第142話 ブロック大会個人戦
ブロック大会、個人戦の日。朝から快晴。雲一つない青空が、試合会場の空に広がっていた。陽光が射場に反射し、熱を持った空気がゆらりと揺れる。射場に立つ選手たちの影が、くっきりと地面に映っていた。
観客席の一角──杏子の祖父は、まるで時間ごと杏子を包み込むように、じっと孫を見つめていた。昨日の団体戦、杏子は最初と最後の2試合にしか出場しなかった。だからこそ、今日は最初から最後まで、射場に立つ孫を見ていられる。それが、どれほどの幸福か──。
「強い子や。」祖父は小さく呟いた。声に出せない弓道の応援席で、必死に声を押し殺していた。手を握りしめ、肩を震わせ、でも心の中では、杏子の姿にただただ感謝していた。強いから、最後まで残る。最後まで残るのは、優勝しかない。杏子が自分に“おじいちゃん孝行”をしてくれているのだと、祖父は思う。元気な姿を見せてくれる。それだけでも十分なのに、さらに。これ以上、何も臨むことはない。
──その様子を、近くの瑠月はふと目にした。微笑み、そっと視線を送り、隣の日比野と前田も目を合わせる。「あれが噂の……杏子のおじいちゃんか……」と、川嶋女子の部員たちも、あたたかな気持ちで見守った。
試合前の射場には、緊張感が満ちていた。
昨日の団体戦の予選が個人戦の予選を兼ねており、既に篩に掛けられており、各校のエースが揃っていた。
光田高校からは、つばめ、栞代、そして杏子。3人が出場する。去年は4人が出場したのだから、光田高校が波に乗っていたことがわかる。
去年は個人戦に出場した冴子が今年は団体予選で及ばなかったが、それもまた、冴子の成長を促してくれるだろう。
団体戦の予選に間に合わず、個人戦出場資格を得られなかった川嶋女子の日比野と前田が、杏子たちに声をかけにきてくれた。
「今日は全力で応援するから」
その言葉を残し、二人は自分たちの席へ戻った。杏子は小さく手を振り返す。その背中を見送りながら、胸の奥に小さな穴が空くような寂しさが滲んだ。──どの舞台でも、個人戦で、いつも近くにいた二人が、今日はいない。
でも、杏子は思った。
──彼女たちの姿から、わたしはもっと大きなものを学んだ。
試合は確かに大切だ。けれども、あの日、日比野と前田が見せた、目の前で倒れた老夫婦を助けたという行動。それは、弓道を、武道を学ぶ意味そのもの。弓道とは、弓を引くことだけではない。その精神だ。誇りを持つこと。思いやりをもつこと。杏子は、二人を心から尊敬した。そしてそのことを受け入れ、むしろ誇りにしている、川嶋女子の弓道部の人、監督、全員とても素晴らしいと杏子は思った。
もちろん、ここまで勝ち抜いてきた手たちもとても素晴らしい。その彼女たとと比べても、全く遜色がない。今回は表現方法が違っただけだ。
自分に置き換えて杏子は考えた。もちろん、迷い無く助けるだろう。個人戦は、もちろん学校の名前を背負ってはいるけれど、団体戦に比べたら、まだ、個人戦、というぐらいだから個人で不利益は受けられる。でも、団体戦なら。今回は、予備メンバーが居たから、出場できない、ということはなかったけど、もしその判断を迫られたらどうだっただろう。
それでも、きっと光田高校の弓道部のメンバーなら分かってくれると思った。今回はそこまでの判断ではなかっただろうけど、きっと、日比野さんも前田さんも、川嶋女子高のメンバーなら、すべてを理解してくれるという信頼で結ばれていたと思った。すごくいいな。杏子は改めて思った。
打倒光田で乗り込んできて川嶋女子に阻まれた鳳泉館高校は、エースの東條璃央をはじめ、4人が個人戦に出場していた。去年の光田高校と同じ人数だ。充実しているのがわかる。
拓哉コーチが注目していたのは、その鳳泉館の東條璃央、有栖川千紗、京詠外大付の望月結蘭、桜花女子の有馬桜良、そして藤見台の桂木翠。いずれも、インターハイ個人戦に出てくるメンバーだ。
張り詰めた空気は、肌にすっと吸い込まれるような感覚だった。
──杏子は、射場に立った。目の前の的だけを見つめる。観客も、周囲の音も、すべてが霞んだように遠くなる。心の中には、ただ祖母の声があった。
「正しい姿勢で弓を引くだけ。あたるかどうかは、ただ結果なだけ」
──その教えが、杏子の心の中にあった。いや、そのことだけがあった。勝つことでも、負けることでもなく、ただ、自分の射を貫くこと。それが、杏子にとって唯一の真実だった。
個人戦が始まる。
つばめが、栞代が矢を放つ。周囲の選手たちの矢音が次々に響く中、杏子の矢が放たれる。その音は、他の誰とも違う響きを持っていた。鋭くも、静か。心の芯に直接届くような音だった。
──杏子の矢は、ただ美しかった。一本、また一本、的を貫くたび、射場の空気が杏子に吸い寄せられるようだった。周りが驚き、息を呑み、そして、心を奪われる。弓を引くその姿は、凛とした花のようだった。誰も、声を出せない。誰も、目を逸らせない。
二次予選、杏子は一切の乱れなく、準決勝へ進んだ。
二次予選参加者16名から、二次予選に進んだのは8名。
拓哉コーチが注目していた選手と、光田高校の3人だった。
この8名の中で、全国大会への出場権を持っていないのは、光田高校の栞代と、つばめ、だけだった。県大会で彼女たちを抑えて全国への切符を手にしたのが、同校の杏子、そして、川嶋女子の日比野だった。
その準決勝から決勝へは、また4射中3射的中が必要だったが、一人の脱落者を出すこともなく、そのまま決勝の舞台へ進んだ。
決勝。8人の強者がそのまま揃った。射場には、緊張が張り詰めた糸のように漂う。
杏子が弓を引く。矢が的を撃ち抜く。観客席では、祖父が手を握りしめてる。声にならない声が唇から零れる。
──祖母の言葉が、杏子の中で再び響く。
「正しい姿勢で弓を引くだけ。あたるかどうかは、ただ結果なだけ」
ここまで踏ん張ってきた者たちだったが、この決勝の舞台では、それぞれの限界に挑んだ。
体力ももちろんだが、張りつめ続けた精神が悲鳴をあげた。
栞代が2本的中。つばめも2本に留まる。東條璃央が最初に外してから見事に残り3本を決めて3本的中。
有栖川千紗、桂木翠も2本的中の中、有馬桜良が杏子と並んで4本的中を出して、競射になる。
会場がざわめく。しかし、杏子の目に、少しの動揺もなかった。
──競射。的の大きさが代わり、三分の二になる。
杏子は、弓を引いた。弦を離す一瞬、指先に微かな風の感触。矢が飛ぶ。的中。確かな音が、静かに場内を震わせた。
有馬桜良が、弓を引く。風格ある動き。放たれた矢。なんとか一本目は的中させたが。限界はとっくに越えていた。そして二本め──わずかに逸れた。
昨日の団体戦、結果的に全試合出場しなかった杏子のアドバンテージは明らかだった。
その瞬間、杏子の優勝が決まった。観客席が沸き立つ。祖父が、何度も頷く。涙を滲ませて笑った。孫が見せてくれた美しさに、感謝の想いしかなかった。
杏子は、表情を変えなかった。弓を納め、深く一礼する。試合が終わった。それだけのことだった。
ただ、その背中には、もう既に“圧倒的な存在”の光が宿っていた。
──全国の頂点に立つ伝説、雲類鷲麗霞。その背中に挑む資格を、杏子は、この一射一射で手にしていた。
「ありがとう。そしておめでとう」
祖父は小さな声で、観客席の片隅で囁いた。
杏子は、決して聞こえていないはずの、その声の方向に、そっと微笑んだ。。
夏の光が、射場に降り注いでいた。