第16話 遠征最終日、その夜のこと
杏子の祖父母との思いがけない楽しい時間を過ごした部員たちは、今日の宿に向かった。
鳳城高校から、帰路への交通の便の良いところに移動した。連休を試合で消化してしまったし、昨日は試合前日の緊張もあっただろう。今日の夜ぐらいは、のんびりと楽しんでもらえたらいい。そんな風に顧問の滝本先生と、樹神コーチは思っていた。。
食事を終えた部員たちは、男女それぞれ宿の一室に集まっていた。練習試合の余韻が、まだ空気の中に漂っている。緊張から、疲れて布団に入ろうとしたその時。
唐突に、瑠月が口火を切った。
「みんな、今日は本当にごめんなさい。わたしがしっかり中てていれば、あの鳳城に勝てたのに」
瑠月が正座して深々と頭を下げた。予想外の行動に、部屋の空気が凍りつく。
「いや、瑠月さん、やめてください」
「そんなこと、言わないでください」
部員たちが慌てて制止の声を上げ、瑠月の頭を上げる。
「でも、私が外してしまったせいで...」
「わ、私が当てていれば...」
花音も俯きながら声を絞り出した。
「何言ってるの、瑠月さんたら。わたしだって当てられなかったんだから」
花音の声には励ます気持ちが込められていたが、瑠月は少し微笑んで俯き首を横に振った。しかし、その瑠月をみんなが優しく見つめているのに気づき、再び顔を上げた。
「私が足を引っ張っちゃったから…」と再び瑠月が言うと、栞代が優しく微笑んで、「そんなことないって」と静かに言った。
「みんなで力を合わせて頑張ってるんだから、誰がどうとかじゃないよ。今までの瑠月さんの支えがあったから、今こうして私たち、ここにいられるんだよ」
その言葉を、瑠月は黙って聞いていた。みんなが瑠月の貢献をしっかり認めているし、なにより必要とされていることが伝わり、少しだけ安堵した表情を浮かべていた。
栞代は続けて「わたしはまだ弓も射ってないから、弓道の団体戦の細かいところは全然分らない。でも、皆が同じ舞台に立って、誰が外したとか当てたとか、絶対に関係ないと思う。その全てが全員の成果のはず」
「そうだよ、瑠月さん」
つぐみが続けた。「わたしは今まで、団体戦って特に興味無かったんだ。でも、ほんとにみんな一丸となって練習して、杏子も支えてくれて、その結果だもん。みんなの成果だよ。一人で責任感じちゃうのは、むしろずるいよ」
「そうだな」冴子が言う。「なんだか試合だけじゃなく、一年生に随分と助けられてるけど、本当にその通りだよ。そんなこと言い出せば、中てたときの成果は自分だけのものになっちゃう。そんなの、団体戦じゃないでしょ、瑠月さん」
「う~ん。そういうことは本来部長のわたしが言わないといけないよね~~。」と花音が軽く言い、場の空気を少し和ませた。
「杏子、何か思うことあるかい?」
突然花音に指名されて、杏子は戸惑ったが、しっかりと発言した。。
「わたしは、今日だって、たまたま中っただけって、思ってます。だから、瑠月さんも、たまたま外れただけだって。
わたしは一番前だったから、みんなの射は見られなかったけど、二順目の弦音は確かに乱れてたと思います。けれど、三順目からはそれもなくなりました。
みんな見事に立ち直って、そんなみんなの気持ちが伝わってきて、わたしを支えてくれました。
だから、三順目からの瑠月さんの矢は、ほんとにたまたま外れただけだって思います」
「なるほどな」つぐみが受け継ぐ。「わたしは、杏子が念仏のように唱えてる(笑)、中るかどうかはただ結果なだけ、というところまで意識は行っていないし、なんなら、それは単に言い訳だとも思ってる。だけど、確かに自分ができることと言えば、ちゃんと正しい姿勢で打つことだけ、なんだよな」
沙月が「それで結果を出すのはやっぱり凄いけどな。」と挟んだが、つぐみは続ける。
「確かに、自分は中れって強く願ってます。だから杏子の境地にはなれないし、今はなりたいとは思っていません。けれど、射型に関しては、やはり杏子が正しいんだと思う。中っても中らなくても、恐いのは射型が崩れることだから。」
「中ててるから言えるじゃなくて?」
花音部長が尋ねる。
「まあ確かに、外しててこれを言うのはちょっとかっこ悪いとは思うけどさ。」
つぐみの言葉に、みんなが笑う。
「でも、本当に、中らないときこそ、この言葉だよ。結果が出なかったからって、射型を変に変えるのは絶対にやめよう。中てることだけ考えて、射型を崩していく人を、何人も見てきたよ。」
「つぐみも杏子も、やっぱり結果を出しているんだから、まずは射型を正しく身につけよう。だから、これから、私たちは、中るかどうかじゃなくて、射型が乱れたときにはお互いに注意するようにしよ。」
花音部長は、こう言ったあと、すぐに「まあ、考えてみれば、当然のことか。」
と言って笑い、みんなもそれに続いた。
「じゃあ、今からは逆に、どれだけ凄かったか、お互いに褒めあおうか。」
その言葉を受け、その場が明るくなり、皆が互いに褒め合い、笑顔がこぼれていた。しかし、ふと瑠月が口を開いた。
「暗くならないで聞いてよ。私は今回の結果で、メンバーからは外れることになったけど、予備メンバーとしてちゃんと準備するから。みんなに何かあったときはすぐ出場できるように、まだまだ頑張るから、心配しないでね。」
その言葉に、花音、冴子、沙月は少し寂しそうな表情を浮かべた。しばらくの沈黙が流れる中で、つぐみが明るい声で言った。
「でも、瑠月さんには来年があるじゃないですか!来年こそ、また一緒に試合に出られますよ!」
その言葉に、ふとした沈黙が漂った。花音と冴子、沙月の表情が曇り、視線を落とす。
「あれ?どうしたんですか?」とつぐみが不思議そうに尋ねると、花音が小さく息を吐いて答えた。
「実は、瑠月さんは事情があって、入学が2年遅れたんだ。今年が最後のインターハイになるんだよ」
その言葉に、つぐみ、紬、栞代、杏子の声が重なった。1年生たちの顔から血の気が引いていく。
「そんな...」
小さな声が静かな部屋に響き、皆がその事実の重みを改めて感じる夜となった。しかし、それでも瑠月の表情には、どこか静かな決意が滲んでおり、その姿に一年生たちもも少しずつ事実を受け入れていくようだった。
確かに三年生たちも瑠月さんのことを「瑠月さん」と呼んでいたし、瑠月さんに対してはどこか素直なところがあった。だから、なにか事情があって、1年遅れたのかな、とは感じていた。同じ歳だから、派手に逆らったりはできないんだな、と。
けれど、瑠月さんは成績も良いし、成績で留年したんじゃないだろうし、やはり何か特別な事情があるんだろう、ということは、なんとなく一年生の共通認識になっていた。
だが、まさか、2年遅れていたとは。
特に杏子は強い衝撃を感じていた。普段からあまり感情を表には出さない杏子ではあったが、いつも明るく振る舞う瑠月さんが、こんな大変な思いを抱えていたなんて。
三年生に絡まれてから、ずっとわたしを気にしてくれ、かばってくれた瑠月さん。その瑠月さんが、最後のインターハイに出られないかもしれない、という事実を聞き、彼女は言葉も表情も失っていた。
そうすると、もう今日のように、試合で同じ的前に立てないのかな。そう思うと、何かが崩れるような感覚が杏子の胸を締め付けていた。
部屋には再び沈黙が広がった。
「あ、やだな。まだまだこれからだよ。さっき、団体戦はみんなで、って話したばかりじゃない。まさか予備メンバーだからと言って、仲間外れにしないでよね。わたしもまだまだ頑張るし、地区大会突破して、県大会も突破して、全国に行こうよっ」
瑠月が、意識的に明るく言った。
それを聞いて、今まで黙って聞いていた紬が、「それはわたしの課題ではありません」と、紬お得意のいつものセリフを呟いた。
「紬、杏子のセリフは役に立つけど、紬のそのセリフは、いまいち意味がワカランな。」
と笑いながら栞代が言った。
「いや、だって、わたしはまだ、弓も触っていないので」
いつも通り冷静に落ち着いて答える紬の姿に、場の雰囲気が和らいだ。
「わたしの課題は、みなさんの応援をすることです」
「わたしを全国に連れてって」
いつも冷静であまり話さず、少し何を考えているのかわかり難い紬が、最後にぽつりと呟いた一言。それがツボに入り、みんなが一斉に大笑いした。
「任せとけって!」とつぐみが自信満々に応えると、栞代がすかさず、「ほんとかな~?」と突っ込む。「私も連れてってよ。あ、やっぱりオレは杏子に頼もうっと!」と言うと、「きーーっ!なんですって~~!」と、つぐみが返す。みんなで楽しそうにやり取りを続ける一年生たちに、場の空気はすっかり和んだ。
そんな和やかな雰囲気の中、花音が誘いみんなそれぞれふとんに入ると、試合の緊張からくる疲れも手伝ってか、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。
窓の外では、月が響いている。
瑠月だけはまだ眠れず、澄んだ月を見上げながら、心の中で静かに紬に、そして一年生に、そして二年生に、そして花音に、感謝を伝えた。
「瑠月」という名は、亡き母が想いを込めてつけてくれた名前だ。どんなに暗い夜でも、月はそっと人々を照らし、寄り添い、希望をもたらす。その光が道しるべとなるように――母は、瑠月がそんな存在になることを願って、この名を贈ってくれたのだ。
瑠月はその名前に恥じない自分であろうと、辛いことがあっても、これまでひたむきに歩んできた。それでも今日は、むしろ自分が多くの仲間からの支えを受け、仲間たちの温かさに包まれていることを実感した。頑張って高校に進学して本当に良かった。勇気を出して弓道部に入って、本当に良かった。
瑠月の胸に湧き上がる感謝の気持ちは、これまで支えてくれた全ての人々へ、そして弓道部で出会った仲間たちへと流れていった。静かに輝く月を見ながら、瑠月はこの瞬間を胸に刻み、深く感謝し、また明日からも母の願いに応えるように生きていこうと心に誓った。




