第113話 鳳城高校、鳴弦館高校との合同練習試合に向けて
放課後の道場には、まだ控えめな弦音が響いていた。射込みの順番を待つ部員たちは、それぞれが小さく息を整え、弓具の確認に集中している。静寂に包まれた空間だが、空気はぴんと張り詰めていた。もうすぐ行われる鳳城高校と鳴弦館高校との合同練習試合に向けた本格的な調整が、今日から始まったのだ。
わたしはいつものように、端からみんなの射型を見て回る。また一人一人チェックするけど、癖とかを把握できるかなと思って。正確には「拓哉コーチの教えどおりにできているかどうか」をそっと確かめているだけだ。直すのはコーチの役目であって、わたしはただ確認するだけ。
わたしは、ずっと、おばあちゃんの教わった通りに、正しい姿勢を目指しているだけだから、こうして見るのもすごく練習になる。わたしはただ、おばあちゃんに教わった通り、正しい姿勢を目指しているだけなのだから。
あっ。おばあちゃんのことばっかり考えてると、おじいちゃんがヤキモチ焼くな。でも弓道の時は仕方ないじゃん、ね。
「おっ、杏子、みんなはどう?」
肩越しに声をかけてきたのは栞代。わたしの親友で、元バスケ部の全国準優勝経験者だ。今はわたしと一緒に弓道に本気で取り組んでくれている。
「うん。ちゃんと拓哉コーチの言ったとおりにできてるか、見てただけ。わたしの練習にもなるし」
わたしがそう答えると、栞代はちょっと口の端を上げた。
「でも、そろそろビデオも導入するって、コーチ言ってたな。あのアナログ原始人コーチがよく文明の利器を使う気になったもんだよ」
「栞代、聞こえるよっ」
「まあ、オレたちは杏子のこと完全に信用してるけど、あの真映さあ、ビデオでも確認したいとか言い出したからなあ」
「ふふ。いいじゃない」
「つぐみが、杏子のチェックはピクセル単位って言って驚いてから、ビデオと競争もいいよな」
「つぐみに会うためにも、がんばらないとね」
そんなやりとりも、もう日常の一部となっていた。
一年生のつばめは、というと——案の定、妙に落ち着いている。いや、落ち着いているというより、「試合が楽しみでしかたない」という表情を隠しきれていない。姉のつぐみが追い求めてきた雲類鷲麗霞さんに会える。試合ができる。そんな高揚感が、つばめの背筋から伝わってくる。物おじしないところは、やはり姉妹そっくりだ。
「あー、楽しみすぎて死にそう」
つばめが、冴子部長に注意されないギリギリの声で隣の真映に囁くのが聞こえて、わたしは思わず微笑んだ。そういえば、去年のわたしは試合のことより三年生たちに気を使って、また何か言われないかと気になっていたっけ。瑠月さんや花音先輩がちゃんと大丈夫だと言ってくれたおかげで乗り越えられた。瑠月さんには今も見守ってもらっているし、勉強も教えてもらっている。感謝の気持ちでいっぱいだ。
今のつばめたちのような「怖いものなし」の姿勢とは全然違うけど、結果は似たようなものだったのかもしれない。でも、彼女たちのような「怖いものなし」には、なれないな。むしろ、恐いもんだらけだ。
「小鳥遊、声、控えて」
冴子部長がピシャリと注意すると、道場に緊張感が戻る。冴子さんの指示は的確で冷静、それでいて優しさがある。だからこそ、みんなが従うんだ。
拓哉コーチは静かに全体を見渡している。白線の上を歩くような、あの特有の姿勢で。全体の大きな流れから、細かい修正まで、外せないところは特にきっちりと指摘する。だからこそ、部員全員が集中して耳を傾ける。
わたしも自分の弓具を確かめて、そっと深呼吸した。去年より、本当にみんな美しくなっている。射形も体配も、成長が目に見えて分かる。冴子さんも、瑠月さんも。
まだ弓に触っていない、楓とソフィアも焦らないといいな。二人の練習プランをコーチと瑠月さんとでちゃんと考えたし。
「杏子、次、お願いします」
冴子さんの声がする。わたしは静かに立ち上がって、冴子さんの射型を見る。静かに足を運ぶ。何も考えない。考えるのは、姿勢のことだけ。おばあちゃんに教わった、あの言葉が頭を過る。
——正しい姿勢で、弓を引くだけ。
これは、わたしがみんなの練習を見ながらでも、常に思ってること。あたったから、あたらなかったから、で姿勢は判断しちゃいけない。
——あたるかどうかは、ただの結果なだけ。
これは、わたしがみんなの練習を見ながらでも、常に思っていること。あたったから、あたらなかったから、で姿勢は判断してはいけない。
「……よし、次、つばめいこっか」
冴子さんは自分のことだけじゃなくて、全体を見ている。本当にすごい。
つばめが前に出る。わたしの方を、ちょっとだけ見上げる。
「杏子先輩。あたし、麗霞さんと戦えるの、ほんとに楽しみっす」
その顔は、もう、姉のつぐみとそっくりだった。怖いもの知らずで、まっすぐで、自信家で。姉妹っていいな。
どこかで壁にぶつかったら、一緒に乗り越えようね。わたしはそんな未来も思いながら、そしてそんな未来も楽しみにしながら、彼女の背中を見守っていた。
勝つとか、当たるかどうかとか——そういうのは、時の運だ。
でも、去年のこの練習試合で、わたしたちはすごく変わった。自信を持てた。快進撃につながった。
今年も、そうなればいい。いや、きっと、そうする。みんなで。わたしは、そう信じている。
……ぱみゅ子は、そう思うんだよ、ね、おじいちゃん。