第123話 地区予選翌日 川嶋女子高にて
「川女(川嶋女子)に行ってみない?」
「ええっっ」
栞代は驚いた。川嶋女子。まさに、昨日うちを破った高校だ。光田高校のように年によって成績の上下もほとんどなく、安定した成績を残し続けている。去年も、ずっと戦い続けていた。
「なんで?」と栞代は目を丸くした。
「だって、ここで練習できないから。中田先生の道場も、今日はダメだから」
杏子の表情には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。彼女は単に弓を引きたいだけではなく、何か別の狙いがあるようだった。
「本気?あそこって、私たちが突然行っても大丈夫なの?」
「大丈夫、と思う。
ここで練習したら、拓哉コーチに怒られそうだし。
私、川女の主将の日比野さんの連絡先知ってるから、連絡してみる」
杏子の言葉に、栞代はまだ半信半疑だった。しかし、杏子の目はどこか輝いていた。
「ほんとにこいつは…」
栞代は口ではそうは言ったが、常に杏子に寄り添うと決めている。こいつ、絶対に迎え酒のタイプだなと思うと、自然と笑顔になった。
一年生はさっさと遊びに行ったし、あかねはまゆを連れてこれまたさっさと遊びに行った。
紬とソフィアは、これ幸いと、アニメ鑑賞することに決めたようだ。
冴子は、あらためてグループLINEで全員に報告し、誰も居ないとは思ったが、希望者を募った。
全員にきちんと知らせないと。タイミングがずれたから尚更だ。
冴子部長には直接言いにくいのか、杏子のラインに返信がきた。
紬からは、ソフィアがずっと基礎練習なので気分転換をしたいからアニメを一緒に見る。
つばめからは、楓が同じ理由で、そしてマネージャーの一華も気分転換させてあげたい、と。
出場していないのに人一倍責任を感じていたマネージャーのまゆは、あかねから、カフェに向ってる、というラインがきた。
冴子は一応、日比野主将の了解は得たことを拓哉コーチに伝え、先方の監督に正式な連絡を取ってもらった。
「道場破りじゃありませんから」と。
「時々、環境を変えることも大事かもな。同じ場所で練習してると、見えなくなるものがある」
コーチがそう言うと、冴子は黙って頷いた。
「それにしても、練習禁止だと言ったのに。明日は覚悟しろよ」
コーチがそう言うと、冴子は、
「うちの弓道場では、練習しませんから」。
と言いコーチの元からさっさと去った。
こうした手順を踏んでいる間に、杏子は祖父に連絡を取っていた。
「おじいちゃん、車出してくれるって」
栞代は、おじいちゃんは杏子に頼られたことで上機嫌だろうな、と思っていたが、はたして、全くその通り、にこにこしていた。
川嶋女子に向かう道中、車内は独特の緊張と和やかさが入り混じる空間となっていた。前の座席では、栞代と杏子の祖父と杏子によるトリオ漫才が繰り広げられていた。
「弓を引くときの心構えはとといて、恋愛が上手く方法、とく」と杏子の祖父が語り始めた。
「その心は?」栞代が食いつく。
「その心は、執着しすぎると上手くいかない。自分のできることをしっかりやること、でしょう。」
「くー。おじいちゃんに言われた~」
「そして最後は、離れることを恐れないこと、じゃ」
「矢を離すのと同じか」栞代が一瞬納得しつつも、
「いやいや、それ、失恋してんじゃ?」栞代が突っ込む。
一方、奥の座席の冴子と沙月は、川嶋女子とのことを真剣に話し合っていた。
昨年度は、川嶋女子校と、まさにもつれるように接戦を繰り広げ、かろうじて光田高校が勝利していた。
「川嶋女子にとってみれば、私たちと互角で、本当にほんの少しの差で全国大会への道を閉ざされた相手なんだよね」
向こうにとっては、今日の突然の訪問に対して、どう思っているのだろう。その思いが冴子の胸をよぎった。しかも試合の翌日。
「負けた相手のところに練習しに行くって、けっこうだよね」と、冴子がぼそっと言った。心の中には複雑な感情が渦巻いていた。
「違いない」と沙月が笑った。彼女の笑顔には、どこか挑戦的な光が宿っていた。「でも、そういうの、あたしは嫌いじゃない」
「負けた相手に、そのまま終わらないようにしに行くって、もう、うちらストーカーみたいじゃない?」沙月が大真面目に言うと、冴子がふっと吹き出した。緊張が少し解けていくのを感じた。
「勝つまで辞めないって感じがあるよな~。そう思うと、よく受けてくれたなあ」冴子の声には、相手校への敬意が混じっていた。
「まあ、ずっとギリギリの戦いをしてきたけど、向うの日比野が杏子を気にいってるからな。そんなに抵抗はなかったみたいだな」冴子は杏子を見やりながら言った。
車は川嶋女子高校の門をくぐった。校舎は光田高校より少し古く、歴史を感じさせる佇まいだった。弓道場に向かう道すがら、冴子は自分たちの来訪が相手にどう映るのか、再び不安がよぎった。
川嶋女子高校の弓道場に着くと、部員たちが丁寧に迎えてくれた。その姿勢に、冴子は少し緊張が解けるのを感じた。
「まさか、ほんとに来るとは……」と、前田霞が呟いた。彼女の声には驚きと、どこか感心したような響きがあった。「うちの部長、弓道やってる時、意識弓にしかないからなあ。断るって意識なかった」
「無茶するわね。拓哉コーチじゃなければ、断っていたかも」川嶋女子の香坂監督は笑顔でそう言い迎えてくれた。
冴子は、やっぱイケメンは得なのかな、とちらと思った。拓哉コーチの人柄と外見が、こうした交流の扉を開いたのかもしれない。
挨拶を交わした後、即席の合同練習が始まった。弓を構える音、矢が的を射抜く音が弓道場に響く。川嶋女子の注目は、やはり、杏子だった。彼女の姿勢の美しさと集中力は、見る者を惹きつけずにはいられなかった。
だが、当の杏子は、まるで周囲の視線を気にせず、相変わらず姿勢のことだけ考えていた。彼女にとって、弓道は自分との対話であり、他者の評価を求めるものではなかった。
その姿を見て、前田霞が「希さんと気が合う訳だよ」と呆れたように呟いた。日比野希も同じように、周囲の雑音を遮断して弓と向き合う姿勢を持っていた。二人は似ていた。
その後、練習試合が始まる。両校の選手たちの目が真剣さを増していく。
返り討ちに、という気合が川嶋女子からは感じられた。
光田高校には、試合には出場しない瑠月が出場することを伝えた。
試合が始まり、両校の選手たちは一射一射に魂を込めた。
栞代 〇〇×〇
沙月 〇×〇×
瑠月 ×〇〇〇
冴子 〇×〇〇
杏子 〇〇〇〇
深町萌音 ×〇〇×
大塚 奈々美 〇〇〇×
高梨 柚季 〇〇×〇
前田霞 〇〇×〇
日比野希 〇〇〇〇
15本で並んだ両校。弓道場には緊張感が漂っていた。川嶋女子の希望により、落ちを勤めた、杏子と、日比野希の二人による決勝を行うことになった。
二人が射位に立つと、場内が静まり返った。外せば負け、という競射形式。杏子は深く呼吸し、心を静めた。日比野も同様に、静かに弓を構えた。
一射目、二人とも見事に的中。
二射目も、三射目も、四射目も、二人は一度も外さなかった。
その姿は、まるで鏡に映ったかのように似ていた。二人の弓道に対する真摯な姿勢、技術の高さ、そして何より、弓と向き合う静かな情熱が、観る者すべてを魅了していた。
四射まで外さなかった時点で、川崎女子の香坂監督が、「時間がないし、ここで終わろう」と引き分けを宣言した。しかし、その目には敬意の光が宿っていた。
「素晴らしい試合だった」香坂監督は両校の選手たちに向かって言った。「これが弓道の美しさだね」
その後少し合同で練習をして、簡単に交流も行った。弓道場の片隅では、栞代と前田霞が、お互い大変だな、と妙に気が合ったところを見せていた。
川嶋女子から、瑠月が公式戦に出られないのは本当に残念だと声をかけられた。
「あなたの射形は本当に美しい」高梨柚季が瑠月に言った。
瑠月はお礼を言った。冴子は、こうした場面で事情を説明するのは、瑠月さんには負担になるんじゃないか、不本意なんじゃないかと気がつき、瑠月を見た。目が合った瑠月は、微妙に首をふり、笑顔を見せた。
「でも、今日は素晴らしかったよ」高梨は真剣な表情で言った。「最高のメンバーに勝たないと意味がないのに。必ず、また一緒に的前に立とう」
その言葉に、その場にいる全員が同意した。瑠月の目に、小さな涙が光った。
帰り際、日比野希が杏子に近づいた。「また練習しよう。お互いに高め合えるから」
杏子は静かに頷いた。「うん、約束する」
今度はうちに来て、と言うと、横にいた前田が「光田、僻地だからヤだ」と冗談半分に言って、笑いを誘ってた。
車に乗り込む光田高校の面々。冴子は振り返って川嶋女子高校を見た。最初は気まずさを感じていた訪問だったが、今は違った。彼女たちは敵ではなく、同じ弓道を愛する仲間だった。
「よかったね」沙月が冴子の肩を軽く叩いた。
「うん」冴子は微笑んだ。「次は公式戦で」
車が動き出し、窓の外の景色が流れていく。冴子は心の中で誓った。次は、もっと強くなって、胸を張って彼女たちと対峙しよう。そして、全国への切符を掴み取るのは、光田高校だと。
帰り道、車内は再び和やかな空気に包まれた。栞代と杏子の祖父の漫才が再開され、全員が笑いに包まれていた。弓道場での緊張が解け、心地よい疲労感と充実感が彼女たちを包んでいた。
冴子は窓の外を見ながら考えた。弓道は、矢を放つ一瞬の美しさだけではない。こうして出会い、高め合う関係も、弓道の魅力の一つなのだと。
「次は負けないよ」冴子はつぶやいた。それは川嶋女子に対してだけでなく、自分自身の弱さに対する宣戦布告でもあった。
車は夕暮れの街を走り続けた。明日からまた、新たな練習が始まる。




