第100話 御的初の儀(みまとはじめのぎ)本番
春分の日。薄雲の間から春の日差しが差し込む朝、樹神神社には厳かな空気が漂っていた。社殿の前には特別に設けられた舞台があり、そこで行われる流鏑馬と弓奉納の準備が進められている。朝早くから集まった参拝者たちのざわめきが遠くから聞こえる中、神事の幕が上がろうとしていた。
午前: 祝詞奏上と流鏑馬
「これより、御的初の儀を執り行います。」
神職の厳かな声が響き渡り、神前では祝詞が奏上された。神々に捧げられる祈りの言葉が、静かな風に乗って周囲に広がっていく。
やがて、流鏑馬が始まる時間となった。馬場に集まった参拝者たちが期待の眼差しを向ける中、神職が合図を送る。
「参ります。」
拓哉コーチが低く静かに言葉を発し、白い衣装に身を包んだ姿で馬にまたがった。彼の凛とした表情には、長年培った経験と、この神事に懸ける覚悟が宿っていた。
馬が駆け出すと同時に、拓哉コーチの腕が素早く弓を引き、矢を放つ。その矢は空気を切り裂く音を立てながら、的を見事に射抜いた。会場が湧き立つ間もなく、次の矢が放たれ、また的に命中する。矢を放つ。命中させる。
「流鏑馬の奉納はこれにて終了いたしました。」
最後の一射が的を射抜き、拓哉コーチが馬を下りると、観客たちから拍手と感嘆の声が上がった。その光景は神事の序章にふさわしい、見事な幕開けだった。
昼過ぎ: 巫女による弓奉納「御的初の儀」
いよいよ、杏子の出番である。昨日神事用の弓を試し、そして栞代の主張により、杏子と栞代が巫女を、栞代がそれぞれの影巫女を担うことになった。
昼過ぎ、境内に設けられた的前に、巫女姿の杏子と瑠月が姿を現した。二人とも特別な装束に身を包み、普段の弓道着とはまったく異なるその姿は、神々しさをまとっているかのようだった。
まずは杏子が前に進む。杏子は緊張で手のひらに汗がにじむのを感じながらも、深呼吸を繰り返して心を落ち着けた。祖母から教えられた「正しい姿勢で射ること」を呪文のように心で唱える。
観客席で見守る祖父も、我が孫ながらその美しさに感動していた。
「……静かに、ただ丁寧に。」
拓哉コーチの言葉が脳裏に浮かび、杏子は軽く目を閉じた。そして、弓を引く。会場が息を呑む静寂に包まれる中、矢が放たれた。
矢は一直線に飛び、的の中央に見事に命中した。その瞬間、境内に大きな拍手が響き渡る。杏子は静かに息を吐きながら後ろに下がり、瑠月に目を向けた。
次に瑠月が進み出る。控えとして待機する杏子と影巫女として立つ栞代の視線を感じながら、瑠月は冷静に弓を構えた。
まだ幼さの残る杏子に対し、年長者としての、一種妖艶なまでの美しさを魅せる瑠月。
二人の巫女による、現在と未来の象徴。
それも見事に表現されていた。
杏子と共に感情を表に出さない瑠月だが、その指先には少しの震えがあった。それでも彼女は、集中し、矢を放つ。
瑠月の矢もまた、的の中央に見事命中した。観客の拍手と歓声がさらに大きくなり、杏子と瑠月の姿は神事の中で特別な輝きを放っていた。
付け焼き刃ではあったが、神事の作法に則り、矢を放ったあとも、最後まで、気を抜かずに、巫女として、儀式を全うした。
午後: 地域住民参加型の催し
神事が終わると、境内では地域住民による舞や演奏が次々と披露され、和やかな雰囲気に包まれた。子どもたちが楽しそうに駆け回り、大人たちは屋台で談笑する。
杏子と瑠月、そして栞代は装束を脱ぎ、少しほっとした表情で会場を出た。
「三人とも、本当に素晴らしかった」
見に来ていた祖父が声をかける。
「瑠月さんの、大人としての美しさ、それに対してまだ少し幼さの残るぱみゅ子、そしてその間を埋めるような栞代、この三人の組み合わせは、おそらく、伝統のある御的初の儀 大和矢祭の中でも、最高のものになったに違いない。いや、絶対にそうじゃ。」
杏子は照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう、おじいちゃん。緊張したけど、やってよかったと思う。」
「私も。」瑠月が静かに言葉を続けた。「普段の矢を引く、という感じではなくて、コーチがおっしゃったように、神様に引かされてるって感じだった。正直に言うと、杏子に近づけた気がした」
「瑠月さん、そんなことないですよ~。わたしも瑠月さんと同じ気持ちでした」
「そして、栞代、栞代は弓は引かなかったけれど、二人を支えていた、その気持ちは立派に表現されていた。二人もとても落ち着けたことだろう。
栞代もとても、その、、なんだ、、あれだ・・」
「なんだよおじいちゃん、ちゃんと美しかったとか、綺麗だったとか、素敵たったとか、言ってもいいんだぞ、そこは」
「まあ、それだ。とても良かったぞ。まあ、ぱみゅ子には及ばないがな」
「これだよ」
と言って、三人で笑った。
夕刻: 神職による締めの儀式
夕日が西の山に沈み始める頃、宮司が最後の祝詞を奏上し、大和矢祭のすべての神事が終わりを迎えた。
「本当に素晴らしい射だった。」
拓哉コーチが二人に声をかけると、杏子も瑠月も少し恥ずかしそうに笑った。
「少しは、コーチの期待に応えられましたか?」
瑠月が尋ねる。
「十分だ。君たちの射がこの神事の重要な一部となってくれたこと、心から感謝する。そして栞代さん、ここまできて二人を支えてくれて、本当にありがとう。矢を放つという儀式は無かったが、振る舞い、佇まいは完璧だった」
その言葉に二人は静かに頷き、栞代は「でしょ?」とおどけて返した。
三人とも、充実感に満ちた表情を浮かべていた。




