第163話 姿勢だけ
開会式が徐々に迫ってくる。会場の空気はまだ静かだった。澄んだ朝の空気の中、控えめながらも目を引く黒塗りの車が、会場の駐車場に滑り込む。
助手席のドアが開き、先に降り立ったのは、白髪に優しい笑みを浮かべた初老の男性だった。エリック・ヴィルタ。ソフィアの祖父であり、日本文化研究の第一人者としても知られている。
続いて後部座席からスーツ姿の女性が現れた。フィンランド大使館文化交流担当官、カイヤ・レフティネン。エリックと並び、落ち着いた足取りで会場に入ると、受付に丁寧な挨拶をして、静かに着席した。
その数分後、別の黒い車が到着した。スーツ姿の中年男性が降り立つ。祖父の知人である法律事務所の代表、弁護士の田之倉敬。穏やかな笑顔でスタッフに名刺を差し出しながら、会場の端の席へと向かった。
さらに遅れて、ややくたびれたグレーのセダンが会場入り。降りてきたのは、瀬島信一衆議院議員。見た目は地味だが、文教政策に深く関与し、地元の教育関係者からの信頼も厚い男である。
受付の係員が戸惑いながら尋ねた。「ご来場の目的は……」
「視察です。光田高校の関係者から、お話を聞きましてね」
それだけを言い残して、瀬島は静かに会場へ入った。
県知事やスポーツ協会会長といった、来賓予定ではない、急な来場。
彼らの存在に、まだ多くの観客は気づいていない。しかし、連盟の関係者の中には、驚くものもいた。
そのころ、杏子は静かに身支度を整えていた。化粧台代わりの小さな鏡に向かって、めぐみ、華恋が準備をしていた。
「杏子、どう?」
開会式に出席する冴子が声をかけた。
杏子は微笑みながら振り向いた。「はい」
まだほとんどいつもの姿と変わらないが、気迫と静謐が同居したような、不思議な存在感。
「やっぱりいつもと違うね」
冴子はぽつりと呟いた。
祖父はそれぞれの元に挨拶に出向き、楽しそうに挨拶を交わしていた。
開会式が終わり、徐々に本番が近づいてくる。
拓哉コーチが競技前の杏子を見た時、思わず、息をのんだ。
コーチは、杏子の祖父の表現から、もっと派手なメイクを予想していて、即失格レベルをどうクリアしようか、あれこれ考えていたのだが、そうでは無かった。
反抗心を分かりやすく表現して、髪の毛の色もそれこそ7色にするんじゃないかとびびっていたが、そうではなかった。
「杏子さん、その、派手にはしなかったんですね」
「コーチ、今日任せた栞代の友人、めぐみさんと華恋さんも、当初はそう伝えたんですが、似合わないなって。一番の自分で行けって」
なるほど。これなら何も問題はない。いや、問題はあるが、いいラインだ。そもそも地味なイメージしかないから、普通にするだけでも、大分違うな。
「杏子さん。いつもと違う時だからこそ、いつもと同じでな」
コーチがそう声を掛けた。
杏子は、昨晩の祖母の話を思い出していた。
杏子ちゃん、明日はすごいプレッシャー感じると思うけど。
うん。おばあちゃん。どんどん緊張してきたよ。どうしよう。わたしが外しても本当はわたしだけの責任だけど、でも、おじいちゃんをがっかりさせちゃうよね。面目まるつぶれっていうか。おじいちゃんの期待に添えなかったら、おじいちゃん、元気なくなっちゃうかな。
杏子ちゃん、おじいちゃんは風変わりで、変わり者で、常識無視して、偏屈、奇人変人・・・・。
おばあちゃん、言い過ぎ~。
ふふ。だけどね、杏子ちゃん。おじいちゃん、そんなセコイ人じゃないわ。おじいちゃんもおばあちゃんと一緒。やることをやれば、あとはたまたま。結果は関係ない。結果に左右される人だったら、そもそも今一緒に居ないわ。そもそもおじいちゃんが結果だしたことって・・・・。え~と・・・・・。う~んと・・・・・。
いっぱいあるよ、おばあちゃん。
そうかしら。気にしてないせいか、全然覚えてないわ。
「でも、杏子ちゃん。当てたいって思えば思うほど、願えば願うほど……大事なのは、そこじゃないのよ。
いつも通りの姿を見せられるかどうか。そこがすべて。
緊張はね、そう……今まででいちばん美しい自分を見せる、ってことに集中すればいいの。結果はどうでもいいのよ。そこだけ。ね?」
緊張がなくなった訳じゃないけど、でも、緊張を向ける方向は分かったな。
一種流れ作業のように進む進行。その中でも、独特の時間があるかのように、杏子は静かに立っていた。
杏子の身を包むのは、白一色の弓道着。余計な装飾はどこにもない。けれど、それは杏子にとって“今のすべて”だった。
無言の主張だ。
まるで、心の奥まで白く透けるような、静かで強い白だった。髪は高く結い上げられ、後ろ姿には確かな決意の輪郭が浮かんでいた。
会場はざわめいていた。
杏子の姿を見た誰もが一度目を奪われ、そして言葉を呑んだ。
だが杏子の耳には何一つ入っていない。ただ、祖母の声だけが心に響いていた。
――姿勢だけ。
それは、祖母と一緒に歩んできた、全てだった。
最初に教えてもらい、今も繰り返される。
気持ちを落ち着かせ、心を落ち着かせ、静かに。姿勢だけ。
そしてもうひとつ。祖母から受け継いだ弽。
わたしに会わせて丁寧に補修された弽。かつて祖母がつけていたもの。弓を引くたびに磨いてきたものが、今は杏子を支え続けている。
杏子は一礼し、歩み出る。
音はすべて消えた。ざわめきも、緊張も、すべて背後に置いてきた。
第一射。
矢を番え、弓を構える。
引き分けに入った瞬間、空気が動いた。
背筋が弓の弦のように張り詰め、心が静かに整う。
そのまま、放つ。
矢は一直線に的を貫いた。
的心に突き刺さる音が、場内に静かに響いた。
杏子のまぶたがわずかに閉じる。
だが、その顔に感情はない。
あるのは、ただひとつ――次を射るという意志だけ。
第二射。
弓を番える手に、力みはない。
深く息を吐き、また吸う。
まるで呼吸のリズムが、そのまま矢の軌道になるかのように。
弓が開き、静かに引かれる。
放たれた矢は、空を裂いて、またもや中心を射抜く。
――落ち着いてる。
だが、その心は静かに燃えていた。
誰にも悟られぬように、だが確かに熱を帯びている。
第三射。
指の感覚に集中する。
弓の重さ、弽の皮の硬さ、指先に伝わる弓のしなり。
放つ瞬間、まるで祖母の手が背中を押してくれたような錯覚に包まれる。
矢はわずかに弧を描き、吸い込まれるように中心へ。
ざわめきが、震えるように広がる。
だが杏子は聞いていない。
その場にいる誰よりも、杏子は遠くを見ていた。
第四射。
呼吸を整える。
少し汗が額を伝うのを、風が拭っていった。
祖母の言葉がまた、胸を満たす。
――姿勢だけ。
杏子は、もう一度すべての音を手放した。
心が透明になっていく。
指先の震えも、周囲の気配も、何もかもが霞んでいく。
引き分け。
そして放った。
矢は、風を裂いて走った。
真っすぐに。
弦が放たれる音が、まるで空気を切る刀のように鋭く、静かだった。
的心にまた、吸い込まれるように刺さった。
皆中。
杏子の肩が、わずかに上下する。それは、張りつめていた呼吸をようやく吐き出した合図だった。
緊張ではない。
深く、ゆっくりと、呼吸を戻す。
ゆっくり、退場する。
拍手も、ざわめきも、まだ耳には入らない。
杏子はただ、祖母の弽を感じていた。
――わたしは、ずっと護られている。
そう感じた。
おじいちゃん、ドキドキしたかな。
えっと……あたってたよね、ちゃんと。