第145話 合宿へ。夜は祝賀会。
朝の空気はまだ柔らかく、湿気を含んだ夏の匂いが校舎に漂っていた。
「……全員、そろってます!」
冴子の澄んだ声が静かな朝に響いた。
光田高校弓道部、夏合宿初日。
8時ちょうど、バスは校舎前を出発した。
杏子は乗り込むなり、すぐに首をコクンと落とし、眠りの世界へ。隣の栞代は「ほんと、どこでも寝られるんだな…」と肩を差し出しながら、呆れ半分愛しさ半分の笑みを浮かべる。弓を離れた杏子は、まるで無垢な子どものようだった。
そいえば、おばちゃんが言ってたっけ。おじいちゃんもどこでもすぐに寝るって。なんだかんだ、そっくりなんだなあ。
最後部では真映がフルスロットル。
「でさー! バーベキューって何焼く? わたし、とうもろこし絶対焼く派なんだけど! あとイカもアリじゃない? ソフィア、イカ食べる?」
「はい……? kalmari?……はい……」
巻き込まれ事故に遭ったような顔のソフィアが、小さく頷いた。だがその頬には笑みがこぼれている。異文化の波に乗るのも、もう慣れてきた。
楓は騒ぎから距離を置いて、文庫本を開いていた。静かにページをめくる指先は、まるで風鈴の音のように涼やかだ。この合宿で始めて的前に立てる。その気持ちを落ち着かせていた。
9時半、最初のパーキング休憩。
「まだまだだな……」と栞代が伸びをしながら呟く。杏子はまだ眠ったままだった。
11時半、昼食休憩。サービスエリアはにぎやかだった。
「フードコート行こうぜ!」と叫ぶあかねに対し、一華は静かにお弁当を取り出した。緻密に詰められた自作弁当。その完成度の高さに、つばめが「うわっ。一華、優勝じゃん」と感嘆の声を漏らす。
紬とソフィアはベンチに並び、静かにフィンランドのアニメ文化と日本の“隠れ名作”を語り合っていた。
昼食後、再出発。午後の移動もまた長い。
杏子は引き続き爆睡。栞代の肩にすっかり体重を預けていた。
「重くないよ。むしろ信頼って感じ」と栞代がポツリ。誰も聞いてないのに、少し照れていた。
紬とソフィアは、まだまだ話を続けている。
「あなたも“ノーラ”が好きなの?」
「はい……芯のあるところが……杏子に似てます」
思わず紬が口元を緩める。いつの間にか、ソフィアの語彙は日本のオタクと変わらなくなっていた。
14時と15時半に休憩を挟みながら、バスは山道を登っていく。
「10分って書いてるだけで、絶対12分あるやろ!」
真映の謎の主張がパーキングにこだまする。
「……あと何駅ですか……」と酔い気味のまゆが言い出すと、あかねがペットボトルの炭酸を渡した。「まゆ、大丈夫? 乗り物に弱かったっけ?」と。まゆはぼんやりと戸惑いながらも笑って受け取る。
17時、合宿所到着。
信州の澄んだ空気と、高原特有のひんやりとした風が、部員たちの頬をなでる。
山の緑が深く、蝉の声が空を突き抜ける。窓から吹き込む風は涼やかで、思わず皆が歓声を上げた。
「これが……すごい」ソフィアが壮大な景色を見て、思わず声を洩らした。
バスを降りると、管理人の神楽木綾乃が迎えてくれた。「今年もお待ちしてましたよ」その声に、三年生が軽く頭を下げた。
部屋割りはすでに貼り出されていた。冴子が手際よく部屋割りを説明。
右側奥には、冴子、沙月、瑠月、杏子、栞代、紬、ソフィア。
左は、真映・一華・楓・つばめ・あかね・まゆ。
全員個室。ただし、ソフィアの部屋は端っこで、静音設計と専用トイレ付きの配慮部屋。向かいは空室。隣は紬。
「ソフィアさんの待遇、VIPすぎない?」と真映が不満顔。
「何もかも初めてだからね」
と紬が応える。
「掃除も全部本人がするから許したげて」
このあたりのケアは、真映以外、全員が「あ、そりゃそうだよね」と納得している。
17時半、開会ミーティング。
「光田高校弓道部が今ここに集まっている意味を、2週間後に証明しよう」
拓哉コーチの語りは珍しく熱かった。青春・礼儀・全力。あまりに直球で、真映が途中で拍手しそうになったのを一華が止める。
拓哉コーチの言葉に、九一華は筆を走らせ、既に3ページ書いていた。
18時、道場見学。
杏子が入口で静かに一礼する。その姿に、ソフィアが「…ここも神聖な場所なんですね」と囁いた。その言葉に、瑠月が「その通りよ」と静かに答える。「学校の道場でも、まず神様に挨拶するように、ここでもきちんとね」
照明が落ちた木の床に、夕日が斜めに差し込む。澄んだ空気に、心が静かに整っていくようだった。
18時半、夕食。
夕食は騒がしい。
真映とあかねのごはんおかわり対決が始まり、
「炭水化物は正義!」という謎のシュプレヒコールで終わった。
ちなみに勝者は、普通に沙月である。
完全に試合。
初日だよ?
沙月は箸を止めずに、「たくさん食べられるのは良いことよ」と淡々とフォロー。
19時半、自由時間と風呂。
まゆとあかねが怪談で盛り上がり、
ソフィアと紬は、ベッドの端で“推しカプ談義”に花を咲かせる。
杏子は祖父に手紙を書いていた。
書き終わると、こっそり抜け出そうとしたが、栞代に見つかる。
「またか……弓を引かないと死ぬ病が出たな」
「だって……引かないと……」
「仕方ないわね」と、瑠月、冴子、沙月、もあとに続く。
ゆっくり、じんわりと汗をかくまで、素引きを繰り返す。
5人は、もう一度風呂に入っていた。
この夜、誰もがそれぞれの思いを胸に、ゆっくりと合宿の空気に馴染んでいった。
22時。消灯。
「明日からは本番だよ」と冴子が小さく呟く。
「ですね」と沙月が静かに応える。
こうして光田高校弓道部、女子13人、男子14人の“夏”が本格的に始まった。




