください!いつでも変わります」とちゃかす。
杏子はそれを受けて
「お願いします」と返したものだから、すかさずあかねが「だからそれだけは絶対にあかん。私ら全力で支えるから、杏子頼むよ~」と真剣な顔で言う。
杏子は、みんなの温かい言葉に囲まれながらも、やっぱり不安そうな顔のまま立ち尽くしていた。
栞代がそっとその肩を抱き寄せる。
(冴子さん、これも狙ってたのかな……。三年生との別れの寂しさは、杏子にとっては強烈だからな。部長という衝撃でその寂しさが紛れるなら、それはそれでよかったのかもしれないな。部長、最後までグッジョブ!)
やがて、バスがやってくるのが見えた。
冴子は振り返り、にっこりと笑う。
「さ、部長、帰ろう」
杏子は、まだ涙の跡が残る頬で、小さくうなずいた。
新しい季節が、静かに始まろうとしていた。




