第175話 観光の日
信州の澄んだ空気と、家族の笑い声が響く夏の一日
合宿の合間、杏子たち、ずっと合宿場に残ったものたちは、心身のリフレッシュをと、新たに参加した沙月と冴子の両親の提案に従い、長門牧場と安曇野ちひろ美術館へと向かう。信州の朝は清らかで、空気を吸い込むだけで胸の奥まで洗われるようだった。
午前:出発と長門牧場
朝8時、二台の車が合宿場を離れる。祖父の運転する車には、祖母と杏子が同乗し、もう一台には杏子の父母、瑠月、栞代が乗り込む。
祖父のハンドルさばきは未だに健在。滑らかで、後部座席の二人は思わず感心してしまう。杏子は「おじいちゃん、やっぱり運転上手だねえ」とぽつり。祖母が「居眠りだけはしないでね」と笑いながら返すと、車内に柔らかな笑い声が広がる。
一方、栞代と瑠月は助手席一人大人しい杏子の父を気遣いながら、運転席で機関銃のように話しかける杏子母への返答に追われていた。
9時半、長門牧場に到着。高原の爽やかな空気が肌を撫で、杏子は思わず「このままここが弓道場ならなあ」と冗談を飛ばす。
栞代が「ちょっと弓から離れるためにきた観光だよ?」と突っ込み瑠月が笑う。
羊や牛の姿に心がほぐれ、濃厚なソフトクリームを頬張ると、祖母が「冷たくて美味しい」と呟く。おじいちゃんが「ぱみゅ子、六甲牧場のソフトクリームとどっちが美味しい?」と聞くも、杏子は、そもそも六甲牧場に行ったことを覚えていなかった。
祖父は「ほら。なかなか三人で遊びに行く機会がないからそうなる。これからは、弓道の練習をほどほどにして、おじいちゃんとだなあ・・・」と一人演説をぶっていた。
ランチタイム、牧場レストランのテーブルには、祖父が全員分のピザを勝手に注文する。杏子は「食べきれないって言ってるのに…でも美味しいね」と、口いっぱいにピザをほおばりながら、どこか嬉しそうな顔を見せる。瑠月も栞代も必死で口に入れていた。
午後:安曇野ちひろ美術館
午後の配車は、祖父、祖母、栞代、瑠月の4人と、父母、杏子の3人に分かれる。
栞代が祖父に「杏子のお父さん、ほんとに穏やかな人だよね。おじいちゃんの血は、なぜか杏子のお母さんに引き継がれてるみたい」と笑う。
祖父は「ま、杏子はわしに似てるから、それでいいんじゃ」と言い出すも、栞代は、
「どう考えても、杏子はおばあちゃん似だろ? どこがおじいちゃんに似てるんだよ」
といいだすと、祖父は「そんなことはないわ。絶対にわしにそっくりじゃ」と言い張る。祖母が、そっと栞代と瑠月に目配せをする。瑠月が「ほんと、おじいちゃんにそっくりですよ」と慌ててフォローしていた。
一方、親子3人水入らず、な車内では、相変わらず母が一人で話し、杏子は時々「うん」と応えるのみであった。
会話はほとんどなくとも、家族と過ごす時間の温かさが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
13時半、美術館に到着。静謐な空気が漂い、さっきまでの牧場の賑やかさが嘘のように消えていく。
祖母が大好きないわさきちひろさんの美術館。「ここで暮らしたいぐらいね」と完全に本気な口調で言い出す。
杏子はちひろの絵の前で、「なんか、言葉で説明できないけど、すごくやさしい」と小さな声で呟く。
おばあちゃんの印象と、すごく似てるな。
そんな風に思っていると、瑠月が杏子に小さな声でそっと呟く。
「杏子ちゃんのおばあちゃんの印象に似てるね」
杏子は驚いて、瑠月に、なんどもぶんぶんと首を楯に振った。
15:30~ カフェタイム
ジェラート屋で過ごす最後のリラックスタイム。杏子はカップを手に、「なんか、また明日から全開で練習できそう」と前向きな言葉を口にするも、栞代は「杏子、頼むから今は弓道の話をしないでよ」と、昨日榊原コーチに言われた言葉を思い出す。
父が「たまには、手を抜くことも覚えたほうがいいぞ」と優しくアドバイスすれば、栞代が「そこ、もっと言ってやってください」と笑う。祖母が「おじいちゃんは手を抜いてばっかりだけどね」と呟く。栞代は、それみろ、ちっとも似てねーじゃん、と思い、杏子を見ると、杏子は黙ってにこにこしてた。
17:00 帰着
帰り道、杏子は案の定ぐっすり眠り込んでいた。
祖父は「いやぁ……よかったのう~」を本気で二十回以上繰り返し、栞代が「おじいちゃん、何回言うんだよ。カウンターで数えるぞ」と冗談を言えば、祖父は「1の位が消えるやろ」とわけのわからない返しで、また車内が笑いに包まれる。
合宿場に戻ると、いつもの空気が迎えてくれる。
祖父がたっぷりと買ったお土産を、冴子、沙月、そしてそれぞれのご両親、滝本先生、拓哉コーチ、榊原夏美コーチに渡す。
瑠月と杏子は、冴子と沙月に練習の様子を聞いていた。
栞代が、早速お風呂に入って、夕食にしよう、と声をかける。
あ~、今日は楽しかったなあ。夕食食べて、のんびりしよう、と言うと、杏子が
「え? 夜の練習は?」
と言い出す。栞代は、本当に宇宙人を見る目で、杏子を見ていた。




