第1話 自己紹介の巻
「金メダルを取って、おばあちゃんにプレゼントしたいです。」
新入部員の自己紹介が始まり、目標を一人ずつ発表していく時間が訪れた。杏子は、昔から心に決めていた素直な夢を、皆の前で堂々と口にした。その声には一片の迷いもなく、まっすぐな瞳が彼女の決意を語っていた。
言葉は少しも揺るがず、彼女の瞳には澄んだ決意が宿っていた。部室の中には静寂が漂い、しばらくの間、その響きが誰の心にも余韻を残した。杏子にとって、この夢は他の何よりも大切なものであり、自分を育んでくれたおばあちゃんへの最大の恩返しであると同時に、果たせなかったおばあちゃんの夢でもあった。
他の新入部員たちは「礼儀作法を身につけたい」「集中力を付けたい」と、どこか無難な目標を掲げていた。それは、弓道という競技の基礎的な要素を大切にする考え方ではあった。しかし、杏子のように具体的な大会での「勝利」を目指すものではなかった。
杏子が「金メダル」と口にした瞬間、部室の空気が微かに変わった。それを敏感に察したのは、部活への情熱をすっかり失ってしまった数人の三年生だった。彼らは軽く顔をしかめ、目を合わせることなくスマホをいじりながら、鼻で笑う。
「はいはい~。」
一人が面倒くさそうに吐き捨てたその言葉には、冷ややかな皮肉が込められていた。さらに、もう一人が追い打ちをかけるように、呆れたように続けた。
「毎年いるよな~、こういうやつ。つづかねーけど。」
彼らの言葉には、ただの嫌味や冷笑を超えた、苛立ちのようなものが感じられた。弓道部に在籍していながらも、もはや彼らにとって部活はただの形だけの存在であり、仲間とふざけ合う時間の延長に過ぎなかった。大会で結果を出そうという気概など、遠い昔に失ってしまったのだ。
その三年生の姿を、静かに見つめる者がいた。それは、二年生の冴子だった。彼女は苦い表情を浮かべながら、心の中でさまざまな感情が渦巻いていた。冷笑される新入部員を目の当たりにしながらも、彼女は杏子の言葉に密かな希望を抱いていた。自分と同じように「全国優勝」を目指す仲間が現れたことに、胸が高鳴ったのだ。
と同時に、恐れていたことが起こった、と思った。
今日は、先輩である三年生の国広花音も、同級生だが、ある事情で入学が遅れたことにより、2年年齢が上、つまり年齢自体は3年生よりも上の、奈流芳瑠月も居なかった。
花音先輩は体調不良でお休み、瑠月さんは、家庭の事情でしばらく休んでいた。
二人がいれば、3年生も大人しくしているのだが、逆に、二人が居ない時は、三年生たちは自分勝手な振る舞いに拍車がかかっていた。
冴子が去年自己紹介の時もからかわれたが、二人が居てくれたおかげで、特に大きな問題にはならなかった。しかも、私は今もずっと努力を続けているぞ。冴子は少し憤慨した。
今年の新入部員の中には、中学時代、全国準優勝経験者が居る、という噂があり、3年生から変な攻撃を受けるんじゃないかと恐れてはいたが、それは、どうも杏子ではないようだ。単に噂なのかどうかは、まだ全員の自己紹介が終わっていないので、分らなかった。
杏子は、三年生たちの冷ややかな態度に一瞬戸惑った。彼らの軽蔑のまなざしに自分の目標が軽んじられたような気がして、胸が詰まり、体が硬直する。どう返していいかもわからず、杏子は立ち尽くしてしまう。
冴子が、意を決して一言言おうとしたその時、突然大きな声が部室に響いた。
「自分が結果出せないからって、他人の目標にぐちゃぐちゃ陰口言ってんじゃねーよ。」
彼女は瞬時に立ち上がり、声を張り上げた。
「はっきり名乗って言いやがれ」
その声の主は、ぱっと立ち上がった栞代だった。杏子の様子を見た栞代は、内心で強い憤りを感じていた。杏子と同じ新入部員だ。彼女は長身で、スポーツをしているのが一目で分かる引き締まった体と、強い眼差しを持っていた。圧倒的な存在感を放っていた。
「なんだと~」3年生の一人が反発しようと声を上げたが、栞代の鋭い視線に気圧され、言葉を詰まらせた。
栞代の気迫に圧倒された三年生たちは、思わず言葉を失い、彼女をじっと見つめた。新入部員にこうも堂々と反撃されることなど、彼らはまったく予期していなかったのだ。
その場の空気が一気に険悪になり、緊張が走る部室。新人たちが怯える中、静かに割って入ったのは、コーチの落ち着いた声だった。
「目標は大きければ大きいほどいいんだ。」
その一言が、重苦しかった部室の空気を少し変えた。栞代は胸を張り、三年生を鋭く睨みつけた。その姿に、杏子も自然と肩の力が抜け、栞代の存在に勇気をもらったように感じた。
その一方で、3年生は皮肉げに「やってみりゃわかるよ」と呟き、スマホの画面に視線を戻した。
彼らは2年生だった去年、突然やってきたコーチに、3年生の手前、素直に教わるのも憚られ、結局はダラダラと過ごすのみだった。
その時の新入生、今の2年生は、入部時にコーチが居た訳だから、素直に指導に従って、順調に実力をつけていた。
今の3年生たちは、上手くなっていく当時の1年生、現2年生を見て、複雑な思いを抱えていた。もう一度やってはみたいが、今さら間に合わないと勝手に思い込み、またやはり先輩の目も気になり。なによりシンドイことは避けた方が楽だ。
ただし、その中で、年上という自意識を捨てて、1年生と同じく、黙々と基礎練習をこなしていたのは、国広花音だった。同級生や先輩といった身近な周囲がどれほど怠けていようと、彼女は決して手を抜かず、下級生と共に真剣に取り組んでいた。彼女にとって、練習は自分を磨くための大切な時間だった。同級生たちが緩んだ空気の中で適当に過ごす様子にも、内心苛立ちを感じながら、彼女は1年生たちに負けじと努力を重ねていた。
同時に、全く違う方向に向かい、バラバラな弓道部の中にあって、なんとかバランスを取ろうと苦心していた。
そして年上、ということで一目おかれていた奈流芳瑠月。その二人が休んでいるのは、痛手ではあったが、なんとか今は収まりそうだ。
自己紹介はまだ残っていたが、3年生たちの態度やコーチの言葉の影響で、どこか緊張感が漂っていた。結局、その日は、残りの新入部員は、目標を言うことはなく、コーチが名前だけを紹介して、目標は後日に持ち越された。
「杏子って言ったっけ?
たいしたもんだよ、言い切るなんて。
めっちゃかっこよかったぜ。」
栞代は、杏子に話しかけた。さっきまでの強気な態度とは一変し、とても優しく穏やかな雰囲気だった。。
「実はオレ、ほんとはあいつらと大差ないんだ。
個人競技だから、サボっても誰にも迷惑はかからねーと思ってきたんだ。」
その声には、少しの自嘲が混じっていた。だが同時に、なにかふっきれたような、明るい響きがあった。
栞代はクラブ活動に疲れていた。中学時代はバスケットボール部に所属し、周囲に期待され、厳しい練習にも耐えていたが、その分、精神的にも追い込まれた経験があった。だからこそ、高校ではもっと気楽に楽しめる競技を選びたいと思って弓道部に入った。あまり真剣にならず、誰にも期待されず、のんびり過ごせる場所。そしてそれが誰の迷惑にもならない。それが彼女の選んだこれまでの「弓道部」だった。今までの「弓道部」だった。
しかし、杏子の真っ直ぐな姿勢に触れて、栞代の心は揺れ動いた。あれほど明確に「金メダルを取る」と言い切る杏子の姿に、かつての自分を重ねずにはいられなかった。
「だが杏子、気に入ったぜ。
お前の目標達成のために、オレのできることは全力で協力するぜ。」
栞代はそう言いながら、少し自嘲気味に笑った。しかし、その言葉にはどこか温かみがあった。彼女は杏子の抱える重みを理解し、同時に彼女を支えたいと思った。自分がかつて味わった苦しみを、杏子が乗り越えるための力になりたい――そんな思いが心の奥底に湧いていた。
杏子は少し照れくさそうに微笑み、栞代に向かって言った。
「ありがとう。
でも、私が欲しいメダルって団体戦のなの。
一緒に取ろうね!」
その言葉に、栞代は驚いた。
「え、オ、オレも??
やるの??」
真剣に何かに向かうことの辛さを知っている栞代は、再びその重圧に立ち向かうことに躊躇した。自分がもう一度、全力で何かに取り組むことができるのだろうか。自分自身でやるのと、誰かをサポートするのとは、全く意味が違う。心の中に逃げ出したい気持ちが渦巻く。
しかし、杏子の真っ直ぐな瞳に見つめられ、そして手を握られてしまっては、断ることができなかった。