第106話 通常生活に
新しい春の始まり
朝の空気が少しずつ暖かさを増してきた4月のはじめ、杏子は祖父と一緒に家の近くを散歩していた。桜の蕾がほころび始めた様子を眺めながら、祖父は背筋を伸ばしてゆっくりと歩いている。かつて病院のベッドで横たわっていた時の姿を思い出すと、その足取りが信じられないほどしっかりしていた。
「おじいちゃん、本当に元気になったね。」杏子が隣を歩きながら言うと、祖父は「お前のおかげだよ」と笑顔で答えた。
「通院だってちゃんとしてるし、散歩もしてる。わしってほんっとにえらいな~」
杏子は、ちゃっめっ気溢れるいつもと変わらぬ祖父の言葉に安心し、ほんとに元気になったな~と思った。
「食事もおばあちゃんが気を配ってくれてるしな。ぱみゅ子と一緒に散歩もできる。おじいちゃんしあわせ」
繰り返されるその言葉に、たまらず杏子は笑いだす。
「おじいちゃんが倒れたときは、本当にびっくりしたんだからね」と少し拗ねたような口調で言ったが、その表情は楽しそうだった。杏子の心には、あの日の恐怖がまだ薄く残っていたが、今この瞬間の幸せがそれを優しく包み込んでいた。
提案
夕食後、杏子が祖父母と一緒にリビングでくつろいでいると、祖母が「ねえ杏子ちゃん、ちょっと話があるの」と切り出した。
「新学期になるし、おじいちゃんも元気になってきたから、そろそろ以前の生活に戻していこうと思うの。」
「以前の生活?」杏子が少し首をかしげると、祖父が補足するように言った。
「そうだ。2人が心配してくれて、3人で川の字になって寝ていたけどな。お医者さんももう大丈夫だって言ってくれたし、これからはぱみゅ子は自分の部屋で寝るようにしてもいいんじゃないか、いやまだはやいじゃないか、もういっそ永遠に一緒に寝るのもいいんじゃないかと思うんだ」
祖父のそのヤヤコシイ言い回しに、杏子は思わず笑みが零れる。
「ほんとはおじいちゃんはな、いつまでもぱみゅ子と一緒に居たいんじゃ。それをこの、鬼のおばあちゃんが・・・・」
そう言いながら、祖父は祖母の方をちらりと見ると、祖母は、にっこり笑ってた。
「ひっ」
祖父はその笑顔が怖かったようだ。その仕草に、杏子は思わず吹き出した。
祖父の言葉に杏子は少し驚きながらも、すぐに笑顔を見せた。祖父母のいつものやりとりに安心しつつ、「そうなんだ。おじいちゃんがそう言うなら、大丈夫なんだね。でも、何かあったらすぐに言ってよ。」
「もちろんじゃ」祖父が頼もしく頷くと、祖母も続けた。
「それにね、今まではおじいちゃんに付き合うと夜遅くなっちゃうから、それぞれの部屋で寢てたんだけど、これからはおじいちゃんにも生活リズムと整えて貰って、一緒の部屋で寝ることにしたの。おじいちゃんをしっかり見張・・・見守るためにも、そうしたほうがいいと思って。」
杏子はその言葉に安心したように微笑んだ。「おばあちゃんが一緒なら、安心だね。」
「わしゃ不安じゃ・・・」
「何か言った? おじいちゃん」
祖母がもう一度優しく微笑んだ。
変わらない日常
新学期が始まると、杏子はいつものように弓道の練習と勉強に励む日々に戻った。朝の散歩は続けていたが、夜は自分の部屋で眠るようになり、自分の時間が増えた。それでも、家族との時間は変わらず楽しいものだった。
杏子が帰宅すると、祖父はいつもリビングで紅茶の用意と、最近は数学の参考書を広げて待っている。
テーブルの上には、祖母の手作りの健康クッキーが小皿に盛られていた。
「今日の問題、難しいぞ~。」祖父が冗談めかして言うと、杏子は笑いながら隣に座った。「大丈夫だよ、おじいちゃん。私が教えるから!」
祖父は「いやいや、教えるのはおじいちゃんの役目だ」と張り切りながら、二人して問題を解き始めるのが、最近の二人の日課だった。
そして、杏子が部屋に戻り、少しすると祖父が紅茶を淹れて持ってきてくれる。
「休憩も大事だぞ。」
「ありがとう、おじいちゃん。」
祖父母への感謝
そんな日々の中で、杏子は改めて祖父母の存在の大きさを感じていた。祖母は祖父のために細やかに気を配りながらも、杏子のことも見守ってくれている。
ある日、祖母が杏子にそっと言った。
「おじいちゃんが元気になって、杏子も安心して高校生活を楽しめるのが、一番ね」
その言葉に、杏子は
「ありがとう、おばあちゃん。私、頑張るね。弓道も、勉強も、おじいちゃんが安心できるように全部頑張るよ」
祖母はその言葉に微笑み、「無理しないようにね」と杏子の頭を優しく撫でた。
変わらない絆
川の字で寝ていた日々から、生活の形は少し変わった。けれど、家族の絆は今まで以上に深くなっている。杏子は祖父と祖母の存在に支えられながら、自分の目標に向かって日々を進んでいた。
紅茶を飲みながら、ふと杏子は思う。
(おじいちゃんが元気になって本当によかったな。これからも、みんなで一緒に居ようね。)
「えっ。もう川の字で寢てないの?」
報告したら栞代が驚いた声をあげた。
「よくあのおじいちゃんが、杏子と離れて寝ることに同意したな~~。」
「よっぽどおばあちゃんに釘刺されたんだな。」
栞代が笑いながら言う。杏子も思わず頷いた。二人の間に、くすくすという笑い声が広がった。
「よし。じゃ、おじいちゃんを励ましに行くかっ。」
栞代のその言葉に、杏子は心の中で微笑んだ。なんだかんだ言って、栞代もおじいちゃんを心配してるんだなあ。その思いが、杏子の心を温かく包み込んだ。




