第160話 祖父の演説 その1
午後の陽が少し傾き始めた頃、合宿所の門の前に一台の車が止まった。
開いたドアから降りてきたのは、杏子の祖父と祖母だった。
祖父は淡い色合いの麻ジャケットを羽織り、祖母は控えめながらも品のあるワンピース姿。
「おじいちゃんっ、おばあちゃんっ!」
杏子が駆け寄る。その表情は、いつもの優しい笑顔よりもさらに解けて、ほんの少し子どもに戻ったように見えた。
祖母が穏やかに微笑む。
「ほら、転ばないように」祖母にとって、杏子はいつまでも小さい孫だ。
祖父はというと、杏子の姿を見るなり、おおげさに腕を広げて迎えた。
「おー、ぱみゅ子。みんな驚いていただろうな。ちゃんとわしが説明せんとなあ」
その後ろで、栞代が目を細めて見ていた。よく言えば慎重、悪く言えば疑いの眼差し。何か言いたげな顔で、口を結んでいる。
祖父と杏子をスルーして、祖母の方に歩み寄った。
「おばあちゃん、こんにちは」
「栞代ちゃん、びっくりしたでしょう?」
「いや、ほんと、びっくりしました。それで、あの、おばあちゃんは賛成なんですか?」
「大反対よ」
「あっ。そうなんだ。やっはり。でもちょっと安心しました」
「でもね、栞代ちゃん」
「はい」
「おじいちゃんだけなら、いくらでも脅迫・・・いやいや、説得する手段はあるの」
栞代は少し笑いながら応える。「はい。(脅迫って……)」
「毎日合宿を見学に行くってうるさいんだから」
「そこはちゃんと説得してるんですね」栞代が笑いながら応じる。
「そうなの。でも杏子はね。決めるまではみんなに相談したり迷ったりふわふわしてるんだけど。一度決めたら、もう絶対に動かないの」
栞代は、弓道部入部からだから、まだ1年半という短い付き合いだったが、今の祖母の言葉を思い起こさせる場面を、幾つも思い出すことができた。
「そう・・・ですね」
「でも、つぐみさんを助けたい、そして弓道の本当の姿を見せたい、という杏子の思いは」
ここで少し祖母は間を置いた。
「残念だし、方法は他にもいろいろあると思うけど、叶ってると思うの」
栞代は黙って聞いていた。
「最初におじいちゃん一人に相談した、というところがミソね。もうその時に、杏子は、少しエキセントリックな方法でも構わない。一番効果的な方法を求めていたと思うの。でないと、おじいちゃん一人に相談するってことないものね」
そうか。そういう気持ちが杏子にもあったのか。まさかこんな手段だとは杏子も思わなかっただろうが。
「おじいちゃんは、こう・・・ねえ、、、ちょっと風変わりというのかしら、ユニーク、独特、変わり者、常識はずれ、偏屈、奇人変人、変態・・・・・」
栞代は吹き出した。
「お、おばあちゃん、どんどんめちゃくちゃになってますよ」
「あ、あら、つい本音が」
と言いつつ、祖母は大して気にもしてない風にカラカラ笑った。
栞代はそんな祖母を見て、このおおらかさと動じなさがないと、あのおじいちゃんと50年一緒に居るのは不可能だよな、と何か納得したようだった。
食堂には、弓道部全員が集まっていた。
コーチが軽く挨拶をする。
だが、コーチも杏子の祖父も敢えて報告はしなかったが、このときにはすでにもう事態は動き始めていたのだった。
部員は各自、それぞれの思いを抱えていた。
つばめは、むしろ目を輝かせていた。
姉を助ける手段。どんな思いを秘めているのか。
冴子、沙月、瑠月の三人はというと、やや複雑な顔をしていた。
「できれば……なんというか、穏便にいってほしいなぁ……」と瑠月。
「でも、もうここまで来たら……」と沙月。
「うん。聞こう。まずは、それから」と冴子。
みんなが椅子に座る中、祖父が立ち上がった。
「さて。今日は皆さんに、私と杏子の“作戦”についての意味をご説明に参りました」
冗談めかした調子で切り出すその声には、余裕と、なにより腹を括った人間の落ち着きがあった。
「とはいえ、先に言っておきますぞ。これは説明です。ご理解いただく努力はいたしますが、説得ではありません。同意がなくても実行はされる、という前提で聞いてくだされ」
ややざわつく空気に、祖父は両手を広げて制した。
「いいんです、いいんです。納得がいかなくて当然。ただ、黙って進めるのも筋違いなので、ここで説明をば、というわけでして。コーチから連絡を頂いた時には、我が意を得たり、という感じでしたな」
祖母は微笑みを浮かべたまま、何も言わず祖父の横に立っていた。
祖父は、顎に手を当てながら言葉を選ぶようにして続けた。
「今回の目的は、第一に厳敷高校の時代錯誤の体罰、パワハラを公表することによってつぐみさんを助けること。もちろん、厳敷高校弓道部の悪しき伝統を破壊して、つぐみさんだけじゃなく、厳敷高校で苦しんでいる人を助けること。じゃな」
ここで祖父は一息つき、全員を見渡した。ここまでは異論はないだろう、といわんばかりだ。まあ、その通りなのだが。栞代は思う。
「ただ、それだけなら、厳敷高校の勇気ある者たちが録画した動画を公表すれば済む。連盟に提出すれば問題解決に動いてはくれるだろう。多分。みなさんは、これが一時代前ならいざ知らず、ネットが普通にある現代において、隠蔽することなど不可能だから、最終的には、公表してしまえば済む、と思っている人が多いんじゃないかと思う」
その通りだな。
「だが、杏子からこの話を聞いた時、わしは、弓道のみならず、もしかしたら日本の武道全体、いや、そもそものスポーツ界全体に蔓延る悪しき伝統とも言えるかもしれんが」
聞いてる部員たちが騒めいた。
「光田高校の弓道部は、これは全くの偶然だが、こうした悪癖とは全く縁がないと言えると思う。わしは、杏子の味方じゃから、万が一意に沿わない部なら、どんなことをしても辞めさせようとしたと思う。ただまあ、杏子の決心を変えられる力は、わしにはないがな。」
ここ、笑っていいところなのか。栞代は戸惑いながら聞いた。
「悪癖とは、強制と自由意思と考えれば分かりやすいと思う。本来光田高校のような伝統校は、なかなか今のような体制を取ることはできないところじゃが。光田高校には、強制がない。力による強制が」
祖父の声が少しだけ柔らかくなった。
「……そんな“奇跡のような環境”に、杏子は身を置いている。そのありがたさを、誰よりも分かっているんじゃよ」
そして、わずかな間を置いて──本題の核心に踏み込んでいくのだった。