第146話 合宿2日め
朝の道場は静かだった。山の涼しい風が流れている。木の床に射し込む日差しが時間の流れを知らせていた。
「おはようございます!」
勢いよく声をかけたのは1年生の皇楓だった。入部してまだ数ヶ月しか経っていないが、その声はもうしっかり弓道部の一員として道場に響いていた。続いてソフィアが軽く頭を下げて中に入ってくる。彼女の礼はどこかぎこちなく、けれど真摯だった。
「はーい、並んでー。コーチ来るよ!」
3年の冴子が叫ぶと、1、2年生たちは急いで整列する。そこに、今年も光田高校弓道部の合宿に参加する臨時コーチ陣の姿が見えた。
「静かに!」
拓哉コーチが手を打って全員を落ち着かせる。
「2.3年生には紹介するまでもないと思うけど、一年生は初めてだからな。」
言いながら、拓哉コーチが紹介する。
「水上恵子コーチと白石未唯コーチ。後輩たちには初顔合わせですね。よろしく」
恵子コーチが穏やかに会釈し、未唯コーチが軽くウィンクしてみせる。
「そしてこっちが、私の大学時代からの弓道仲間たち——深澤剛コーチ、稲垣勝行コーチ、神矢正広コーチだ。深澤はうちじゃおなじみのメンタル担当でもあるな」
3人の男性コーチたちが順に一礼する。言葉少なではあるが、その佇まいに漂う風格に、1年生たちは息を呑んだ。
「いやあ、去年は濃かったなあ」
神矢コーチが笑いながら言う。
「今年の光田はどうなってるのか、正直かなり楽しみにして来たよ。去年の選抜大会は見事だったね」
「1年生とソフィアさんは、はじめましてだね。大丈夫。最初はうまくいかなくて当然だから。焦らず、でも真剣にやれば、それだけで十分だよ」
稲垣コーチが優しい目でソフィアと楓を見つめる。二人は緊張の面持ちでこくりと頷いた。
「……それから、杏子さん」
恵子コーチが名前を呼ぶと、場が一瞬、静かになった。
「あなたの成績もちゃんと見てました。成長も、すごく楽しみにしています。また一緒に弓を引けるのが嬉しいです」
杏子はまっ赤な顔で控えめに頭を下げた。少しおどおどして、不安げにしている。
朝食後の午前練習で、いよいよその時が来た。
「ソフィア、楓。準備できてるか?」
冴子が優しく声をかける。二人とも、緊張に唇を引き結びながらも頷いた。
「それじゃあ……まず、ソフィアから」
静まり返る道場。視線が集中する中、ソフィアはゆっくりと的前へ進む。その動きはまだ洗練されていないが、真剣さがにじみ出ていた。
瑠月、そして杏子から何度も教えてもらった射法八節。瑠月からも杏子からも、何度も言われている。正しい姿勢。正しい姿勢。それを見せればいい。
一の矢。張りつめた空気の中、彼女は息を整え、そして——
ピシュ。
矢は的の縁に当たり、はじかれて飛んだ。
「……惜しい!」
誰かの声が漏れる。だが、ソフィアの表情は崩れない。目を合わせた杏子が小さく頷いた。
「少し早いよ。焦らないで」
声はかけられない。でも、伝われ。
もう一矢。矢筋は悪くない。
続いて、皇楓。
彼女は、小さく一礼してから的前へ出た。その背中から、不安と戸惑い。
目は、まっすぐ前を向いている。
彼女の一射——矢は的の右に逸れた。
けれど、放たれる瞬間に宿っていたものは、全員が見た。
次の一射も、同じように→に逸れた。
再びソフィアが的前に立った。
そして皇楓。
4本引いたところで、一旦下がる。
瑠月と杏子が二人に寄り添う。
二人の手のひらを見て、少し声をかける。
「焦らないで。力を入れすぎないで。違和感あったら、言ってね。無理して皮剥けちゃうと、引けなくなっちゃうからね」
二人の姿を確認した後、瑠月と沙月は遠的のメニューに移っていった。
冴子と沙月、杏子は、ローテーションを組んで、遠的の練習に取り組むことになっていた。
あかねが「去年のことを思い出すなあ。緊張したなあ。栞代がいきなり当てたんだよね」
「ま、偶然なんだけどな」
「でも、焦ったよ。つぐみは居る、杏子も居る、なのに栞代まで。置いていかないで~って感じだったなあ」
二人は、その後、コーチにも声をかけられていた。
ぎこちないながらも、練習に参加した。
しばらくした後、短い拍手が響いた。
ソフィアは目を見開き、そして、ゆっくりと弓を下ろした。
「やった……」
涙が出そうになるのをこらえて、ソフィアは深く一礼した。
しばらくしたら、続いて、楓が。
杏子が、まるで我がことのように拍手をした。
道場の誰もが拍手していた。手のひらが痛くなるまで。
「ふたりとも、よくやったね」
と杏子が声をかけると、楓は思わず涙をこぼしてしまった。
「ごめんなさい、なんか、急に…」
「泣いていいよ。初めて中った時は、そうなる」
栞代がそっと楓の背をさすった。
「ここまで、長かったもんなあ」
「でもさ、ここからだから。ゆっくりな。あたった時には、絶対に思い出せよ。あてに行くなよ。姿勢だぞ、姿勢。実はそれが難しいんだ。そのうち、二人にも杏子の異常さがわかるよ」
当の杏子は、ぼんやりと考えていた。
瑠月さんに報告しなくちゃな。
合宿は、まだ始まったばかり。
練習時間は去年よりも少なくなったのだが、自由時間になると、杏子はふらふらと弓道場に向う。
呆れながらもつきあう栞代は、「今年は杏子当番を作らないとあかんな」とつぶやいた。