第158話 弦にかけた覚悟
夕暮れの道場裏に、一台の車が滑り込んだ。
静かに扉が開き、降り立ったのは杏子と、その祖父だった。
杏子の顔には、もう怯えた様子はなく、むしろ何かを楽しむような明るい表情をしていた。
そのまま二人はまっすぐ、コーチの部屋へと向かった。
ノックの音が響き、返事を待たずに扉が開いた。
拓哉コーチが振り返ると、そこに立っていたのは、いつものように静かな杏子と、祖父だった。祖父とは何度も話したことのあるコーチだったが、今は、いつもの楽しげな祖父とは全く違う表情をしていた。
「……これはこれは、わざわざお越しいただいて」
拓哉が立ち上がると、祖父が深く一礼した。
「ご多忙のところ、突然失礼します。少し、お時間をいただけますか」
「もちろんです。……どうぞ」
三人が席に着き、しばしの沈黙のあと、祖父が口を開いた。
「杏子が、ある決意をしました。それをお伝えに来ました。
これからの彼女の行動について、私がすべての責任を持ちます。……ただし、理解を得るのは難しいかもしれません」
コーチが、杏子の祖父が彼女のことを“杏子”と呼ぶのを聞いたのは、これが初めてだった。いつもは「ぱみゅ子」って呼ぶのに。
これは、いつもの話じゃない、と把握した。
コーチは表情を変えずに聞いていたが、言葉の裏にある張り詰めた何かを感じていた。
そして、杏子の考えを聞いた。
コーチは驚きながらも、表情にはださなかった。
「それは・・・・、あまりに目立つことをすれば、弓道部全体の評判にも関わります。学校への影響も、決して小さくないでしょう」
「それは、承知しています」
祖父が即座に答える。
「だからこそ、事前にご相談に伺いました。
この件については、弓道部全体に波及しないよう、徹底的に“個人の選択”として処理してほしい。」
その言葉に、杏子が顔を上げた。
「そのあと、わたし、団体戦を辞退しようと思っています」
「そして、個人戦の予選には出場します。でも、たとえ準決勝に進んでも、そこで辞退します」
コーチの眉がわずかに動いた。
「杏子さん、それは……いったい……なぜ、そこまで?」
杏子は黙っていた。
答えはなかったが、その沈黙こそが、何かを守ろうとする意志そのものだった。
コーチはため息をついた。
「……そんな極端なことをしなくても、つぐみさんの件は、きちんと対応するつもりです。杏子さんが無理をすれば、逆に問題が大きくなるかもしれない」
杏子は口を開いた。
「でも、わたしは……そうしたいんです」
杏子の声は小さかったが、はっきりと響いた。
「弓道において、その姿形は大事です。服装も。でも、それが一番じゃない。一番大事なのは気持ちです。わたしは、それを、川嶋女子の日比野さんと前田さんに教わりました」
「ブロック大会の時のことか・・・・・」
「はい。だから、厳敷高校の、正しいことは一つだけ、決められた姿形、服装、そんな外見じゃない。本当に大事なのはそこじゃない。それを示したいんです」
「外見は気持ちを表す鏡でもある」
「でも、外見を取り繕ったからと言って、気持ちが整うことはありません。順序が逆です」
コーチは、杏子がここまで主張するところを初めて見て驚いた。人に譲る、ことはあっても、ここまで主張するなんて。
しかし、さらに驚く発言を、杏子はした。
「もしどうしても止めたいなら……今、わたしを退部させてください」
拓哉コーチは、絶句した。
だが次の瞬間、何かが彼の中で切り替わった。
——これは、誰かを救いたいだけの話じゃない。
これは、この子が、なんのために弓道をしているのか、その証明なんだ。
「……そこまでの覚悟を持っているとは、思わなかった」
言葉を選びながらも、拓哉の声には、揺るぎないものがあった。
「……分かりました。前もって相談してくれたことを感謝します。突然その行動をされたら、もう混乱しかなかった。
そして、杏子さん、あなたの行動を、支持します。
そして、私も、あなたの指導者として、……あなたのそばに立ちます。もし火の粉が飛ぶなら、私が最前に立つ。それが、指導者としての覚悟です。……ただし、細心の注意をお願いします。もし、今あなたが口にした以上の処分が下されるようなことがあれば、私はこの弓道部を離れる覚悟です」
杏子がわずかに目を見開いた。
祖父も小さく頷いた。
コーチは同意し、賛意を示しつつ、これ以上の暴走は引き止め、そして、沈黙によって、沈黙を指示した。
「ありがとうございます。……では、お願いがあります」
祖父が再び話し出す。
「光田高校弓道部への波及を最小限にとどめるため、まず学校への根回しをお願いします。
そして……弓道界でのつてを駆使して、必要な人々への配慮とバックアップをお願いしたいんです。
もちろん、私たちは、規約には一切違反しない。すべて“マナー違反”の範囲内にとどめることを、ここに誓います」
拓哉は頷いた。
「分かりました。……私からは、お世話になっている鳳城高校の不動監督と、鳴弦館高校の東雲監督に連絡を取ります。
この二人の理解が得られれば、流派的な支援も得られるはずです。弓道界は狭い世界です。
不動監督の白鷲一箭流も、東雲監督の黒曜練弓流も、礼と精神性を最重視する流派。
……杏子さんの行動がどう捉えられるか、不安もありますが、正しさが伝われば、これほど心強い味方もいません」
そう語る彼の声には、もはや迷いはなかった。
「わたしの実家である、樹神神社の関係者にも声をかけます。私の知りうる範囲すべてで、支えます」
祖父は、感謝の意を込めて頭を下げた。
「私も、懇意にしている弁護士を通じて、スポーツ専門の弁護士から法的アドバイスを受けます。
さらに知り合いのつてで政治家にも話を通し、可能な限りの支援体制を整えます。
……そして、杏子の友人であるソフィアの祖父、エリックにも協力をお願いするつもりです。彼の影響力も、侮れない」
全員が、自らの立場で、できることを差し出す。
弓道着や袴の変更については、コーチの人脈を使えば問題ないと、祖父が確認していた。
コーチと祖父との会話は続いた。
「我が儘を聞いて貰い、本当にありがとうございます」
「いえ、大変なことですが、杏子さんの主張したいことは理解できます」
「それと、どうしてもお伝えしておきたいことがあります」
「はい、なんでしょう」
「わたしは、杏子も光田高校弓道部も護りたい。そのために全力を尽くすことをお約束します」
「はい」
「しかし、最後の最後、こんな場面は絶対に訪れないように最善を尽くしますが」
「はい」
「最悪の場合は、わたしは、杏子を護ります。そんな場面は来ないことを祈りますし、繰り返しますが、最大限の努力をします。しかし、最後の最後は、杏子を護ることに命をかけます。そのときは、光田高校弓道部全体のことは考えなくなると思います」
「おじいちゃんっっ」
杏子が驚き、声をあげる。
「だから、コーチも、最後は光田高校弓道部を、そして自分を護るために必要になれば、杏子を手放してください」
コーチは驚いて祖父の顔を見る。祖父の目には、寸分の揺るぎも感じられなかった。
「……了解しました。おじいさんの覚悟、確かに受け取りました。どうか、信じる道を進んでください」




