第169話 団体戦決勝トーナメント その2
大会最終日、いよいよ、高校弓道界の頂点に立つ高校が決まる。連覇記録を伸ばそうとする鳳城高校、阻止するべく乗り込んできた鳴弦館高校、そして新興勢力としての厳敷高校もトラブルを乗り越えて残っていた。
夏の陽が射しこむ体育館の空気は、静謐で、けれど濃密な熱気を孕んでいた。会場を包む緊張は、もはや空気というより重さだった。
準々決勝、光田高校の対戦相手は、予選で3位だった、東条学園。
「いくぞ」と、冴子が声には出さず、いつものように視線で仲間に合図を送った。応えるように、栞代は静かに頷き、つばめが拳を軽く握りしめる。沙月は唇をきゅっと引き締め、紬は眼鏡を押し上げる仕草で精神を整えた。
射場には、光田高校と東条学園、両校の5人が並び立っていた。
最初の矢を射るのは、光田の切り込み隊長、栞代。澄んだ動きで立ち、構えた。張りつめた沈黙の中で、矢が放たれる――
的中。
歓声ではない。感嘆に近い、ため息のようなどよめき。光田の士気が、音もなく持ち上がる。
その後を射るのは沙月。普段通りの動き…に見えたが、やはり彼女にはまだ“本番の魔物”が纏わりついている。一射目を外した。
沙月はしかし、気持ちを切り換える。
そして、1年生のつばめ。姉譲りの豪胆さを封じ、冷静な射を見せる。姉の気持ちの強さ、杏子さんの技術、その二人を知ってるわたしは最強だ。そう自分に言い聞かせる。
紬は慎重な動作。普通に呼吸を整えるように放った矢は、惜しくも左に外れた。
最後に立つ冴子。弓を引くたび、場の空気が揺れるような集中力をまとっていた。一本目、的中。
一の立が終わり、東条学園の選手たちも冷静に矢を重ねる。橘美桜、如月澪、結城玲奈――各々が得点を重ねていき、静かな拮抗が生まれ始めていた。
二の立。
栞代、またもや迷いなく中心を射抜く。まるで一射ごとに地面に根を張るような安定感。
沙月は慎重に、少し時間をかけて二本目を放つ。今度は芯をとらえた。観客席から、かすかな安堵の気配が伝わる。
つばめもまた集中を深め、まっすぐに矢を送り込む。二的中目。
紬も、表情を変えず的に向かって弓を引いた。中った。表情は変わらない。
冴子は……姿勢も射も美しい。矢は静かに、しかし確実に中心を突く。
三の立。
栞代の三本目も迷いがなかった。完璧な三的中。
沙月は、またしても外した。わずかに呼吸が乱れているのが見えた。すぐに気を取り直す。観客席の杏子は、「沙月さん自信を持って」と気持ちを送る。
つばめ、三本目も中てた。射の力強さは姉譲りだ。
紬は、三本目を外す。的をじっと見つめたまま、表情は変わらない。
冴子、三本目も中てる。冴子の力強さに、他の四人が支えられている――そう思わせる一射。
東条学園も譲らない。特に早乙女陽彩の三連続的中は、さすがだ。
四の立。
栞代の最後の矢。一本たりともブレず、見事に締めた。四的中。切り込み隊長の気迫に、思わず東条の監督が頷く。
沙月――深呼吸。ゆっくりと弓を引き、丁寧に放った。…中った。静かに安堵する。
つばめは、しっかりとした足取りで的を見つめ、堂々と四本目も中てた。
紬――最後の一本を沈めた。これで三的中。彼女は何も言わず、ただ一礼して射場を離れた。
冴子。部長としての気持ちを込める。勝負がかかる1本だという自覚はあった。深く息を吸い、放つ。…静かに的心に吸い込まれる音が響いた。
光田高校、的中15本。
同時に掲げられた数字を見て、光田の5人は互いの目を見た。全員がぎりぎりまで集中し、それぞれが役目を果たした。
東条学園は、14本。あと1本。だがその1本の壁が、頂点への道を分けた。
射場を下りたあと、冴子は沙月の肩に手を置いた。
「ほんとに怖かった。つくづく杏子の凄さが分かるわ」
沙月は、言葉にならずに頷くと、冴子の胸に顔を埋めて、ようやく涙を落とした。
勝者であるはずの彼女たちの表情に浮かぶのは、歓喜よりも、試練を越えた者だけが知る、静かな達成感だった。後二つ。
だが、準決勝で立ちはだかる相手は、鳴弦館高校。
高校弓道界の頂点を懸けた戦いも、いよいよ佳境に入った。
全国大会準決勝、会場には静かな緊張感が満ちていた。
対戦カードは、光田高校 vs 鳴弦館高校。
誰もがこの一戦で、光田の快進撃は終わるだろうと考えていた。何しろ鳴弦館は、これまでのすべての試合を圧勝し勝ち上がってきた。しかも鷹匠篝、日下部茜理、神尾慧、九重茉莉花、そして絶対的エース、篠宮かぐや――個人戦でもトップレベルの選手を揃えた名門だった。
だが今日、異変があった。
篠宮かぐや。その様子が、明らかにおかしい。
準々決勝戦では、明るさがなく、一本もあてることができなかった。かぐやには考えられ邸。その後の練習でもまるで集中できていない。彼女の隣に付き添っていたのは、チームメイトであり“子守役”とも言われる真壁妃那。コーチが交代を打診したが、真壁が固く首を振り、静かに言った。
「かぐやを信じてあげてください。ちょっと調子を戻すだけで、わたしは足元にも及びません」
そして試合は始まった。
一射目。
光田高校の五人が静かに前へ歩を進める。栞代、あかね、つばめ、紬、冴子。それぞれがそれぞれの思いを胸に、深く礼をして弓を構えた。
観客席から小さなざわめきが起こる。光田の一番手、栞代の矢が、真ん中に突き刺さった。
光田高校は好調な滑り出し。とくに栞代の安定感は異常とも言えるほどだった。的を睨むその姿は、射場そのものを支配するような存在感があった。
しかし、あかねが外す。あかねは、安定している沙月より、調子の波はあるが、爆発力のあるあかねをコーチが選び、送り出されていた。
「次、次」
自身にそう言い聞かせたあかねは、二射目から持ち直す。
つばめ、紬、は3本とまとめ、栞代と沙月が皆中。合計16本。
なんとかギリギリ鳴弦館高校に挑戦できる本数、だといえた。
だが、鳴弦館のつぐみの不調は回復していなかった。鷹匠、日下部、神尾が、次々と矢を的に沈めていくが、かぐやがまさかのブレーキ。1本やっと、だった。
観客席の杏子は、まさかのかぐやの状態に驚いたが、また、この状態でも1本あててくる底力に、感嘆した。
光田高校、16本。
鳴弦館高校、16本。
誰が見ても、ここまでの光田の出来は奇跡的だった。杏子を欠いて、ここまで戦えるとは。栞代が、冴子が、つばめが――全員が限界を越えて的を射抜いていた。
だが、研ぎ澄まされるのは、ここからだった。
そして、試合は競射へ。
緊張を昇華したように見える五人。拓哉コーチは、「自分の矢を信じろ。相手は関係ない」と自らに言い聞かせ、五人に届くよう、祈り続けた。
第一巡目。
あかねが重圧で外す。
鳴弦館も四本。つぐみが復調せず、おかしいままだった。
第二巡目。
安定して的中を続けていた栞代が……外す。
顔を上げた彼女の表情には、信じられないような痛みがあった。
自分を信じることで結果を出してきた栞代。
(あたしが、外した? ここで?)
しかし、栞代のあとに控えたのは、あかね。緊張で震える指を無理に止めようとせず、心を杏子へと向けた。
(杏子……あんたが一番見たかった景色、絶対にあたしが届ける。これが今のあたしの最高の姿だよ)
そこからの光田高校は、全員が当てた。苦しい時こそ、あてたい時こそ、姿勢を。
杏子の気持ちを、理想を、全員が体現するんだ。
それは、もはや執念でも気合でもない。まるで「信頼」そのものが矢になったような、静かな、だが揺るぎない弓だった。
一方、鳴弦館。
鷹匠、日下部、神尾、九重――すべて中てた。
だが、篠宮かぐやの調子が戻ることは無かった。
その瞬間、鳴弦館の選手たちは小さく息を飲み込んだ。
試合後、うなだれるかぐやに、
「よく立っていた、かぐや!それで十分だ」
神尾が声をかけ、真壁がそっと肩を抱いた。部長の鷹匠がかぐやの頭をくしゃくしゃにする。九重は「わたしがもう一本あてればよかったんだ」と自分を責めた。
篠宮かぐやはなにも言えず、ただ俯いた。
試合後、光田高校は、全員が座り込んでいた。足が震えて、立てない者もいた。迎えた沙月が「まさか勝てるなんて」と呟き、あかねは肩を震わせながら泣いていた。
冴子は、ふと隣に座る栞代を見た。
「すいません、肝心なところで外し……」
その言葉を冴子は遮るように言った。
「杏子、絶対喜んでるよ。たぶん、今日のわたしたちは…誰にも負けなかった」
それに、静かに頷く栞代。
誰もが杏子を思い出していた。
苦しいときこそ、自分の最高の姿を。
あてたい時こそ、自分の最高の射型を。
それが杏子の姿だった。
光田高校の勝利は、「実力」だけではなく、「想い」が射抜いた矢の結実だった。
そして、頂点はもうすぐそこにある。
だがその先には、厳敷高校をあっさりと倒した絶対王者・鳳城高校が待っている。
(……杏子、あとひとつ、見ててくれよ)
そう心で呟いたのは、冴子だったか、つばめだったか、それとも栞代か。紬か、沙月か。
それは、全員だったのかもしれない。




