第138話 ブロック大会前。
陽が傾きかけた午後、杏子は弓道場の片隅に立つ瑠月に声をかけた。柔らかな西陽が、彼女の髪を淡い金色に染めている。
「瑠月さん、今日、私の家に来ませんか?」
弓を片付けながら瑠月が振り返る。いつものように優しく微笑んでいる。
「あら、杏子ちゃん。勉強でわからないところがあるの?」
「いや、勉強はもう、わからないところだらけなんですけど。」
杏子の苦笑に、瑠月はくすりと笑い、手ぬぐいで額の汗を拭った。
「あらあら、それは困ったわね。」
「勉強の話もですけど、遠的のことも、ちょっと聞きたいんです。」
「ああ……やっぱり杏子ちゃん、気になってるんだね。うん、いいよ。」
放課後の弓道場には、乾いた弦音が淡く響いていた。今、瑠月は花音や他のOGたちと隣町の大きな道場で遠的の練習に励んでおり、学校の道場に顔を出すのは久しぶりだった。今日はその隣町の道場が休みで、学校の弓道場で練習をしていたのだ。
「おお、瑠月さん、いらっしゃい。」
玄関先から祖父の元気な声が響く。杏子の家の扉を開けると、栞代の笑い声も重なる。
「おお、ちゃんと栞代もいたか。」
「もうずっと仲良しですね、栞代ちゃんとおじいちゃん。」
「仲良しというか、いつか凹ませたいというか……いやいや、がははは!」
祖父の笑い声が家の中に響き渡る。その声は、家に染みついた温もりと混じり合い、どこか心地よかった。祖父と栞代は、まるで漫才のような掛け合いを繰り広げ、紅茶の香りが部屋に優しく漂う。
祖父が淹れてくれた紅茶を一口飲み、瑠月は微笑んだ。「相変わらず、本当に美味しい。」
その笑顔に、杏子も自然と笑みがこぼれる。祖父と栞代のくるくると回る会話が一段落すると、祖父は「ちょっと手伝ってくる。なんて賢いワタクシ」と言いながら席を立った。
突然静かになった居間で、杏子は瑠月に遠的の話を尋ねた。
「少しずつ距離を伸ばして、ようやく正規の距離まで行ったわ。ほんとにゆっくりと進めてくれてるわ。深澤コーチも、ブランクを感じさせないぐらい。きっと、練習してくれているのね」
瑠月は静かに語る。深澤コーチ、花音やOGたち、そしてその友人たちもがどれほど親切にしてくれるか。新しい挑戦の場で、どんな気持ちで矢を放っているのか。その一つ一つが、杏子にはまるで物語のように聞こえた。
「遠的の練習ってどんな感じですか?近的との両立は、問題ないですか?」
杏子の問いに、瑠月は少し考えた後、穏やかに頷いた。
どんな風に練習しているのか、どんなことをコーチに言われているのか、一通り説明したあと、おそらく杏子が一番知りたがっていることを伝えた。
「一度やってみて、そこから判断したらいいと思う。基本的には役に立つって意見が多いけど……もちろん、違う意見の人もいる。わたしは、遠的に専念すればいいんだけど。杏子ちゃん、絶対に無理しないでね。」
その声には、深い優しさが滲んでいた。杏子はその言葉を胸にそっと刻む。
「そういえば……」
瑠月がふと思い出したように口を開いた。
「道場によるのかもしれないけれど、今通ってるところは、初段を持っていることが条件で。もし持ってないなら、道場の指定した練習に通わないとダメみたいだったわ。外の道場では、そんなところが多いみたいね。杏子ちゃんも、審査受けたら?」
その言葉を引き取るように、肝心なところでいつも現れる祖父が続ける。
「そんな必要ありません。向こうから“もらってください”と言ってきたら別だけどな。」
「もう、おじいちゃん、またそんなこと言って。」
栞代が茶化す。「杏子ならおじいちゃんと違って、品行方正で、儀礼もきちんとしてるし。おばあちゃんの影響が完全におじいちゃんの悪い影響を覆い隠してるから問題ないって。」
「栞代こそ、なに言ってんじゃ。ぱみゅ子のいいところは、全部わし似じゃ。優しさ、可愛さ、気立ての良さ、芯の強さ、律儀で義理堅いところ、情が深いところ、笑顔の素敵さ、凛としてる姿、器の大きさ、まっすぐで・・・・」
「おじいちゃん、それ、来年までに終わるか?」
「いや、無理じゃのう~。なんせ、無限にあるからのう」
「まあ、寛大、というところは誰にも真似できないな。なんせ、このおじいちゃんとつきあってるんだから」
笑い声が響く。杏子はその輪の中で、もうすっかり慣れているのか、ただニコニコと微笑んでいた。
「だから、問題は、おじいちゃんしか言ってくれないことなのよねえ」
瑠月がそれを受けて
「そんなことないよ、杏子ちゃん。杏子ちゃん、すっごい人気で、みんな憧れているんだから」
とフォローしたとき、栞代が
「うん。たしかに、弓道部の全員、杏子に憬れてるからなあ」
と続けると
「女子だけだろうなあ。男子と関わっては絶対にイカン。栞代、そこは頼んだぞ」
と、祖父が打って変わって必死の形相で訴えたので、また笑い声で包まれた。
──
食卓を囲み、温かな食事を終えると、再び祖父が紅茶を淹れてくれた。カップの中の液面に、照明の光が小さく揺れる。勉強の話にもなり、やっぱり「少しでも毎日やること」を勧められる。
単語一つでいいのよ。よくこう言うと、結局そこからいっぱいやる、と思いがちだけど、ほんとに一つでいいの。凄く気が乗った時にだけ、続ければいいの。迷ったら辞める。それでいいのよ。
瑠月は優しく言った。
「そういえば、おじいちゃん、ソフィアに日本語の勉強、毎日ちょっとでもやるようにって言ってたっけ? まあ、日本語は、毎日会話するから、ちょっとでもやってるみたいなもんだもんなあ」
栞代が笑いながら言い、杏子も頷く。そんな他愛ない会話が、夜の帳とともに穏やかに続いていった。
やがて、杏子は祖父と一緒に瑠月と栞代を送る。
今日は来てくれてありがとうございます。杏子が伝えると、瑠月が、こちらこそ、本当に楽しかったわ、と伝えた。
栞代が瑠月に、瑠月さん、時々は杏子を助けに来てやってよ。おじいちゃんの相手をずっと杏子がするのは大変だからさ。オレも杏子の負担を減らそうと頑張ってんだ。そんな風に言い、車内は、笑いに包まれ、栞代と祖父の漫才が続いていた。
いつでも呼んでね。
一段落した時、瑠月が杏子にそっと囁く。杏子は、はい、必ず。と言ったあと、でも、時々は突然来てください。いつでも大歓迎ですから。と応えた。
──
二人を送り、車内で杏子と二人になった祖父は、帰り道、杏子にふと問いかける。我が儘で自分勝手なことばかり押しつけるようで、気の弱いところもある。まさに、ヤヤコシイ。
「ぱみゅ子、審査、受けたいのか?」
杏子は助手席でぼんやりと外を眺めていたが、ふと笑顔を見せて振り向く。
「ん? そんなに興味ないよ。受けたくなったら言うね。それに」
「それに?」
「何も持っていない、というのもかっこいいなってちょっと思う時もあるよ」
「そうじゃろ」
一転、自信満々に応えた祖父だった。まさにヤヤコシイ。
窓の外に、ぼんやりと街の灯が流れていく。もうすぐブロック大会だ。去年は勢いのまま団体も個人も勝った。今年もそうなればいいけれど……結果はたまたま、だったねおばあちゃん。
杏子はそんなことを、祖父の運転する車の中で、静かにおばあちゃんの言葉を思い出していた。




