第110話 男子部員たち
「よし、そろそろ練習に入ろう。」
拓哉コーチの一声で、弓道場の空気が一変する。それまで和やかだった雰囲気が、緊張感を帯びたものへと変わった。部員たちは一斉に姿勢を正し、男子部員は名残惜しそうに、集中した表情に切り替える。木の床が軋む音だけが響く中、静かに準備運動が始まった。
ランニングなど、一通りの準備運動と基礎練習を終え、いよいよ的前での「射込み」練習に入る。弓を握る手に微かな汗がにじむが、それを拭う余裕はない。
瑠月が、ソフィアと楓の二人を伴って道場の端に行った。
「二人とも、まずは射法八節をしっかり見て。最初に私が見せるから、よく目に焼き付けてね。弓を持つのはまだまだ先よ」
瑠月がゆっくりと、弓は持たず、正確な動作で射法八節を示す。その一挙手一投足には無駄がなく、流れるような動きに、二人はじっと見入っていた。続いて瑠月は杏子を手招きする。
「杏子ちゃん、この二人にもう一度、射法八節を見せてあげて。」
杏子が静かに頷き、弓を構えた。その動作はさらに磨き抜かれており、練習を重ねた者だけが持つ、無駄のない美しさを備えていた。
「どう? どこが違う?」
瑠月が二人に問いかける。しかし、ソフィアと楓は顔を見合わせ、ほぼ同時に言った。
「全く分かりません。全く同じに見えます。弓があるかどうかだけかな」
「そうよね。私も最初は全然分からなかったわ。でも、ソフィアは、杏子の弓に惹かれたんでしょう?」
「は・・・い。でも、動き、形がどう違うのか、わかりません。
でも、杏子さんの弓を打ってる時の輝きは、素晴らしく美しいと思います」
瑠月は優しく笑いながら、二人に説明を続ける。
「確かに杏子ちゃんの姿は本当に美しい。でも、どこがって聞かれると、説明できないわよね。わたしも分らないのよね。ちょっと悔しいけれど。ほんとに微妙なんだけど、そこがなにか埋められない壁を感じるわ」
瑠月は、つい自分のことを話してしまったが、すぐに話を戻す。
「あ、ごめんなさい。二人は、いろんな先輩の形を見て、何度も何度も練習してね。あ、沙月は少し違うので、沙月は今は無視してて。
まず、形、流れを覚えないとね。最初は必ず、コーチか、わたし、杏子、だれかが必ず付いてるから、質問とかあれば遠慮なく言ってね。
でも、楓ちゃん、ソフィアが来てくれたから、寂しく無くなったね」
楓は、そっと頷く。
「焦らずにね。杏子を除いた2年生も、全員ここからスタートしたから。そう聞くと、やる気になるでしょ?」
楓はまたこくりと頷いた。ソフィアも、真剣な表情で杏子の動きを見つめている。
楓が、尋ねた。
「杏子さんは、どれぐらいやってるんですか?
「杏子ちゃんはね、もうちっちゃい時から、弓のことを考えてたらしいんだけど、実際に始めたのは、小学校の高学年って聞いてるわ」
「それでも、すごいですね」
「そうね。また、ゆっくりと話してもらうといいわ」
「そうそう。練習風景を見てると、杏子の目がいかにいいか、それにも驚くわよ。それも参考にしてね」
二人は意味が分からず、首を傾げた。しかし、しばらく先輩たちの練習を見ていると、どうやら、拓哉コーチが指導した射型と微妙に異なる動きをする部員に対し、杏子が即座に指摘を入れているのが分かった。
指摘、だけで、具体的な指導まではしていないみたいだったが。その違いは全く分らないし、みんな杏子の言うことを、丁寧に受け止めてる。
(弓道って奥が深い……。)
二人の胸に、静かに憧れの念が芽生えた。
その後も、弓を持たずにひたすら形を繰り返す練習が続いた。
「ソフィア、疲れた?」
練習が終わった冴子がそっと声をかける。
「初日から、かなりきっちりとやったわね 」
「練習……すごく難しいです。」
「そうよね。私も最初は、なんでこんなに面倒なことをやるんだろうって思ったわ。でも、やっぱり綺麗な姿勢の人が当てるのよ。」
「間近で何度も見ても、瑠月さんと杏子さんの違いは全くわかりませんでした」
「ふふ。ソフィア。あの二人は、今うちの弓道部で一番形が綺麗な二人なのよ。悲観することないわ。わたしだってわかんないんだから」
「でも、杏子さんが実際に矢を打ってる時は、明らかに何かが違います」
「ほんとにそう。ソフィアだけじゃなくて、みんなが憧れてるのよ」
「でもね、ソフィア。わたしも最初、なんでこんなメンドクサイことやるのかなって思ったわ。あたればいいじゃんって。でもね。やっぱり形が綺麗の人があたるのよ。杏子見てたら、ほんとに実感する。杏子みたいになりたいなら、やっぱり形をちゃんと練習しないとね」
その後も、冴子はソフィアのそばを離れなかった。どうも怪しい男子部員の視線を感じ取っていたからだ。
ソフィアを更衣室へと連れていき、女子部員たちは彼女を囲んでしばし談笑する。
一方その頃、ソフィアに話しかける隙を失った男子部員たちは、なぜか杏子のもとへと向かっていた。
「なんの用だよ?」
栞代が警戒するように問いかける。
その瞬間、海棠哲平が勢いよく頭を下げた。
「杏子さん! 今日ほどあなたを尊敬し、感謝した日はありません!」
杏子は驚いた。杏子の代わりに、栞代が応える。
「は? 何言ってんの?」
海棠の、いつもと全く違う丁寧な話し方に、かえって警戒した栞代が眉をひそめる。
「いや、今日のソフィアさんの話を聞くと、武道に興味がありましたと。柔道、剣道って言ってた。まあ、うちの高校には合気道部はないから、ソフィアさんは、多分柔道部か剣道部に入ろうとしてたと思うんだ。
実際、俺の情報網によると、柔道部も剣道部も見学に行ったらしい」
「なにが、俺の情報網だ。お前ら男子、全員で毎日情報交換してたくせに。暇か」
「いや、だからさ。杏子さまの美しい形が、ソフィアさんを弓道部に誘ったんだろ? もう、多分このことは、明日には学校中に広がり、柔道部と剣道部の男子が、杏子さまに恨みをぶつけにくるだろうが、俺たちが、全力でお守り致します」
海棠は拳を握りしめ、芝居がかった口調で杏子に向かって言い放つ。
「ご安心を! 俺たちが全力でお守りします!」
「いや、オレがずっと付いてるから、お前らはいらない」
「そ、その代わり、その、少しだけソフィアさんとお話を……」
「お前な、中学生でももう少しまともな発想するぞ。」
栞代が呆れ顔で言い放つ。
「剣道部も柔道部も、女子の方に話しておくよ。たぶん男子は練習どころじゃなくなるからな。今のこんな風に。女子は喜んでるだろうよ。練習を全くしなくなるってな」
「なんだと! 練習はしまくるに決まってるだろっ。可愛い女の子の前では、かっこよくありたいという男の本気を侮るなよ!」
「はいはい。分かった分かった。いい結果でたら、ソフィアも誉めてくれるかもね~。
それにしても、も少しまともなやつはおらんのか」
そこへ松平が割り込んできた。
「待て、栞代くん。それは聞き捨てならんでござる。」
「は? なんだ、その口の利き方」
「我々『まゆらー』は、たとえソフィアさんが来ようとも、忠誠心は全く揺るがない!」
「な、なんだよ、その『まゆらー』って……。」
「雲英まゆさんのファンクラブ員を指す名称だ!」
「……は?」
「この忠誠心を、まゆさんに必ず伝えてくれ!」
「自分で言え!」
「い、いや、あかねに言うと蹴られるので……。」
「じゃあ一生黙ってろ!」
「いや、ただ、あかねには感謝もしてるんだ。変な虫が付かないように守ってくれてるからな」」
「は~。頭いて。松平、お前、杏子のおじいちゃんと話が合うぞ。」
「うむ。おじいさんの噂は聞いておる。尊敬しておるのだ。」
「その気色悪い話し方やめろ。
は~、こりゃ今年も男子は全国無理だな。」
栞代の嘆息が、道場に響き渡った。