第154話 厳敷高校宿舎へ
浮足立つ、というのはこういうことなんだろうな、と栞代は思った。
つばめも杏子も、楽しみで仕方ない、その気持ちが隠しきれていない。つばめはまだしも、杏子は、突然姿を消されたに等しい。
「杏子、怒る気持ちはないの?」
って、昨晩聞いてみたけど、頭どころか、全身に「?」マークが浮かんでた。そいえば、杏子が怒るって姿、見たことないな。
おじいちゃんがどんなちょっかいかけてきても、困ることはあっても、怒ること一切ないし、穏やかって言葉を辞書で調べた、きっと「杏子」って出てくるな、きっと。逆に、杏子の辞書には、「怒り」って言葉はないに違いない。あと「イライラ」とか「不満」とか。無い言葉多いなあ。
午前練習、つばめはそれこそ常に雲の上を歩いてて、コーチに何度か注意されてたけど、それでも杏子がオソロシイのは、弓を握ると宇宙に行ちゃうところだ。どんな時でも弓を握れば異世界旅行。おもしろいって沙月さんとか言ってるけど、オレは結構オソロシイと。
でも、祖父母が帰った直後の寂しさを弓で紛らわせたように、弓は杏子をきっちりと支えてくれる。おばあちゃん、そしてほんのちょっとだけは笑、おじいちゃんも支えているのが分かるな。
昼食は早めに済ませた。他の部員たちは午後練習に向けてゆっくり休んでいたが、三人は違った。食器を片付ける手つきも、いつもより少し速い。
つばめが目で訴えてたから、そろそろ行こうか、と声をかけた。
冴子部長、沙月さん、瑠月さん、紬、あかね、まゆ、全員からの手紙を預かる。
「よろしくな」「再会を楽しみにしているって伝えて」
そんな言葉が添えられた。
オレは絶対に文句言ってやるぞ。杏子に伝えるのも全部オレに任せやがって。いまだに許してないんだからな。
コーチに挨拶する。
コーチが見いだした才能でもあるもんな。杏子がいたからまで良かったけど、めっちゃ残念だっただろうな。コーチは表に感情を表さない人だけど。
すでに荷物は準備してある。
約束の時間に、タクシーが合宿場の前にやってくる。
玄関に出ると、山の風がひゅうっと吹き抜けた。
木立の間から覗く空が、さっきより少しだけ澄んで見えた。
三人で並んで立つその姿に、気になっただろうに、ちょうど通りかかったことを装いながら、冴子さんが声をかける。
「おーい、行ってらっしゃーい!つぐみによろしくねー!」
「ありがとございます。」
つばめが振り返って笑う。
冴子さんは、ずっと手をふってる。後で瑠月さんと沙月さんも覗いてた。
わたしは、その様子を見ながら、心の中でひとつ深呼吸をした。
杏子の表情を横目で確認する。
口元に力が入りすぎている。緊張してるな。けれど、うれしさも隠しきれていない。
——杏子、つぐみのことはほとんど口にしたことがないけど、やっぱり会いたかったんだなあ。
あんなにはっきりズケズケと言われてたのに。
そいえば、言われて楽しそうでもあったな。
つぐみが怒って、杏子が戸惑う。オレが仲裁。
そんなこと、何回もあったっけ。
タクシーがちょうど約束の時間に到着した。
無駄に大きなエンジン音が、静かな空間を一瞬だけ震わせた。
運転手はにこやかで、「20分くらいで着きますよ」と気さくに言った。
ドアが開いて、まずつばめが乗り込む。杏子が続き、最後にオレ。
扉が閉まり、車体がゆっくりと動き出す。
窓の外の風景が、じわじわと後ろに流れていく。
合宿場の屋根が遠ざかるにつれて、心の中のざわめきが増していった。
けれど、そのざわめきは、不安ではなく、静かな昂ぶりだった。
会える。
話せるかもしれない。
ゆっくりできるかな。
静かに、車は山道を進んでいった。
三人はまだ、言葉を交わさなかった。
けれど、その沈黙は、確かに前へ進んでいる音だった。
「……あれだな」
栞代が前方を指差す。
タクシーの窓から、低い屋根の宿舎が見えた。
道路沿いに広がる平屋と二階建ての建物が連なり、その奥に、白い幟が風に揺れていた。
厳敷高校弓道部の名前が玄関に書かれている。
「ほんとに来てるんだ」
杏子がぽつりと呟く。
そりゃそうだろう。栞代は言葉を飲み込む。
「なんか変な感じだね」
栞代が思わず笑う。
車が宿舎の前で止まる。
荷物と心の準備を整える前に、運転手が軽やかに「到着ですよー」と声をかけてくる。
車を降りると、さっきまでと空気の質が違っていた。
同じ信州の山の中なのに、ここには別の緊張感があった。
夏の合宿ではない、既に試合モードに入っているような空気感が漂っている。
宿舎の玄関で、三人は並んで立った。
受付に進んでいく。
その誰もが真剣な顔をしていて、軽口のひとつも聞こえてこなかった。
受付で名前と来訪の目的を告げると、職員らしき女性が案内図を指差しながら言った。
「皆さん、今はすぐ裏の練習場で練習中ですね。到着してから、ほぼ休まずに通しでやってますよ」
「すご……」
つばめが言った。
「さすが、というか……着いてすぐか」
栞代の口調には少し呆れと尊敬が混じっている。
「それだけ、戦ってるんだろうな、いろいろと」
栞代が付け加える。
その何気なく口にした“いろいろ”が、意味を持ってくるのはこのあとだ。
三人は受付に軽く頭を下げ、練習場へと向かう。
舗装された小道を抜け、樹々の間にある静かな建物が見えてくる。
中からは、かすかに弓の弦の音が聞こえた。
ピンと張りつめたような、その音だけが、この場所にいる意味を思い出させてくれる。
杏子は、もう口をきいていなかった。
何かを噛み締めるように、真っ直ぐ前を見て歩いていた。
——そして。
その三人の後ろ、少しだけ距離をあけて、一人の影がそっと続いていた。
厳敷高校の弓道着を着ている。その胸元の校章は一年生を表していたが、三人は知る由もない。
——練習場で起こっていること。
——あの人たちが見ないふりをしていること。
——つぐみ先輩が、全部、護ってくれたこと。
風が少し吹いた。
少女の短い髪が揺れ、日陰の下でその目が静かに光る。
——今日は妹さんが来るって言ってた。あの三人の中に居るに違いない。
彼女は、三人の背中を見つめながら、一歩、また一歩とついていく。
宿舎の静けさのなかで、ほんのわずかな気配だけが、重くなっていった。




