第12話 対鳳城高校の前日。
光田高校から首都の鳳城高校までは電車で4時間以上かかる。万全の体調で試合に臨むため、前日に現地入りすることになった。
鳳城高校といえば、毎年のように全国大会で優勝を争う名門中の名門。対する光田高校は、確かに伝統校ではあるものの、全国大会での優勝経験はない。しかもここ5年は低迷が続き、ようやく去年の新人戦で地区予選を突破したばかりの、明らかな格下だった。
それにも関わらず鳳城高校は、これぞ名門校という対応を見せた。「万全の調子で対戦しましょう」と道場に慣れるため前日練習を提案し、宿泊も鳳城高校の合宿用の施設を使ってください、ということだった。
光田高校弓道部のメンバーは、長旅の疲れはあったが、明日の試合会場である鳳城高校の弓道場に足を踏み入れた。広大な敷地に一同が息をのむ。普段使っている自分たちの道場とはまるで違う壮大さが目の前に広がっていた。
沈黙を破ったのは、弓道初心者の栞代だった。「うっわ……こりゃすごいな。軽くうちの倍以上の人数が同時に射てるんじゃない?」
ほんの呟きだったが、光田高校弓道部の全員の気持ちを代弁していた。鳳城高校の道場は公式戦の会場にもできるほどの広さと美しさで、よく手入れされた床や壁が荘厳な雰囲気を醸し出している。このような道場を持つ高校は全国でもごくわずかで、弓道を志す者にとって憧れの場であった。特に初心者の栞代にとっては圧倒的な光景で、釘付けになっているのも無理はない。
一方、経験を積んだ者たちも例外ではなかった。公式戦で広い道場を見慣れている者も、鳳城高校の設備と規模に圧倒され、ただただ呆然としていた。しかし、光田高校弓道部員たちはかろうじて礼儀を忘れず、丁寧に挨拶をして場に溶け込もうとしていた。
やがて、鳳城高校の顧問である不動先生が出迎えに現れた。光田高校の樹神コーチと、どこか懐かしげに言葉を交わし始める。
「樹神コーチ、ご無沙汰しております。」
この様子に光田高校の生徒たちは再び驚かされた。不動先生と言えば、高校弓道界では知らぬ者はいない名指導者であり、その教えを受けたいと憧れる者も多い。その不動先生が自分たちのコーチと旧知の仲だとは思わなかったのだ。
「不動先生、今回は私どもの申し出をお受けいただき、ありがとうございます。部員一同、胸をお借りいたします。」
「いやいや、樹神コーチのチームがどのように育っているのか、私も楽しみにしていますよ。」不動先生が優しく微笑むと、続けて鳳城高校の1年生を呼んだ。「麗霞、光田高校の皆さんをご案内してさしあげて。」
その名が呼ばれ、雲類鷲麗霞が姿を現した瞬間、光田高校の生徒たちは文字通り息を飲んだ。「あ、あの、雲類鷲麗霞……!」
驚くのも無理はなかった。雲類鷲麗霞は中学時代の3年間、全ての大会を制覇し、鳳城高校に進学したことで、早くも高校弓道界のスター選手として注目を集めていた。彼女が案内役を務めるなど、光田高校の部員たちには予想だにしない展開だった。
一方、麗霞も光田高校のメンバーの中に見覚えのある顔を見つけ、声をかけた。「小鳥遊さん、光田高校に進学したんですね。噂には聞いていました。明日、あなたと同じ的前に立てるのを楽しみにしています。」
小鳥遊つぐみはにっこり笑い、軽く頷く。「麗姫(尊敬を込めて呼ぶ愛称)、よろしくな。明日、私も楽しみにしてるよ。それに……うちの秘密兵器にも驚かされるかもしれないぜ。」
麗霞は軽く微笑み、「それは楽しみです」と返すと、部員たちに簡単に合宿所を案内したあと、更衣室の前まで一緒に行った。
つぐみの自信に満ちた態度に、周りの部員たちは驚きを隠せなかった。実は、つぐみと麗霞は昨年(中学3年生時)の全国大会の決勝で対戦していた。確かに実力差のあった試合ではあったが、準優勝という結果に対する誇りが、つぐみを堂々とした態度にさせていたのだ。その試合を経て同じ舞台に立つ者としての自負があった。
負けず嫌いで、自他共に認める天才少女だったつぐみが初めて味わった屈辱。劇的な雪辱方法を考え抜き、樹神コーチの指導を受けて、名門校の麗霞を破る、という目標を立てたのだ。鳳城高校の誘いを断ったことは、今の小鳥遊にとって、結果を盛り上げるためのエピソードに過ぎなかった。
案内された更衣室も、見事な造りで清潔感にあふれており、ここでも光田高校の部員たちは圧倒された。特に1年生の栞代と柊紬は、つい小声でつぶやき合う。
ジャージに着替えながら、栞代が興奮気味に話しかけた。「なあ、つぐみが言ってた秘密兵器って、やっぱり杏子のことだよな?」
紬は冷静に首をかしげると、無表情で答えた。「それに答えるのは、わたしの課題ではありません。」などと言いつつ「ただ、杏子も自分がつぐみの言う『秘密兵器』だと気づいたはずです。そもそも鳳城高校に、わたしたちの高校のレベルで秘密兵器が居ると言っても、プレッシャーになりはしないでしょう。だからむしろ緊張するのは杏子の方でしょう。もしかしたらこれは、つぐみが杏子にプレッシャーをかけて固くさせようと企んだのかもしれないとわたしは考えます」しっかりと答えていた。
栞代は少し驚いて、紬を見つめた。「え、つぐみがそんなことを?考えすぎじゃないか?」
「つぐみは競技において冷静だし、勝つことが一番だと考えています。団体戦ではチームメイトでも、個人戦では敵になる。杏子の力を今、一番認めている一人がつぐみでしょう。あれだけの実力を毎日見せつけられているんですから。」
「いやでも、つぐみも杏子に素直に助言を受けてたし、感謝してたぜ。」
「それは自分のためにです。自分が強くなるために。つくみは自分のためになるなら、どんなことでも躊躇しません。そして、その時の的確すぎるアドバイスが、余計につぐみを警戒させることになったのは、簡単に想像できます。つぐみの目標はあくまで個人戦で、しかも相手はあの雲類鷲麗霞です。チームメイトだからといって遠慮などはしないでしょう。しかも今回は、レギュラー選考も兼ねています。つぐみとしては、選考されることは前提で、立ち順の落ち(一番最後)を狙っているのでしょう。なんといっても、一番目立てますから。個人戦の結果を気にしているなら、杏子よりも目立った結果を残したいと考えているのはむしろ当然なのではないでしょうか。」紬は淡々と話すが、いちいち的確で栞代は驚いた。いつも話さず、隅で黙々と一人で練習しているのに。
栞代はつぐみの闘争心には感心しつつ「たしかに、つぐみの負けん気はすごい。だけど、杏子に心理戦が通じるかな? 」と、あまり気にはしていないようだった。杏子は弓のことしか考えていないぜ。それは今まで共に練習してきた杏子への信頼でもあった。
やがて着替えを終えた光田高校弓道部のメンバーは、鳳城高校の練習の見学に向かった。大勢の選手が整然と並び、次々と的を射る姿に圧倒される。普段の自分たちの練習とは異なる緊張感が漂っていた。人数の多さもさることながら、矢が的に的中する音が頻繁に響き渡り、まるで誰も外していないかのように感じられる。
栞代は鳳城高校が放つ矢を見て、さきほどの紬との会話を思い出した。真剣そのものの鳳城高校の選手たちも、光田高校にプレッシャーをかけ、相手を委縮させようとしているのかもしれないな。そういえば、立派な道場、立派な施設、威圧されてばかり。弓道は精神力が大切な競技だ。ここで萎縮して敗れたら、さすが鳳城高校、という意識が植えつけられるだろう。だからこそ、彼らも心の戦いを仕掛けているのだろうかと、栞代は感じた。
とはいえ、どんな時にも決して相手を見くびらず、全力で立ち向かおうとし、さらには相手に礼を尽くす、強豪校の姿勢には、尊敬しかなかった。
弓道は心と心がぶつかり合う「見えない戦い」だ。光田高校弓道部の面々も、それぞれが緊張を隠しながら、心を整えようと努めていた。初めての試合に臨む杏子、興奮しながらも冷静なつぐみ、そして対戦相手に圧倒されつつも気持ちを立て直そうとする2、3年生たち──明日への挑戦は、すでに始まっていた。
そこへ、再び雲類鷲麗霞がやってきて、そろそろ終わりますから、光田高校の皆さんも、準備を初めてください、と告げた。
つぐみが、麗姫は射たないのか尋ねたら、1年生は先に終わってるので、と説明を受けた。麗霞といえど一年生は一年生。そういえば案内役も引き受けている。このあたりの規律もきちんとしているのだな、とつぐみは感じた。
鳳城高校の弓道場は、光田高校弓道部の緊張感で包まれた。さきほどと入れ違いで、鳳城高校の部員たちが、見学している。
明日はここで練習試合。杏子にとっては人生初の試合で、初めて選手としての責任が胸にずしりと響いていた。普段は穏やかで集中を切らさない杏子も、さすがに今回ばかりは少し落ち着かない様子だった。
彼女は道場の隅で弓を手にし、呼吸を整えながらゆっくりと矢を番えていた。視線を遠くに置き、弦の感触を指先で確かめる。だが、手がかすかに震えるのを感じ、杏子は深く息を吸い込んだ。「大丈夫。いつも通りにやればいいんだ。」自分にそう言い聞かせるが、緊張は完全には消えない。
そのとき、杏子はふと、おばあちゃんの言葉を思い出した。「正しい姿勢で射つことだけ。あたるかどうかはただ結果なだけ。」昔から、杏子に弓道の精神を教え込んでくれた。弓道において大事なのは、結果よりも心の持ち方、そして射型の正しさだといつも言っていた。杏子はその言葉を胸に刻むようにもう一度繰り返した。胸当てと弽もある。こころだけではなく、実際におばあちゃんに触れているも同然だ。わたしには、いつもおばあちゃんがついている。わずかながらも心が静かになっていくのを感じた。
杏子が心を落ち着けようとする一方で、先輩の沙月、冴子、花音、瑠月の4人は、各々が違う表情で練習に励んでいた。事実上、この練習試合の結果によって、彼女たちの中から3人が選手として選ばれることになる。選考は勝負で、明日の試合は重要なものだった。
沙月は三度目の矢を放つ前に、一瞬だけ手が震えるのを感じた。沙月は焦りの色を隠せない様子で、何度も射の姿勢を確認している。彼女は普段、真面目で着実な練習態度を貫いているが、緊張が募るとつい動きが硬くなる傾向がある。
隣では冴子が、いつもより長く狙いを定めている。普段は鋭い冴子の射が、今日は少しぎこちない。冴子は内心のプレッシャーを表に出さず、普段通りに見えるが、その瞳には強い決意が宿っていた。彼女は自分の力に自信があるものの、油断はできないと思っているのだろう。
花音は部長として、平静を装っているものの、まっすぐな瞳に緊張の色が宿っている。少し弱気になっている様子で、隣に立つ瑠月にぽつりと「ちゃんと当たるかな……」と不安を漏らした。
瑠月は彼女の肩を軽く叩いて励まし、「大丈夫よ、私たち、ここまでちゃんとやってきたんだから」と笑顔で返す。瑠月自身も緊張しているはずだが、それを隠して他の部員を気遣う姿が、彼女の優しさを表していた。
四人とも、明日の練習試合の結果で、正選手の座が決まることを意識していた。三つの枠に、四人が挑む。それぞれが、自分が真剣に取り組んできたという自信を持っている。だからこそ、誰も譲れない。
1年生のつぐみは、他のメンバーの様子を静かに観察しながら、自分の呼吸を整えている。つぐみは経験も実力もあるため、比較的落ち着いているように見えるが、それでもやはり緊張感は拭えない。「一発勝負」だから、何が起こるか分らない。今自分が持てる力全てをかける。そう心の中で自らに言い聞かせ、明日への集中力を高めていた。そして、初めて試合の場で、杏子と並んで射つことになる。麗霞にも杏子にも負けたくない。
つぐみはその実績から多くの注目を集めてはいたが、まだこの段階では全くの無名の杏子に注目したのは、不動監督、一人だけであった。雲類鷲麗霞は、一年生の仕事をしており、光田高校の練習を見ていなかった。さらには、明日の試合出場予定メンバーも、明日へのミーティングで、練習を見てはいなかった。
練習が終わり、部員たちは丁寧に挨拶とお礼をして、道場を後にした。更衣室で着替えたあと、道場の外で軽く体をほぐしながら明日の試合のことを考えていた。杏子は、夜空を見上げて、もう一度祖母の言葉を思い出した。「正しい姿勢で射つことだけ。あたるかどうかはただ結果なだけ。」彼女はその言葉に支えられながら、明日はただ正しい射を打つことだけに集中しようと決意を新たにした。
すると、つぐみが杏子の隣に立って声をかけてきた。「初めての試合、緊張してる?」杏子は少し驚きつつも、うなずいた。「うん、すごく……。でも、おばあちゃんの言葉を思い出して、少しは落ち着いたかな。」
「それが杏子の強さだよな。結果を考えすぎると射もぶれてしまうからな。」つくみの言葉は、自信と経験に裏打ちされていて、杏子にはとても心強く感じられた。小鳥遊もまた、自分に言い聞かせるように深く頷いた。杏子に勝ちたいが、最高の杏子に勝ちたい。だから、実力を存分に発揮してほしい。
その時、拓哉コーチが言った。
「みんな、ひとつ大事な話がある」部員たちの視線が、一斉にコーチに集まる。
「明日は確かに選考も兼ねている。けれど、それ以上に大切なことがある。君たちの射を、精一杯見せてほしい。それだけだ」静かな声だったが、確かな重みを持っていた。
「はい!」部員たちの返事が響いた。
花音は改めて自分の立ち位置を正した。沙月と冴子は互いに小さく頷き合い、瑠月は静かに目を閉じて深い呼吸をした。
そして、明日を迎えようとしている光田高校弓道部のみんなの空気は、緊張と期待が入り混じりながらも、確かな覚悟へと変わっていく。
その時、コーチが
「よし。それじゃ、外に食べに行くか。」と突然明るく言いだした。
「えっ。」花音が驚いたように声を出す。
「こちらの合宿所で頂くんじゃなかったんですか。」
「いや、最初は向うもそのつもりで用意するか打診されたんだが、なんせ明日の対戦相手だろう? 一緒に食べるのも緊張するじゃないか。だから、みんなで食べに行くんだ。」
張りつめた気持ちをほぐそうとしていることは、みんなすぐに理解した。
各々が何食べたい、せっかくだから御馳走を食べたい、などと騒いだが、コーチは、
「食べなれないものを食べたら腹を壊す。普通のものを食べに行こう。奢りだ。」
と言ってみんなを笑わせ、ファミリーレストランに向かった。
明日の特別な試合の前の、ごく普通の食事。緊張の前のひとときの団欒。高校生らしく、適度に騒いで、楽しく食事をした。みんな心から笑ってた。
その晩、杏子は静かに明日の準備を整え、胸当てと弽を確認してから布団に入った。これがあれば大丈夫。明日への不安も残るが、それ以上に「自分の射を貫く」という思いが彼女の中にしっかりと根を下ろしていた。そして夜空を見上げた時、おばあちゃんの優しい顔がふと脳裏に浮かび、彼女は微笑んだ。「正しい姿勢で射つことだけ。あたるかどうかはただ結果なだけ。」だから明日は、正しい射型で打つことだけ。それが、私にできる全て。
杏子の心は、今までにないほど静かで澄み渡っていた。




