第112話 軸の在処
鳳城高校と鳴弦館高校との合同練習試合まで、もう少し。
光田高校弓道部の空気は、目に見えない熱気を帯びはじめていた。
杏子は道場の隅で弓袋の紐を締め直しながら、静かに呼吸を整えた。
(正しい姿勢で、弓を引く。それだけ)
頭の中で、ゆっくりと呟く。小学生の頃から、ずっと繰り返してきた言葉。
矢が当たるかどうかは、ただの結果。自分がやるべきことは、一つだけ。
おばあちゃんから譲ってもらった弽を手に取りながら、杏子は心を道場に馴染ませていった。
引き戸を開けると、既に巻藁前では何人かが練習に入っていた。
「あっ、杏子先輩。おはようございます!」
明るい声で手を振ってきたのは、つばめだった。
杏子は、軽く会釈を返した。
「……今日も、一緒にやろうか?」
「はい!」
つばめの瞳は、どこか一点を射抜くような強さを湛えていた。
「姉を越えるために、絶対に基礎から積み上げたいんです。姉を超えたい。そのために、姉と並んでいた杏子先輩に教わるのが、いちばんだと思ってます」
「うん。わたしにできることなら、なんでも」
杏子が柔らかく微笑むと、つばめは深く頭を下げた。
そのやり取りを、巻藁の脇からじっと見ていた栞代が口を開いた。
「おーい、オレにも教えてくれよ、杏子。いや、教えるっていうか、チェックな。姿勢の崩れ、ちゃんと見てくれ」
「うん。もちろん」
「……ったく、なんでお前だけそんな無敵モードで落ち着いてんだよ」
口ぶりは乱暴だが、そこにあるのは深い信頼と尊敬。
杏子が「当てることを考えずに矢を放てる」ことが、どれほど異常なことか。
いつもつぐみが言っていた。
まだ弓を実際に引いていない時には、よく分らなかったが、今なら分かる。
的に当てる。そのことを考えずに弓を引くことが、いかに難しいことか。
「はい、左手、そこ力入れすぎだよ。弓がぶれちゃうよ」
一方その頃、道場の別の隅では、瑠月が静かに指導を続けていた。
ソフィア・アルベルティーナ・ヴィルタ。
そして皇楓――まったくの初心者、なんの前知識もない二人を、瑠月は根気強く見ていた。まっさらなだけに、変なクセを付けちゃいけない。
ソフィアは、力があるせいか、力任せに弓を引こうとしてしまう。
「ソフィア、見て。こう、両手の間に肩を入れるイメージで、自分が入っていくイメージを持ってみて。」
「……シュルダー……from the bone. I see.」
外国語まじりで答えるソフィアに、瑠月は慣れたように頷いた。
文化も言語も違えど、弓の姿勢だけは、万国共通の美しさがある。
(……杏子ちゃんみたいにはなれないけど。わたしは、わたしなりのやり方で)
去年、自分も無我夢中で杏子ちゃんの指摘を受けていた。
その経験を今、誰かに手渡すことが、自分の役割だと信じている。
冴子が、練習日誌を手にしながら近づいてくる。
「瑠月さん、ごめんね。いつも初心者の面倒見させちゃって」
「ううん。わたしの方こそ、役に立てて嬉しいよ」
「こっちこそ、ありがたい。……それにしても、団体戦2チーム体制、やっぱりキツいわね」
冴子は苦笑する。
「チーム構成はなんとか決まったけど、全体の練度を上げるのが本当に大変。瑠月さんがいなかったら、正直まわってないよ。瑠月さんのチームの方が圧倒的に大変だと思って任せたけど」
そういって苦笑いしながら、冴子は続けた。
「どうしてどうして。わたしの方も大変だわ」
「冴子も、部長業、大変だね」
「瑠月さんのチームには杏子が居るから、穏やかなムードがあるけど、……沙月と真映とつばめ、全員気が強くて、まとまりがね……。紬は我関せずだし」
「でも、逆に言えば、それだけ勝ち気があって、面白いじゃない」
「杏子の自然体と紬の無関心、一見そっくりなんだけどね」
冴子がふっと笑う。
「でも、杏子が一本放つだけで、空気が整うんだよね。不思議だよね。あれ、もう風景に溶け込んでいくっていうかさ」
「分かる。それだけ“姿勢”に命かけてるからだよ」
二人は、杏子が今、巻藁で淡々と練習している姿を見つめた。
帰宅後、杏子は祖父の部屋をそっと訊ねた。
「おじいちゃん、今度さ……紅茶の会、またやろうか」
「おおっ、ぱみゅ子のお友達かっ! よし、フルコースの準備じゃな!」
「紅茶にフルコース?」
「当然じゃ! 噂のソフィア嬢も来るんじゃろ?」
「うん、多分来られると思う」
「むむっ……では、スウェーデン王室スタイルで行こう……」
「そんなのあるの? 落ち着いてね、おじいちゃん……」
呆れながら笑う杏子に、祖父も「ふはは」と豪快に笑った。
その夜。
杏子は自室の机で、そっと今日の練習日誌を開いた。
《姿勢:ぶれなし。弓力:安定。集中:良。まゆの巻藁:的に届いた。つばめ:軸に力あり。ソフィア:構え改善中。皇:笑顔。冴子部長:疲労ぎみ》
杏子のペン先は最後に、そっと小さく文字を綴った。
《自分:正しい姿勢で引く。明日も同じように引く。それだけ。結果はたまたま》
静かにページを閉じ、杏子は深く息を吸い込んだ。
明日もまた、一本ずつ、丁寧に。
その積み重ねの先に、何かがあるとしても。
それを求めるのではなく、ただ、真っすぐに。
杏子の軸は、微塵も揺れていなかった。




