第144話 ソフィア宅訪問
光田高校のバスが校門に停まり、扉が開くと、部員たちは疲れた笑顔を浮かべながらそれぞれの帰路についた。短い挨拶とお疲れ様の言葉が飛び交い、夕焼けに照らされた校舎が淡く輝いている。杏子と栞代も荷物を手に歩き出した。今日は珍しく、祖父母の帰宅の方が遅れるらしい。
「杏子、少し家に寄って帰りませんか。栞代も一緒に。」
ソフィアの声が、優しく届いた。杏子と栞代は顔を見合わせ、小さく頷いた。
──ソフィアの家は、日本家屋の中に北欧のエッセンスが散りばめられた、独特の空間だった。外観は古き良き和風建築。瓦屋根と木の格子戸、石畳の玄関アプローチ。しかし、庭には白樺が植えられ、家の中には北欧のデザイン家具や照明が静かに調和している。障子越しの柔らかな光が、部屋全体を温かく包む。どこか懐かしく、そして新しい空気感だった。
「ようこそ。」
堂々たる体格のエリック・ヴィルタが玄関に立つ。白髪に青い瞳、威厳に満ちた佇まい。だが、ソフィアが「おじいちゃん」と笑顔を見せると、エリックの頬が緩み、笑い皺が深く刻まれた。
「エリックおじいさん…杏子のおじいちゃんに似てるかも。」
栞代がそっとつぶやく。
「はじめまして。」杏子と栞代が頭を下げると、エリックとリーサが穏やかな笑顔で迎えた。リーサは静かに微笑み、優しく手を差し出した。
「あなたは、もしかして──」
エリックが杏子に目を細める。ソフィアが笑顔で頷いた。
「そうよ、おじいちゃん。映像で“美しい”って言ってた弓を引いてた子が、杏子なの。」
「おお……!あなたが!」
エリックの瞳が輝いた。
「本当に美しい姿でした。直接お会いできるとは光栄です。」
杏子はただただ下を向いて顔を赤くしていた。
「さあさあ、和菓子を用意してありますよ。」リーサが静かに促す。杏子と栞代は驚きの眼差しで食卓に並んだ上品な和菓子に見入った。
ソフィアがエリックの方を向いて、いたずらっぼく言った。
「おじいちゃん、この世で一番おいしい飲み物は?」ソフィアが尋ねると、エリックは胸を張った。
「もちろん、コーヒーだ。」
エリックは自慢げに、北欧式のポットで丁寧に淹れたコーヒーをカップに注ぐ。立ち上る香りが心地よく広がる。
「実は杏子のおじいちゃん、紅茶を淹れるのがすごく上手なんですよ」
栞代がいたずらっぽく笑うと、エリックの眉がぐっと上がった。
「ふむ。紅茶も確かに素晴らしい。しかしコーヒーの芳香と奥深さには敵わん。」
「……これ、杏子のおじいちゃんには会わせない方がいいな」
栞代が杏子に小声で耳打ちする。杏子はにこにこと笑いながら、コーヒーを口に含んだ。
「うわっ……おいしい!」
目を丸くする杏子。栞代もそっと口をつけ、驚きの声を上げた。
「フィンランドでは、一日に何度もコーヒーを楽しむの。」ソフィアが笑顔で語る。
「そして、コーヒーには必ずお菓子が添えられる。今日は、リーサおばあちゃんが和菓子を作ってくれたの。」
「フィンランド式和菓子タイムか……」栞代が感心する。
「なんだか、文化がつながってる気がするね」杏子も声をあげる。
エリックが頷く。
「食卓は文化の交わり。小さな菓子ひとつに、世界が詰まっている。」
リーサがにこりと笑い、抹茶色の羊羹を切り分けた。
和やかな時間が流れる。コーヒーの香りと和菓子の優しい甘さが、部屋をふんわりと包んでいた。
リーサが、優しく微笑みながら言った。
「杏子さん、栞代さん──ソフィアを弓道部に誘ってくださって、本当に感謝しています。」
杏子が少し驚きつつ、頬を赤らめた。
「そんな、わたしたちこそ……ソフィアさんが入ってくれて、すごく嬉しかったです。」
「ソフィアはとても真面目で、丁寧ですからね。」
栞代が笑った。
「必ず上手になりますよ。今度の夏合宿で、いよいよ実際に弓を引き始めるんです。」
「……合宿、ですか?」
リーサが小さく首を傾げた。
「フィンランドには、そういう“部活の合宿”というものは無いので、どんなものなのか、少し心配で……」
ソフィアが、笑いながらうなずいた。
「はい。わたしも、合宿って聞いたとき、最初は“軍の訓練”かと思いました。」
その言葉に、杏子と栞代がくすくす笑った。
「大丈夫です。そこまで厳しくないから」
「でもまあ……疲れるのは確かだよね」
「助けてくれる人も居てるのですが、基本的に自分たちのことは自分たちで、なので、そこが大変かな。
練習より、そっちが大変かも」
その笑い声の余韻の中で、エリックがゆっくりとコーヒーを口に含み、語り出した。
「弓というのは──ただの道具ではない。日本文化において、弓は“心を映す鏡”とされる。射る者の心が、弦の音、矢の軌道に宿る。武士たちは弓を礼の象徴とし、神事としての役割も担った。弓を引くとは、己の心を見つめる行為なのだ」
その深い声に、杏子と栞代が少し背筋を伸ばした。
「なんだか、すごい話ですね」
「でも杏子、去年神社で弓を引いた時は、伝統の重みを感じたよね」
だが、リーサがそっとエリックを見やり、静かに言った。
「……おじいさん、また“学者の顔”が出てますよ」
その一言に、杏子と栞代はくすりと笑い、ソフィアも少し照れたように微笑んだ。
エリックが「ふむ」と咳払いをしながらも、誇らしげな笑顔を見せた。
「さて──夕食も、ぜひご一緒にいかがですか。」
リーサが優しく声をかける。杏子は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「今日は祖父母に夕食はいらないって言っていなくて……また、今度お願いします。」
「じゃあ、栞代さんだけでも。」
「いや、その、杏子のおじいちゃん、私が一緒にいないと絶対うるさいですよ」
栞代が笑う。
「……そうなの。」リーサが柔らかく笑い、ソフィアも楽しげに頷いた。
「また遊びに来てくださいね。杏子さんのお家の方にも、よろしくお伝えください。ソフィアも大変にお世話になっていて」
栞代と杏子は心からの笑顔で頭を下げた。
「もちろん。また必ず」
──夕暮れの空の下、二人は家を後にした。振り返ると、ソフィアと祖父母が玄関先で手を振っていた。その光景が、どこか胸の奥を温かくする。杏子は小さくつぶやく。
「いいおうちだね。」
「……うん。」
栞代も同じ気持ちだった。




