第176話 合宿最終日
杏子らが一日観光をしてから、合宿最終日まで、一週間弱。
時間帯そのものは、それまでの合宿とまったく同様に行われたが、自由時間にも杏子が勝手に練習し、それを見て栞代が付き添い、そして瑠月、冴子、沙月が付き合った。人数は4人だから、圧倒的な濃密さでの練習だった。深澤コーチと榊原夏美コーチがきちりと個別指導をし、拓哉コーチが総括、そして滝本先生が分析と、完璧な指導体制を構築していた。
夜は、短くても瑠月が勉強会を開き、特に杏子にしっかりと勉強と、そして勉強のやり方を教えていた。
瑠月は、栞代と共に、何日かは、杏子と共に就寝し、まさに寝食を共にした。ま、杏子の祖父が僻んだのはご愛嬌。
そして。
空は、どこまでも高く澄んでいた。
蝉の声すら遠くなり、山あいの涼しさが一層その静けさを際立たせていた。
合宿の最後の朝。杏子は、いつものように早くに目を覚ました。宿の外では神楽木綾乃が、朝の準備をしていた。杏子が起き、「おはようございます」と声をかけると、倍の声量で声を張り上げていたが、なんだかその声も今日は柔らかく感じられる。
練習は早朝練習のみ。
その最後の練習が終わる時、
「杏子!」
冴子の声で振り返る。
瑠月、沙月、冴子の三人が並んでいた。
「ラスト一本。…付き合ってくれる?」
その言葉に、杏子は小さく頷いた。
弓道場には、昼前の光が差し込んでいる。みんなで静かに、最後の矢を番える。
いつもより少しだけ、動作が丁寧になる。
「――せーの」
四本の矢が、空気を切り裂いて、まっすぐ的へ飛んだ。
その音は、清々しかった。
弓道場を出た杏子が、コーチたちの前に立つ。緊張で肩がすくむ。
「えっと……」
深呼吸を一つ。
「最後まで、わがまま言って、練習につきあってくれて、本当に……ありがとうございました!」
深々と頭を下げたその姿に、拓哉コーチも、深澤コーチも、そして榊原夏美コーチも黙って頷いた。
深澤は軽く笑って「ま、こっちもいい刺激になったよ」と言い、拓哉は「あとは紫灘旗、獲ってこい」と短く言葉を返した。夏美コーチは「宇宙人の神髄を見たわ」と言って笑った。
そして朝食を取り、宿を掃除して、全員で荷物を片付けた。
三人の三年生が、杏子を呼び出した。一つの部屋に入っていく。
いつもセットになっている栞代が「いや、なんかこういう場面、普通はヤキを入れられそうなんだけど、その心配もないし、わたし、出てましょうか?」と言うと
「いや、みんな一緒に居よう」そう冴子が言った。
杏子は、ちょっとだけ不安げに三人の前に立った。
「あの、わ、わたし、、な、なにか…しました…?」
「ちがうよ」冴子が笑った。「ただ、言いたかっただけ。ありがとうって」
「そうそう。私たち、三年生はこれで最後なんだからね」沙月が言った。
「杏子ちゃん」
呼ばれて、杏子が目を丸くする。瑠月の顔は、いつもの穏やかな表情だった。
「私ね、この合宿……正直言って、しんどいことも多かったの。身体もキツかったし、心も揺れたし、家庭のことで悩むこともあって」
杏子は、そっと瑠月の手に触れる。
「でもね、それでも、杏子ちゃんと一緒に練習できて、本当に幸せだったの。…ありがとう」
その言葉に、杏子の目から涙がぽろりとこぼれた。
「これで終わりなんて、ょっとヤだな。もっと、ずっと一緒に練習したいな」
瑠月がそう言ったとたん、
杏子が、声をあげて泣き出す。
「う、うわあああああああん!!」
冴子が困った顔で、「出た、杏子の大号泣」と言って頭を撫でる。沙月は「勝負の結果では絶対に泣かないのに、こういうのに杏子は本当に弱いね」と言って背中をさする。
瑠月は、静かに口を開いた。
「杏子ちゃん、大会が終わっても、何か役にたてることがあったら言ってね」
栞代が「やっばり勉強見て欲しいよな」と代わりに応えると、瑠月は
「そんなのお安いご用よ。家庭教師してあげる」
その瞬間、杏子の涙がスッと止まった。
「あっ……ほんとですか!? ほんとですか? ほんとに?」
と言って嬉しそうに微笑んだ。
三人の三年生は、顔を見合わせて、大笑いした。
「ちょ、あんた泣いてたのどこいったん!?」
「泣いたカラスがすぐに笑う」
「もう…ほんとに、杏子ちゃんは弓を握ってないと、かわいいなあ」
杏子はそれを聞いて、口をきゅっと結び、ほほをぷくりと膨らませた。
「じゃあ、弓を握ってる時は?」
「宇宙人じゃん」栞代がそう言うと、またみんなで笑った。
宿の玄関へと向かう。
そこには、優しく神楽木綾乃が佇んでいた。
杏子の祖父が、その綾乃に近づいていく。
手には、何やら包み。
「神楽木さん。ほんとうにお世話になりました。杏子の我が儘を聞いて貰い、感謝のしようもありません」
その包みを渡そうとした。
だが、綾乃はそれを押し戻した。
「受け取れません。弓道に真剣に取り組むみなさんのお役に立てれば、それがわたしの生き甲斐なんです」
「しかし――」
神楽木は、杏子、瑠月、冴子、沙月を見渡し言った。
「それなら、蓮遥祭のメダル、それをわたしに持ってきて」
そして、その言葉に反応するように、杏子の背後から三人の声が重なった。
「絶対、持ってきます」
冴子、沙月、瑠月――三年生の三人が、声を揃えて、そう誓った。
そして、蓮遥祭開催の地、煌南の博湾に向う。




