第18話 紬の初訪問2。杏子の軌跡。
「ところが、わしは、ぱみゅ子が悲しい顔をしてると、もう死にたくなるんじゃ。涙なんか見せられた日には、もう辛くて辛くて、こちらが大泣きしてしまう。でもぱみゅ子は絶対に弓は辞めそうにない。じゃ弓を辞めさせるのは諦める。そして、説得の方向を変え方んじゃ。」
「ぱみゅ子に言ったんじゃ。
なぜ、ぱみゅ子は金メダルを取りたいの?
『おばあちゃんにプレゼントしたいから』
なんでおばあちゃんにプレゼントしたいの?
『おばあちゃんが喜ぶ顔が見たいから。』
おばあちゃんは金メダルをプレゼントしないと喜んでくれないの?」
「それで、杏子さんはなんて答えたんですか?」栞代と紬が身を乗り出して聞く。
「金メダルを取らなくても、弓を引かなくても、おばあちゃんはぱみゅ子が笑っているだけで十分幸せなんじゃ、と」
「いや、目の前にぱみゅ子が居るだけで、嬉しいんじゃ」
「いや、目の前に居なくても、元気にさえしていれば、いやもう、元気じゃなくても、たとえ目に見えなくても、たとえ声が聞こえなくても、ぱみゅ子が居る、生きてるだけで、もうこれ以上ないぐらい幸せで、嬉しいんじゃ。
それはおじいちゃんも一緒じゃ」
「そう言った時、ぱみゅ子はもうぽろぽろ泣きだしてな。それでわしゃオロオロしてしまったんじゃが、それでもその時にぱみゅ子が言ったんじゃ。『もっと喜んで欲しいもん。おばあちゃんがやってた弓をやりたいもん。いつか一緒にやりたいもん。』とな。頑固の血筋が分かるじゃろ?」
「そこで、ぱみゅ子が弓をやるのはぱみゅ子が決めたことだから、それでいい。では金メダルは? 金メダルは所詮誰かと比べた結果に過ぎない。
ぱみゅ子の気持ちは他の人と比べられるもののかい?
誰かほかの人の物差しが必要なのかい? 違うじゃろ。自分の力だけでできること。それはきちんと正しい姿勢で弓を射ること、そのことだけじゃ。
だから、あとは
『ただ、結果なだけ』
いつのまにか戻ってきた杏子が、祖父と声を揃えた。
「んも~、おじいちゃん、何を話してるのよ~。恥ずかしいから辞めて~~」
頬を赤くしながら抗議した。
「ほっほ、すまんすまん。だが、どんなことでもぱみゅ子のことは自慢なんじゃよ。ついつい自慢してしまうんじゃよ」祖父が笑いながら肩をすくめると、部屋には和やかな笑い声が広がった。
最初から杏子が言っていたことは、ただ単におばあちゃんの言葉を繰り返しているだけじゃなくて、杏子自身がいろいろなことを乗り越えて辿りついた言葉でもあるんだな。
そう思うと、栞代は、杏子がどんな場面でも射型の正しさや美しさを考えられる理由がわかった気がした。
「それにおばあちゃん、的に当たってもあんまり褒めてくれないけど、姿勢が正しい時は必ず褒めてくれるんだよね。やっぱり褒めてもらうと嬉しいし、おばあちゃんが喜んでくれるともっと嬉しいし。もう、嬉しいことだらけなんだよね。」
紬はそれを聞き、この家、いやこの家族全体が暖かく感じられる理由はここにあるんだなと思った。。
「でも、おばあちゃんは杏子が動いているだけで嬉しいんだから。ほんと、大甘なんだからなあ。」
祖父の言葉に栞代が、「いやいや、おじいちゃんはもっと大甘だし、そもそも杏子がおじいちゃんに大甘だから、大甘一家だな、ここは。」
『正解っ!』
タイミング良く祖母がクッキーを持って戻ってきて、祖父と声を揃える。
祖母は微笑みながら、「矢が的に当たるかどうかは、ほんとにただの結果に過ぎないのよ。確かに中らないってことは、どこか姿勢が崩れているのね。本当はどう外れたらどこが悪いって分かるようになればすごいんだけど。最初はそこまで言うと混乱しちゃうから、私はいつでも『姿勢』だけを伝えてるの」
それを受けて祖父が言った。
「姿勢が悪いから中らない、んじゃなくて、中らないから姿勢が悪いってことだな?」」
「玉子が先か鶏が先か、みたいな話だな。全くワカラン。」栞代が笑うとみんなも一緒になって笑った。
すると「でも金メダルは絶対に獲るんだから!」突然杏子が真剣な目で言い切ると、栞代と紬は「あぁ、杏子ってやっぱり頑固だ」と思わず同じことを心の中で感じた。
紬がおずおずと尋ねる。「それで、杏子さんはどれくらいで中るようになったんですか?」
「中田先生がな、なかなか弓を持たせてくれなかったし。それに最初ぱみゅ子が弓を持った時は中てることばかり考えてたから、ほんっとに、全くもう、矢は落とすし、中らない届かない、中ったと思ったら隣の的、全然ダメじゃったなあ」
「ちょっ、おじいちゃん、ひど~い。そこまでバラさなくてもいいじゃないっ。」杏子が少し頬を膨らませる。
「いや、だってぱみゅ子。外し方も自慢なんじゃよ~~」
祖父は笑いながら続ける。「で、弓道を始めて、安定して中るようになったのはようやく去年くらいじゃないかな。つまり、ちゃんと練習を始めて3年はかかってるな。もちろん、時々中ることはあったけど。中ったり外れたり、から、だいたい中るようになるまで、時間掛かったなあ。でも、中田先生とおばあちゃんは最初から、そしてぱみゅ子も、ちゃんと話をしてからは、全く焦ることは無かった。弓と矢を持った姿勢の練習じゃったな。」
「そうなんだ…焦りは禁物か。」栞代が納得したように頷く。
杏子は笑顔で言う。「だから、私、基礎練習が本当に好きで、正直それだけでも十分楽しいの。基礎って土台で、それができてないと何も成り立たないって言われるでしょう? まるでこれから先のためだけの練習みたいだけど、そもそも私、基礎練習、それだけでも結構満足してるんだ。矢、要らないくらい。」
「それに、何も持たない素引きなら家でもできるし、おばあちゃんに見てもらって、褒めてもらえるもんな。」栞代が指摘すると、杏子の顔が一気に赤くなった。
「ば、ばれた?」杏子が小声で言うと、みんなが声を揃えて笑った。
「杏子はおばあちゃんが本当に好きなんだなあ。」
「栞代、杏子はわしのことも、ちゃ~んと好きなんだぞ。なんなら、わしの方が・・・。」
祖父が必死な顔でそう割り込んできたので、またみんなが笑った。
「でも、つぐみは全く違うな。」栞代がふと真剣な表情になる。「あいつは中てることが命みたいなやつだからな。でも、そのためにやるべきことはちゃんとわかってる。射型もおろそかにしないし、つぐみはつぐみでやっぱり凄い。」
「確かにつぐみさん、すごかったね」紬が同意すると、栞代が、「つぐみは白鷺麗霞にあこがれてるんだよね」と言った。
「あの美人の子?」と祖父がすぐに話に乗る。
「だからそこじゃないってば。」栞代が勢いよく突っ込むと、またみんなが笑いに包まれた。
「そういえば、紬さん。」祖父が少し思案顔で言う。「いや、紬さんとつぐみさん、名前の響きが似てるじゃろ。ちゃんと間違えずに言えるか心配でなあ。」
紬はすかさず返す。「それは私の課題ではありません」その一言に、またみんなの笑い声が響いた。
五人でたわいもない話に花を咲かせた。好きなドラマや俳優の話、学校でのちょっとした出来事。何気ない会話がこんなに楽しいものだったのかと、紬は心の中で静かに驚いていた。三人の話をニコニコして聞いては、杏子の祖父が時折冗談を交え、祖母がそれに笑顔で相槌を打つ。紬は、この家の居心地の良さにすっかり引き込まれていた。
気づけば、窓の外は夕方の柔らかな光に包まれていた。「そろそろお暇しなきゃ」、栞代と紬が席を立った。「今日はありがとうございました。本当に楽しかったです」二人が礼を言うと、杏子が慌てて言った。「あっ、ごめんね、引き止めちゃって!おじいちゃんと一緒に送るね」
祖母は玄関先まで出てきて見送ってくれた。ほんのり冷たい夕方の風が心地よい。「紬さんも栞代ちゃんも、杏子のこと、よろしくお願いします」祖母の優しい声に、紬は小さく頷いた。「いや、こちらこそ、いつもお世話になりっぱなしで」栞代が恐縮しながら答えると、祖母は柔らかく微笑んで手を振った。「またいつでも遊びにきてね。」
車に乗り込むと、祖父がエンジンをかけながらふと思いついたように言った。「弓道ってのは、狙う的だけじゃなくて、自分の心と向き合う道でもあるんじゃな。他人と比べることは誰にでもあるけど、最終的には『自分にとっての的』を見つめるのが大事なんじゃよ。」
「いま、いいこと言ったと思ってるでしょ。」栞代がすかさず突っ込むと、祖父は照れ隠しのように笑いながら、「いい言葉やったじゃろ?」と返した。
「ほんっと、口だけは上手いんだから。」栞代がからかうと、杏子が横から口を挟む。「栞代、失礼よ。おじいちゃん、紅茶を入れるのも上手なんだから。」
「あ、そうだった。あと美人を見つけるのも早いよね。」栞代の一言に、車の中は一気に笑い声で溢れた。
栞代は笑いながら、今日の会話を振り返っていた。
だから杏子は、あんなにも姿勢の乱れに敏感なんだ。みんなの射型をチェックするのも的確だし、でも自分の射型を語る時はどこか控えめだったよな。
その考えに納得しながら、窓の外を流れる夕暮れの景色を眺めた。
「今やってる基礎練習って、退屈に思えるけど…これが大事なんだろうな。」心の中で呟く。初心者として弓を持つまで何カ月も待つ時間。それはただの準備期間ではなく、弓道の本質に触れる大事なプロセスなんだ。
車が紬の家の前に止まると、祖父はドアを開けて紬の両親に挨拶をした。「またいつでも紅茶を飲みにいらっしゃいよ」祖父の言葉に、紬は少し照れくさそうに微笑んだ。
それは、わたしの課題ですね。
誰にも聞こえないように心の中でそう呟くと、紬は静かに家の中に入っていった。
次に栞代を送る番になった。車がいつもの場所に止まると、祖父が言う。「栞代、練習の後は来るのが義務じゃぞ」
「ありがと、おじいちゃん」栞代は笑顔で応え、車を降りながら振り返る。「ところで、わたしも結構美人だと思わない?」
祖父は笑いしながら、「もちろんじゃ」
「杏子、また明日ね!」そう言いながら、栞代は軽快な足取りで家路に向かった。
車の中は静かになり、杏子は少し疲れたように座席にもたれかかった。窓の外は赤く染まった空が広がっている。
「いっぱい話したなあ」杏子は小さな声で呟いた。今日の笑顔や会話が頭の中を駆け巡る。
そして、そっと目を閉じると、次の瞬間には明日への気持ちが湧いてきた。
また明日、みんなと一緒に練習しよう。少しずつでも、前に進んでいこう。
金メダルという目標に向かって。
祖父の横で、杏子はそのまま夕暮れの風に揺られていた。