第157話 矢はそれぞれの手に
タクシーに乗り込むと、いきなり杏子が、
「栞代、ちょっと電話してもいい? ごめん」
「いや、気にしなくて大丈夫。どこに電話するの?」
「おじいちゃん」
そういって、杏子は電話をかけた。電話をかけるその横顔に、さっき震えていた杏子の姿はもうなかった。
あんまり聞いてはいけないな、とは思いつつも、横で話すから、どうしても聞こえてしまう。
おじいちゃんに、すぐに会いたいって言っているうだった。
そいえば、杏子のおじいちゃんとおばあちゃん、インターハイも見て帰るから、家には帰らず、こっちで観光してるって言ってたな。おばあちゃんも大変だ。おじいちゃんのお世話が。杏子抜きだと、二人でどんな会話してんだろ。一度聞いてみたいな。
そんな、どうでもいいことをぼんやりと思ってたら、杏子からまた声をかけられた。
「栞代、ごめん」
「ん? なにが? 電話は終わったの?」
「わたし、駅前で降りる」
「えっ?」
「おじいちゃんが迎えに来てくれるから。おじいちゃんに会いたい」
「え? いや、それはまずいじゃね。特別に許可が出て、外出させてくれたんだから。合宿所に帰らないと」
「おじいちゃんがね」
「うん?」
「前もって許可を取るのは大変だから、後で謝って許してもらおうって」
「お、おい、なんだよ、それ」
「栞代、おねがいっ。」
「い、いや、オレはまあ、いいんだけどさ」
栞代は驚いた。杏子がこんなことを言い出すなんて。
タクシーが駅前についた。杏子が降りようとしたが、おじいちゃんの姿が見あたらない。
「杏子、おじいちゃんが来るまで、ちょっと待とう。」「え?」「杏子一人にさせられないよ」
「過保護だなあ」「あとでオレがおじいちゃんに怒られるだろ?」
そんな会話を交わしていたら、おじいちゃんがやってきた。
「お~、栞代~、コーチには適当に言っておいてくれ。」
「適当にって・・」「一時間ほどでちゃんと送るから」
「分かったよ」
そう言って杏子はおじいちゃんと一緒に、おじいちゃんの車に乗り込んだ。
おばあちゃんの姿が見あたらないな。
なんかイヤな予感がする。
そんな思いを胸に、栞代は合宿所に向った。
つばめが合宿所に戻ってきたのは、午後の練習が佳境に入ったころだった。
一刻も早く報告したいつばめは、つばめはそれでも足を止めなかった
“勝手な行動するなよ”と咎める声を背に、つばめはそれでも足を止めなかった、拓哉コーチの元に駆け寄り、緊急事態であることを告げた。
「どうしたんだ。まずは落ち着け。栞代さんと杏子さんはどうした?」
「二人はまだ残っています。まず、これを見てください。」
「なんだい、これは?」
「いや、実はわたしもまだ見ていないんですが、厳敷高校での暴力が記録されてると、預かってきました」
「どういうことだ?」
「まずは見てください。」
つばめのただならぬ様子に、コーチはメモリを預かり、自分の部屋に向った。
仕方なく、草林コーチが、休憩を宣言する。冴子が声をかける。
「つばめ、つぐみは元気だったか?」
その名前が出た瞬間、それまで張り詰めていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた気がした。つばめは声を上げて泣き出した。
一通りの事情を聞いた冴子たちは、草林コーチと話し、練習を切り上げた。
そして、全員でコーチの部屋に向った。
コーチは今までに見たことがない顔をしていた。感情を表さない、クール仮面と揶揄されるコーチだったが、なんの感情も表さない、それはこの表情なんだと冴子は思った。
コーチは全員を食堂に集め、今見た動画のことを話した。
そして、顧問の滝本先生と相談し、どうするか決める、と告げた。
冴子が「どうなるんですか」と詰め寄る。コーチは連盟に報告することになると思うが、今はまだはっきりとしたことは言えない、と言う。すると、つばめが
「今報告してください」と、声をあげた。「今もまた暴力を受けているかもしれない」
コーチは冷静に「いや、今は学校の外だから、目立つことはしないだろう。それよりも、これを撮った生徒のことも考えなくてはならない。盗撮は基本的には違法だからな」
「そんなこと言ってる場合ですか」
つばめが声を荒らげるも、コーチは「こういう時こそ、冷静に対応しなければならないんだ。落ち着こう」と冷静に告げた。
コーチは、臨時コーチとも話しをし、男子の練習が終わるのを待って、滝本先生とも相談するという。
興奮しているつばめを落ち着かせ、冴子に、普段通りのスケジュールに戻るように言った。
冴子も、とにかく冷静になることが必要だと判断した。
「まあ、みんな落ち着こう。まずお風呂にでも入って頭を冷やそう。……ん? 逆にのぼせて怒り倍増するかもな?」
冴子らしい、落ち着かせ方だった。
風呂上がり、つばめは少し間を考えてから、言った。
「……コーチが動いてくれないなら、わたし一人でも動くから」
沈黙。
その言葉に、誰も何も言えなかった。
——そして、そのときだった。
栞代が帰って来た。
「……あっ」
誰かが声を上げる前に、部員たちの視線が一斉にそちらへ向いた。
汗も乾いて、顔には疲れが見えていた。
「……ただいま」
その一言に、つばめがすぐに声をかける。
「おかえりなさい。姉ちゃんに会えた?」
つばめが短く言った。目が合って、頷き合う。
「ああ、少しだけ見ることは出来た。随分痩せてたよ」
栞代が一人で帰ってきたことに、誰もが自然とざわめいた。
すぐに、冴子が声をかける。
「……栞代? あれ、杏子は?」
栞代は一瞬、動きを止めた。
みんなの視線が集まっている。
だが、動じることなく静かに答える。
「杏子は……今、おじいちゃんのところに行ってる」
「え? 自宅に帰ったの? 合宿途中で投げ出して?」
「ああ、いやいや、違うんだ。杏子のところは、インターハイも見に来るから、近隣観光してんだ」
「は~。さすが杏子のおじいさんだな~。もう溺愛もいいとこだな」
それにしても。
それを聞いた沙月が、目を細めた。
「……へぇ。あの杏子が、ひとりで? 栞代と離れて?」
「うん。なんか、スイッチ入ったみたいだった」
「おじいさんとなに話してんだろうな?」
「まあ、つぐみのことだとは思うんだけど」
「なんか栞代と離れて、一人で行動してる杏子が思い浮かばないな」
「ああ、弓引いてる時以外、ずっと一緒だもんな」
「ま、ちょっとコーチに報告してくるわ」」
そう言って、栞代は、コーチの部屋へと向かった。
ノックし、返事があってから静かに入る。
中ではコーチが机に向かって、USBを繰り返し確認していた。
その手元が止まる。
「……戻ったか。つぐみさんとは会えたか?」
「いや、一目見ただけですけど。かなり憔悴してる感じでした。
……一つだけ、報告があります。杏子のことです」
栞代は姿勢を正し、きちんと報告する。
「杏子は、おじいちゃんのところに行きました。
つぐみの姿を見たあと、何か……自分にできることを考えたみたいで」
コーチは、しばらく黙った。
腕を組み、目を閉じ、思考をめぐらせている。
「ひとりで?」
「はい。私がついて行こうかと思ったんですが……止められませんでした」
「……そうか」
コーチは小さく頷く。
「……まあ、帰りを待とう。」
その言葉に、栞代は少し安心したようにうなずいた。
そして、その沈黙の中で、物語の重心が、確かに“杏子の帰還”を軸に動き始めていた。




