第173話 つぐみ 再会の弓
朝の合宿場は、昨日までの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。部員たちはバスに乗り込み、地元へと帰っていった。バスが山道を下っていく音が遠ざかると、残されたのは杏子、瑠月、栞代、拓哉コーチ、そして杏子の祖父母と神楽木管理人だけだった。
「少し寂しいね」瑠月がぽつりと呟いた。
杏子は窓の外を見つめながら頷いた。昨日まで響いていた仲間たちの笑い声が、今は記憶の中にしかない。しかし、感傷に浸っている時間はなかった。今日から本格的な遠的の練習が始まる。
「さあ、始めようか」拓哉コーチの声が、朝の空気を切り裂いた。
午前の練習は厳しかった。遠的は近的とは全く違う技術を要求する。杏子と瑠月は、拓哉コーチの指導のもと、一射一射に集中した。瑠月はすでに遠的の本格的な練習に着手していたが、杏子は、まだまだ馴染む必要があった。
栞代は練習のサポートに回り、的の確認や矢の回収を手伝った。一方、祖父母と神楽木は、これからの生活面について相談を重ね、役割分担などを細かく決めていた。
午前の練習が終わった時、合宿場の入り口に車の音が響いた。誰もが首をかしげる中、車から降りてきたのは厳敷高校のつぐみだった。
「おお!つぐみっ。よく来たな~」
杏子の祖父が駆け寄ると、つぐみは「おじいちゃん、こんにちはっ。今回は本当にありがとう。野蒔にいろいろと聞きました。ほんとにありがとう」
「よせよせ~。がははは~」
祖父の声が山間に響いた。その表情は、まさにご機嫌MAXという言葉がぴったりだった。
杏子は驚いた。こちらも満面の笑みだ。「まさか、来てくれるとは思ってなかったよ」
つぐみの姿を見た瞬間、杏子、栞代、瑠月の三人は大感激で彼女を迎えた。合宿場の空気が一気に温かくなった。
昼食の時間、四人は輪になって座った。つぐみはまだ少し居心地悪そうだったが、瑠月が柔らかく話しかけ、栞代が軽口を叩くうちに、徐々に表情が和らいでいった。
「本当に来てくれてありがとう」杏子が心から言った。
「私も、どうしてもみんなに会いたかったから」つぐみが小さく微笑んだ。
昼食後、つぐみは立ち上がった。「練習の邪魔はできないから、そろそろ帰るな」
その時、杏子が珍しく口を開いた。「つぐみ、帰る前に勝負しようよ」
つぐみの目が輝いた。そういえば以前はずっと、いつもいつも自分から杏子に勝負を挑んでいたのに、今度は杏子の方から言い出してくれた。
「それなら、栞代も入れて三人でやろう」つぐみが提案した。
「面白そうじゃない」栞代が立ち上がった。
瑠月と拓哉コーチが補助につき、三人の勝負が始まった。弓を引く音、矢が的に向かう音、そして的に当たる音が、山間に響いた。それぞれの技術は違っていたが、三人とも真剣だった。
勝負が終わると、つぐみが栞代に声をかけた。「上手くなるとは思っていたが、本当に上手くなったな」
「つぐみはまだ本調子じゃない。本調子になったら、またやろう」栞代が返した。
「ああ。それにしても、杏子は健在だな」
「杏子は弓を持たせたら宇宙人だから」栞代が杏子を指差した。
杏子はぽかんとして、「それは喜んでいいのかな?ひど~いって言うところ?」と首をかしげた。二人はそれを見て笑い、つぐみが「ほんとに変わってない」と嬉しそうに呟いた。
そして、つぐみの表情が急に真剣になった。
「杏子、栞代、突然引っ越してしまったこと、今さらながら本当にごめん」
二人は黙って聞いていた。
「どうしても言えなかったんだよ。辛すぎてさ。別れの挨拶なんて、とてもできなかった」
栞代が軽くつぐみの肩に手を置き、その手が軽やかなリズムを刻んだ。
「報告もあってさ。厳敷高校は、蓮遥祭には参加しないことになった。そして、父に全てを報告したら、父も学校を信頼できないって言って、転校することになったの」
つぐみは少し笑った。「父は決めたら行動が早いのよ」
「転校先は?」杏子が尋ねた。
「琵波の千曳ヶ丘高校になると思う。厳敷に行った時、ここも候補に上がってたんだけど、わたしが弓道が強いところに行きたくて」そう言ってつぐみは瞳を落とす。
杏子は、わたしたちと全国で会おうと約束したことを叶えたい故の選択だったことを知った。そして、その結果・・・・。
「父の実家があって、これからは父の祖父母と暮らすことになる。杏子と同じだね」つぐみが微笑んだ。
杏子の目が潤んだ。辛い思いをたくさんしてきて、これからはたくさん楽しんでほしいな。
「弓道は強いのか?」
栞代が尋ねる。
「いや、公立校だから、そうでもないけど、弓道部はあるらしい」
午後の練習が開始される時間になった。
「別れの挨拶は辛いから、練習を見てこっそり帰るわ」つぐみが言った。
「今度は同じブロックだから、ブロック大会で会おう」栞代が言った。
「絶対にね」つぐみが頷く。
つぐみは、才能を見いだしてくれた拓哉コーチに挨拶をする。コーチからは、もし指導者が居なかったら相談してほしいと告げられた。同時に、琵波は弓道では伝統もあり有名なところ。むしろ公立高校の方が、指導者は充実してるかもしれない。つぐみの実力と意欲を発揮すれば、間違いなく強くなる。と励まされた。
三人が練習に入ると、つぐみは少し離れたところから見守った。まだまだ遠的に慣れていないはずなのに、杏子の美しい射形、そして瑠月の真摯な姿勢、それを支える栞代。それぞれが成長していることを確認すると、つぐみは静かに合宿場を後にしようとした。
タクシーに乗り込もうとした時、杏子の祖父が駆けつけてきた。
「つぐみ、辛いめにあったな。でも、それよりなにより、これからも何かあったら、絶対に相談してくれよ。去年も相談してくれれば何かできたはずじゃ。なんせ、わしはまったく頼りにならんが、その分、わしの友人は頼りになる奴ばっかりじゃ。なんなら、一緒に暮らしても良かったんじゃ」
祖父は涙を堪えながら言った。寂しがりの祖父がかけた言葉は、うそじゃなかった。
その言葉を聞いて、つぐみはぽろぽろと涙を流した。
「おじいちゃん。ほんとにいろいろとありがとう。おじいちゃんのところは、居心地が良すぎたんだよ。また遊びに行くよ。近いうちに絶対」
「約束じゃぞ、つぐみ。絶対に遊びに来るんじゃぞ」
「うん。必ず行くよ。そのときは、紅茶淹れてよね。スペシャルティーを」
祖父の温かい言葉に包まれて、つぐみは新しい出発への勇気をもらった。タクシーが山道を下っていく中、つぐみは窓から見える合宿場を見つめ続けた。
そこには、かけがえのない友情と、第二の家族がいた。そして、新しい未来への希望があった。
合宿場に残った三人は、つぐみを見送った後、再び練習に戻った。しかし、誰もがつぐみの訪問によって、友情の大切さと、支え合うことの意味を改めて感じていた。
杏子は弓を引きながら思った。離れていても、心はつながっている。ブロック大会で再会する日まで、自分も成長し続けよう、と。
山間の合宿場に、再び弓を引く音が響いた。




