第140話 ブロック大会団体戦 その2
ブロック大会準決勝は、これまた同ブロック内の県チャンピオン、藤見台高校、これまた難敵だった。が、準決勝という舞台。どことあたっても難敵なのは変わらない。
光田高校のメンバーは、栞代、あかね、沙月、紬、つばめ。
杏子と冴子を外す。これで、杏子、沙月、冴子と、それぞれ二人が欠けた時のシミュレーションを試したことになる。
シミュレーションは勝ってこそ意味がある。それは出場メンバーの全員が分かっていた。拓哉コーチは自信を持って送り出していた。藤見台高校は、吉住佳織の強烈なリーダーシップによるワンマンチーム。勝負は互角だと見ていた。
常にその場面場面で最強のメンバーで望む。それこそが弓道という武道に相応しい、対戦相手にも誠意のある姿勢なのは分かっていた。だが拓哉コーチは、弓道、武道の神様の方針に反しても、全国で優勝をしたい、という部員たちの夢の達成のため、つまり最高の結果を、到達点を目指して、できることはすべて行うつもりでいた。
部員たちは常に全力投球、目の前の的に集中していればいい。
だが、結果を出すために、結果を出し続けるために最善の策を考えること、それこそがコーチの仕事なのだ、と、3年目にしてある意味当たり前のことを考えるようになった。
実は、それは、後輩のことを考えた瑠月の姿勢に学んだことでもあった。
だが、それも全て勝利することが最低条件だ。試しました。負けました。では本末転倒も甚だしい。
尊敬する鳳城高校の不動監督が、常に責任を取る覚悟をして試合に向う、と言っていた。その心境に少しは近づけたか。
コーチがそんなことを考えている中、試合は始まった。
栞代は、藤見台のエース吉住佳織と大前で意地の張り合いで共に皆中。
あかねが本番できっちりと結果を出して2本、沙月も安定の2本、つぐみの3本も力を発揮した。そして、ずっと安定している紬がこの試合、3本の的中を出した。
試合のメンバーを毎試合変えて今のブロック大会に挑んでいるのだが、その一方、紬は全試合に出場させていた。彼女のキャラクター、実力、それはどの組み合わせになっても必要なものだとコーチは考えていた。
試合の鍵を握ると思ってはいたが、この大事なところでの紬の一本が、この試合の勝利の差となった。
そしていよいよ決勝の舞台へ。
ひとつひとつ、着実に階段を登ってきた光田高校は、同じように、打倒光田に全てを掛けて登ってきた川嶋女子と決勝で対峙することになった。
光田高校のメンバーは無言で弓を握りしめる。遠く、鳥の声が小さく鳴き始めた。
前夜、杏子は布団の中で目を閉じながら、弦音を何度も心の中で響かせていた。あの音に、自分の心が震える。静かに、静かに、呼吸を整えた。
試合会場の空気は張り詰めていた。控室を出た光田高校の五人は、栞代、沙月、冴子、紬、そして杏子。インターハイ出場を決めた、誇り高き布陣。対する川嶋女子。全てを「打倒光田」に懸けてきた、渾身のメンバー。
弓を持つ手に汗が滲む。けれど杏子の指先は、微塵も震えていなかった。
決勝の舞台が似合う。むしろ、決勝の場を必要としている杏子が、この結果を呼び込んだ。そんな風にも思う瑠月だった。
横では、予選のあと、杏子が出場しない展開を見て、半分、いや、ほとんど拗ねていた杏子の祖父が、目の輝きを取り戻していたのが、少しおかしかった。
──
ディフェンディングチャンピオンの光田高校対、昨年度以来、県大会、ブロック大会で悉く光田高校に敗れた、打倒光田高校に全てを掛けてきたといってもいい川嶋女子。
幾度となく味わった敗北の苦汁が、今も喉の奥に残っている。勝利の一歩手前で崩れ去る希望、努力が実を結ばぬ徒労感、そして何よりも自分自身への失望-これらが幾重にも重なり、胸の内に燻り続ける悔しさ。その思いを一瞬も忘れたことはない。それは、川嶋女子弓道部、すべての部員の思いだった。それは同時に杏子に対する恐怖と、尊敬でもあった。
杏子はそのすべてをう引き受けつつ、思うことはいつも一つ。正しい姿勢だけ。あとはただの結果。おばあちゃんの胸当て、おばあちゃんの弽。それがある限り、わたしは大丈夫。
勝負の行方は誰も分らなかったが、勝負の様子は誰もが予想した通り、接戦となった。
1順め、沙月と高梨がそれぞれ外し、3-3のタイ。
2順め。紬が外したが、川嶋女子は大塚、前田が外し、6-5で光田高校が一歩リード。
3順め。光田高校は冴子が外したのに対し、川嶋女子は勝利を渇望しながら、それに捕らわれない研ぎ澄まされた姿勢、噛みしめた唇の痛み、流した涙をの乗せた矢で横皆中、全員的中。誰一人として外さない。10-10。追いついた。歓声も息を潜めたような静寂が支配する。
そして、最終4順目。
──栞代の矢が、わずかに外れた。ここまで12本連続して的中してきた栞代が外す。
その瞬間、杏子の祖父が小さく呟く。「栞代・・・・。大丈夫じゃ。ぱみゅ子が必ず取り返す
対して川嶋女子の大前・深町の矢が、一直線に的を貫いた。場内が小さくざわめく。一本も外さなかった。今大会、彼女の初の皆中。川嶋女子、一歩リード。このリードは、彼女の、川嶋女子弓道部全員の思いが齎した。
重すぎる重圧の中、沙月が外し、川嶋女子・大塚がリードの重圧の中で外す。
勝利への流れが張り詰めた過ぎた糸のように弾けそうになった瞬間、しかし。冴子が矢を放つ。音が響く。的中。
悪い流れを見事に断ち切る。
高梨も悪い流れは引き継がない。続けて的中。
──1本差。残りは二人ずつ。
紬が弓を引いた。指先が弦を離れる瞬間、風が頬を撫でた。的中。観客席から抑えた歓声が洩れる。追いこまれた中で、状況なんてまさに「わたしには関係ない」とばかりに、いつもの矢を見せた。
前田も決める。入部以降、ずっと光田高校に、杏子を越えられない。自分一人では越えられなくとも、全員の力なら。1本差は変わらず。残りは、落ち、一人。
杏子が弓を構える。空気が一瞬止まった。誰もが見つめる中、杏子の射型は、普段と変わらなかった。緊張も、重圧も、彼女の中では、遠い雲のようだった。外せば負け、という場面。だが、杏子の弓は変わらない。
常に同じだ。練習も、試合も、常に。
──矢が放たれる。音が、空を裂く。
的中。
「……」
観客席で、瑠月が感嘆する。ほんとにいつも正しい姿勢のことだけ考えているんだ。何度見ても、何度体験しても、感動で全身が震え、思わず息をのんだ。
横で、杏子の祖父も気絶しそうだ。おじいちゃん、落ち着いて、落ち着いて。のんびりだよ。
そして最後、川嶋女子・日比野。
その瞳には、全ての思いが宿っていた。負け続けた日々。苦杯の記憶。打倒光田に賭けた執念。その全てを込めて、また超越して、杏子に似た姿をした日比野は矢を引く。
──音がした。鋭い、確信のある音。
見事な的中だった。
その瞬間、拓哉コーチは、深く頷いた。川嶋女子の悲願が、今ここに結実した。
杏子の祖父が再び、「栞代・・・」と呟いた。大事なところで外した責任を感じてなければいいが。
──
控室に戻った日比野の頬に、一筋の涙が伝った。普段は泰然として、試合結果に喜びも悲しみも見せない彼女の表情が、初めて崩れた。
大きな声はなかった。だが、前田も、高梨も、深町も大塚も、抱き合い、静かに涙を流していた。
現三年生に取っては、公式戦、最後の戦いで、光田高校に一矢を報いた。見事な戦い方だった。素晴らしい戦いだった。
そして、光田高校のメンバーも、全力を尽くして戦った相手に、祝福の声を掛けた。全力を尽くした結果は、たとえ敗戦であっても、胸を張って、誇りを持って受け止めることができる。だからこそ、互いに讃えあった。
同じころ、拓哉コーチもまた、香坂監督に、祝福の声を掛けた。
部員の懸命の努力を見てきた香坂監督の目も潤んでいた。こぼれ落ちる涙を必死で抑えているようだった。
──
しばらく経ち、冴子が高梨に尋ねた。
「結局、なんで日比野と前田、遅れたんだ?」
高梨は胸を張り、答えた。
「目の前を歩いていた老夫婦が突然倒れたんだ。介抱して、救急車を呼んで、そして、二人を救急車に乗せ、自分たちも病院に付き添ったんだ。」
杏子はそのことを聞き、その老夫婦が自分の祖父母だったらと思い、二人に深く感謝した。
「……ありがとう。」杏子は小さく呟いた。
この人たちと同じ的前に立てること。それがどれほど幸せなことか。
「素晴らしい。本当に素晴らしいよ」
光田高校のメンバーも、杏子の祖父母を思い、感謝の気持ちでいっぱいになった。
そして杏子と同じように、素晴らしいライバルに出会えた幸せを思った。
──
『結果は、たまたま。勝っても、負けても、たまたま。──でも、そこに辿り着く過程は、自分で築ける。』
杏子は心の中でそうつぶやき、そっと空を見上げた。
「おめでとう、日比野さん。インターハイの個人戦で会えますね。……前田さんはわたしと学年が同じ。今度は、新人戦で会いましょう」
微笑む杏子の頬を、そよ風が優しく撫でた。空はもう、夏の色だった。




