第124話 光田高校体育祭 前編
六月の上旬、初夏の日差しが眩しく校庭を照らしていた。
光田高校の体育祭。クラスごとに並んだ生徒たちの列の中で、杏子はそっと空を見上げていた。
蒸し暑い空気が肌にまとわりつくけれど、杏子はあまり気にしていない。
競技の開始を待つその姿は、どこか浮世離れしているようだった。
「おい、杏子」
隣から声がかかる。栞代だ。
「あ、うん」
杏子は空を見たまま、曖昧に頷く。
でもその頷きは、何一つ聞いていない証拠だった。
「……杏子さあ」
栞代は軽くため息をついた。
弓道場では誰よりも集中している杏子が、こういう行事になるとからっきしなのは、もはやお決まりだ。
そんな杏子を横目に、栞代は応援団の赤いハチマキをきゅっと締め直す。
元バスケ部で運動神経抜群、クラスの中心で声を張り上げるその姿は、まるで別の世界の住人だ。
クラスの仲間に指示を飛ばし、皆の士気を高める。
その背中には、自然と視線が集まっていた。
「体育祭って、そんなに気合い入れるもんなん?」
杏子がぼそりと呟く。
「そりゃそうやで。勝ちに行かないとおもんないやん」
栞代は当然のように答えた。
杏子は、ふっと首を傾けて、曖昧な笑みを浮かべた。
競争というものに、あまり関心がない。勝敗を気にすることもない。
弓道でもそうだった。正しい姿勢のことだけを考えていたら、結果はただの結果なだけ。
だから、こういう行事でも、勝つために気合いを入れるという感覚がピンとこなかった。
その隣のクラス。
ソフィアは目を輝かせ、校庭を見渡していた。
「Kawaii!こんな行事、フィンランドにはないから!」
その声は、クラスのどこからでも聞こえるほど明るく大きかった。
ソフィアは、フィンランドの高校では見たこともないような体育祭の風景に、心から興奮していた。
「ソフィア、あんまり目立たないでよ」
控えめに声をかけたのは紬だ。
クラスの端で、少しだけ心配そうな表情を浮かべていた。
「OK, OK, I got it!」
ソフィアは大きく頷いたが、その返事が守られることはまずない。
すぐに「Oh!」と手を挙げ、クラスメイトの輪に飛び込んでいく。
金髪が太陽の光を浴びて輝き、その華やかさに誰もが目を奪われる。
学内アイドルまっしぐら。それが今のソフィアだった。
そして、ソフィアはテンションが上がりすぎると、時折、英語――いや、フィンランド語が飛び出す。
「Tämä on hullua!」(なんてクレイジーなの!)
「え? え?」と周囲がざわつく中、ソフィアは気づいて、慌てて訂正する。
「あ、ごめん!I mean…すごい楽しいってこと!」
そんなやりとりも、クラスではすっかりおなじみの光景になっていた。
さらにその隣のクラス。
あかねは大声を張り上げ、すでに校庭を走り回っていた。
「おーい!並べ並べー!時間ない!」
誰よりも元気で、誰よりも声が通る。
あかねはクラスのムードメーカーで、困っているクラスメイトがいればすぐに声をかけ、
頼まれれば二つ返事で引き受ける。
その姿を、まゆは静かに見守っていた。
体育祭には参加しない。杖なしでは歩けないまゆは、
応援席の陰でそっとその様子を見つめていた。
「まゆ、暑くないか?水、持ってくる?」
あかねが駆け寄ってくる。
「ありがとう。でも私は大丈夫」
まゆは柔らかく微笑んだ。
自分が裏方に徹することで、誰かの役に立てる。それがまゆの誇りだった。
そして、そんなまゆの姿は、クラスの誰からも信頼されていた。
声をかけられるたび、まゆはその健気な微笑みで応える。
開会式が始まった。
栞代の声が校庭に響き渡る。
「いけるぞー!絶対勝つぞー!」
クラスメイトの声がそれに重なる。
杏子はその輪の中で、ぼんやりとその声を聞いていた。
競争心はない。けれど、この場にいることは、悪くないと思っている。
栞代のように燃えることはできないけれど、
ソフィアのように目立つこともできないけれど、
あかねのように盛り上げることもできないけれど、
杏子は、ただ、ここにいた。
そして、弓道部の面々が、それぞれのクラスで、
それぞれの立ち位置で、体育祭の幕が上がった。
午前中の競技が始まり、校庭には声援と歓声が響き渡っていた。
最初の競技は、クラス対抗リレー予選。
スターターがピストルを構えた瞬間、緊張が走る。
その中で、アンカーの栞代は余裕の笑みを浮かべていた。
「バスケ部の本気、見せてやる」
手首を軽く回し、前を見据える。
スタートの合図が響き、バトンが次々と渡されていく。
そして、アンカーの栞代にバトンが渡った瞬間――。
「行けー! 栞代ー!」
クラスメイトたちの声援に背中を押されるように、栞代は一気に加速した。
大きなストライド、軽やかなステップ。
まるで風を切るようなその走りに、観客席からどよめきが上がった。
バスケ部仕込みの足の速さは、あっという間に他の走者たちを抜き去り、差を広げていく。
ゴールテープを切った栞代は、胸を大きく上下させながら、ニッと笑った。
「よっしゃ!」
その姿に、クラスメイトが駆け寄ってくる。
「すごいよ、栞代!さすが!」
栞代は手を挙げて応えながら、ちらりと杏子の方を見る。
その視線の先、杏子はと言えば――
自分の順番を待ちながら、地面に落ちた花びらをじっと眺めていた。
次は100メートル走。
スタートラインに並んだソフィアは、金髪を揺らしながら微笑んでいた。
「Ready?」と、無意識に英語が漏れる。
「ソフィア、がんばれー!」
クラスメイトの声に手を振り返す。
スタートの合図と同時に、ソフィアは飛び出した。
そのフォームは美しく、無駄がない。
太陽を背に浴びながら、一直線にゴールへと駆け抜ける。
「Tämä on liian helppoa!」(簡単すぎる!)
興奮しすぎて、ついフィンランド語が口をついて出る。
「え、なに?」
「ごめんごめん、簡単ってこと!」
そう笑いながら、ソフィアは圧倒的な速さで1位でゴールテープを切った。
拍手と歓声。
彼女の周りには、自然と人が集まっていた。
その華やかさは、弓道場の静けさとは正反対だった。
そして、問題の借り物競争。
杏子は自分の順番が来たことに気づかず、クラスメイトに背中を押されて慌てて走り出した。
「杏子、行けー!」
渡されたカードを見る。
そこに書かれていたのは、「杏子」。
「え?」
一瞬、固まる。
そのまま立ち尽くしていると、司会のマイクから声が飛ぶ。
「借り物、『杏子』選手、見つけたらスタート地点へ!」
杏子はポカンとした顔のまま、自分を指差した。
「これ、私?」
笑いが広がる中、司会が続ける。
「本人でもOKです!」
杏子はようやく歩き出し、ゆっくりとスタート地点へ戻ってきた。
ゴールしても、本人は何が起きたのかまだ理解していなかった。
続いて、障害物競走。
紬はスタートラインに立ちながら、少しだけ眉をひそめていた。
「これ、私の課題ではありません……」
誰に言うでもなく呟き、スタートの笛が鳴った。
最初のハードルは難なく超えたが、次の網くぐりでバランスを崩しそうになる。
その瞬間、隣からソフィアの声が飛ぶ。
「Go, Tsumugi!」
紬はふっと微笑んで、すぐに体勢を立て直した。
冷静さを取り戻し、最後はきちんとゴール。
クラスメイトからの拍手に、控えめに頭を下げる。
最後は、綱引き。
あかねはロープの先頭に立ち、全身の力を込めて声を張り上げていた。
「いっせーのーで!引けー!」
その声に合わせて、クラスメイトたちはロープを力いっぱい引く。
あかねの指示は的確で、勝負が終わった後でも声を張って盛り上げる。
その姿を、まゆは応援席から見守っていた。
日傘を差しながら、杖を膝に置き、柔らかく微笑む。
競技には参加できない。でも、まゆの存在は確かにそこにあった。
それぞれが、それぞれの場所で輝いた午前中の競技が終わる頃、
校庭の空は少しだけ青さを増していた。
杏子は日陰でひとり、空を見上げていた。
「あと、何があるんやっけ」
そんな呟きに、答える者はいなかった。




