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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
155/433

第155話 大きな勇気

「……ここだよね?」


つばめが指差した先に、小さな建物があった。

建物自体はごく普通の体育施設、でもその前に立つ一人の男の存在が、その空間に異様な圧を与えていた。

苧乃欺海斗。厳敷高校の監督だった。

浅黒い肌に、不自然に皺の寄ったワイシャツ。弓道着ではなく、なぜか革靴にジャージの上下。

かなりの長身で、体格も良く、目つきは鋭い、というよりも悪い。

腕を組み、険しい表情で立っているその男は、まるで誰かを睨むことが生きがいであるかのような顔をしていた。


「すいませ——」

つばめが口を開いた、その瞬間こちらに顔を向けた。


「おいお前ら、なんじゃボケ。誰に断ってここ立っとんねん。どこの馬の骨や。人の敷地で何しとんのや、おう?」


怒声が、いきなり、地響きのように降ってきた。

それは「質問」でも「警戒」でもなかった。初手から全力の敵意と罵倒。


つばめの足が止まった。

杏子は、顔色がさっと青ざめた。

視線が泳ぎ、思わず一歩、後ずさる。


栞代は、杏子の背中をすぐに支えた。

無言で一歩、杏子の前に立ちはだかり、杏子を庇うように立つ。

その目は鋭く、全身に緊張が走る。


「小鳥遊つばめといいます。小鳥遊つぐみの妹ですけど……」


つばめの声は低く、でもはっきりしていた。

その口調は、普段先輩の前で猫を被っているつばめとは明らかに別のものだった。

何を言われても引かない、芯のある声音。


「誰に断って来たんや。お前、偉そうに名乗っても関係あらへん。妹やから何やねん」

汚埜鬼は睨みつけながら一歩近づいいてきた。

杏子はもう何も言えなかった。完全に委縮していた。


「受け付けでこちらをご案内いただきました」

栞代が、間髪入れずに遮るように返す。

声のトーンは冷たい。まるでガラスのようだった。


「は? ふん、受付? 嘘つけ。……お前ら、偵察か。試合前に相手の動き探りに来るとはなぁ、卑怯もええとこやな。俺はお前らみたいに、弓道精神がないやつらが大嫌いなんや。礼の心、武道の心、礼節を重んじ、自己の心と技を磨き、平常心を保ちながら、真・善・美の調和を追求する自己修練の道や。叩きこんだろか?」


「……挨拶をさせていただこうと、お声がけさせてもらっただけです。練習、ここから見えませんよね」

栞代の声が少しだけ震えていたのは、怒りのせいだった。

杏子を怒鳴る声が、今も耳の奥に焼き付いていた。


杏子は、目を伏せたまま、拳を握っていた。

少し前まで「つぐみに会える」と言っていたその笑顔は、もうどこにもなかった。

一言も出ない自分が情けなくて、怖くて、でも口が開かなかった。


「えらい口が達者やな……」

汚埜鬼は鼻で笑った。


「どっちがだよ」

栞代は、かろうじて口から出るのを押しとどめた。


「練習見せられへんのはわかりましたけど、だったら終わるまで待ってます」

つばめの声が、静かに食い込んだ。

あくまで理屈で通す。無理に怒りは出さない。でも、徹底的に引かない。姉に会いに来たのだ。


「は? 会わせるわけにはいかん。大会終わるまで、お前らみたいなんになんで会わせる必要があんねん」


「……えっ?」


つばめの眉がぴくりと動く。

その目の奥に、何かが点火した。


「とにかく帰れ。どこの高校や? まあ、名乗らんでもええ。調べたらわかるしな。ええんか? 学校に正式に抗議するからな」


その言葉には、露骨な威圧と、権力の振りかざしが込められていた。


三人は一瞬、黙った。


風が吹いた。

空は晴れているのに、冷たい空気がまとわりつく。


「……わかりました。一度、外に出ます」

栞代が静かに言った。

杏子の手を取り、つばめとともに、その場を離れる。


何も言わずに。


ただ、何かを飲み込むようにして。



そして、その建物の少し後ろの茂みに、一人の少女が小さく息を潜めていた。


彼女は、杏子たちが外に出ていくのを見送る。

スマホを握る手が汗ばんでいる。


あれが——つぐみ先輩の、大切な人たち。

間違いない。

そう確信した。


彼女は、バッグの中に忍ばせたUSBメモリを握りしめた。

それはただの記録ではなかった。

誰にも言えなかった、証拠。声。映像。痛み。沈黙。

全部、そこに入っていた。


少女は小さく息を吸い、三人の背中を追った。

静かに、そして決して見失わないように。



杏子は、ただ呆然としていた。


先ほどの怒鳴り声が、まだ耳の奥で反響している。

怒られた、という単語では処理できないほどの、むき出しの敵意。

つぐみに会えると思っていた高揚は、一瞬で塗りつぶされた。

喉の奥が乾いて、何も言えなかった。


「……何なんだよ、あいつ……」

つばめの声には、怒りと悔しさが滲んでいた。

さっきからずっと奥歯を噛み締めている。


「落ち着いて」

栞代が言うものの、声は硬かった。

彼女自身も混乱している。

監督の態度、言葉、威圧。全部が信じがたくて、状況を整理するのに時間がかかっていた。


「……学校に連絡が行くのはまずいですよね」

つばめが唸るように言った。

「勝手に練習見に来たって、でっち上げられたら……学校や先生方に迷惑かかるかも」


「……ちくしょう……」

つばめが帽子のツバを握りしめた。

「なにが“礼”だよ。あんなやつのどこが弓道の心があるんだよ」


沈黙が落ちた。


杏子は立ったまま、動けずにいた。

目は伏せられ、唇はわずかに震えている。

確かに怖かった。でも、と杏子は考えていた。

つぐみ、どんな扱いを受けてるの?

あの乱暴な態度は部外者にだけ?

楽しくやってるってずっと思ってた。

楽しくやってるんだよね。

不安が次から次へと襲ってくる。


栞代はその横顔を見て、胸の奥に鈍い痛みが走った。


——弓を持ってくれば良かったな。ゴム弓でも。


杏子は、弓を握ることで心が落ち着く。

それを忘れていた自分が、情けなかった。

まさかこんなことになるとは思わなかったが、これからはお守りがわりに必ず持ち歩くようにするぞ。


そのときだった。


「……あの……」


小さな声が、背後から届いた。

三人が振り向くと、木陰から制服姿の少女が一人、歩み寄ってきた。


髪は短く、背は低い。

でもその足取りは、震えながらも真っ直ぐだった。


「……はじめまして。野蒔 柚葉といいます」

声はか細かったが、濁りのない芯があった。

「……わたし、つぐみ先輩の……後輩です」


「……ああ、はじめまして」

つばめが少し驚いた表情で返す。


栞代が続きを引き取る。

「わたしは、栞代。こっちは杏子……」

そう紹介しながら、栞代はちらりと杏子を見る。

まだ言葉は出ない。肩が少しだけ揺れていた。


かわいそうに……杏子。


その手に、今すぐ弓を渡してあられれは、と栞代は思った。


「……大丈夫です」

野蒔が、ふと前を見据えたように言った。

「もし学校に連絡がいっても……今のやりとり、全部録画してます」


「……えっ?」

つばめが一瞬、目を見張る。


「どういうこと……?」

栞代も声を潜めた。


野蒔は、鞄からスマホを取り出し、小さなUSBメモリを取り出した。


「……厳敷高校では、ずっと前から、体罰が黙認されてきました。

“礼”を教える、という名目で……監督が率先して、生徒に暴力をふるってきました」


三人の目が真剣になる。


「目立たないように……でも確実に痛めつけるやり方です。

見えるところは避けて……ふとももに、平手打ちを繰り返すんです。

見えないけど、腫れて、青くなって、痛くて……歩くのも辛いときがありました」


言いながら、彼女はスカートのすそを少しだけ持ち上げた。

片足の太ももには、いびつに腫れた青白い跡が広がっていた。


三人は、言葉を失った。


「それが日常で、それを越えることもしばしばありました。

……私は、ずっと黙ってました。

でも……つばめ先輩がずっと護ってくれました。

下級生が入ったら、今までの分そこにぶつけるのが普通なのに。

先輩は、いじめられていた子たちをかばってくれた。

先生にも、間違ってるって言ってくれたんです」


「……それって……」

栞代が小さく呟いた。表情は青かった。


「だから……それからは標的は、全部、つばめ先輩に向いたんです」

野蒔は、少しだけ、声を震わせた。

「……でも、私は……見ているだけは嫌だった。

だから、全部……記録しました。

このUSBに、全部入ってます」


彼女は、手のひらの中のメモリを、つばめに差し出した。


つばめは、信じられないものを見るような目で、それを見つめた。


杏子が、そっと顔を上げた。

まだ怯えていたけれど、その目の奥に、違う光が宿っていた。


野蒔 柚葉。

小さな声で、でも確かに、暴力に矢を放った少女。


三人は、確かにその勇気を、受け取った。

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