命の柵
天黎が、青い瞳のまま、言った。
「…それぞれにそれぞれの思惑があろうの。」二人が天黎を見ると、天黎は続けた。「維月が言うは間違ってはおらぬ。全てがいちいちもっともぞ。聡子が言うのも、主は知らぬゆえに主の視点からなら分かる。しかしな聡子、何もかも己の手の内だと思わぬ方が良い。過去なら知らぬ事などないと思うておるようだが、そうではないぞ。今も言うたように、詠み人は一人ではない。書き記さぬでも、脳裏に詠んでおる者も多くいる。全てが主の詠んだ通りではなく、そして全てを主が詠んでいたわけでもない。それを違えるな。」
聡子は、天黎を睨んだ。
「…どういうことですの?」
天黎は答えた。
「まず、維月は元は出海という神だった。その命を、維心の前である維翔が望んだゆえに、争いとは関係のない人として転生していた。ゆえに、月の眷属と話すことができる家系の人として生まれたのだ。しかし、人世では稀な神の命を持つ人だったゆえ、十六夜は維月を愛し、その時の片割れは、維月に己の命を明け渡した。これは必然。何故なら維心と維月もまた、前世より繫がっている命であったゆえ。そうなることで、維心と維月が共に生きられる環境となったのだ。世に偶然などないのは知っておるはずよ。維月はただの元は人の命ではなかったのよ。主とは違ってな。ゆえ、主の言うは間違っておる。維月はの、もっと多くの柵を抱えて生きる命なのだ。が、主はそれを詠んではいまい?他の詠み人が詠んでそれが現実になっておる恰好ぞ。」
聡子は、唇を噛み締めた。
天黎は続けた。
「…我が悪い。主が未熟な命なのは知っておったが、それゆえ感情を学ぶのにちょうど良いと思うてしもうた。命がそれでも、知識があるゆえ。それで補って行けるかと期待した。が、我の考えは甘かった。黄泉へ行かせてやっておれば良かったと、最近では思うておった。世に関わるには、あまりにも未熟な命なのだ。本来、そんな命の柵には、耐えられる命ではない。ゆえに、責任を取り、主から記憶を取り去ろう。もう苦しまずに済む。塔矢の下に戻り、残りの生を幸福に過ごすが良い。」
聡子は、慌てて言った。
「お待ちくださいませ!生意気な口を利いたことは、謝罪致します。我は、この我として生きて、黄泉に参りたいのです!何も知らぬ頃には戻りとうありませぬ!」
天黎は、苦笑した。
「知っておるゆえ不幸であるのだと何故に分からぬか。主にはその記憶は重い。もっと育ってから持つべきものよ。過ぎた知識は害にしかならぬ。」と、じっと聡子を見つめた。「さらばぞ、詠み人よ。」
その瞬間、聡子は目を見開いたまま、凍りついたように宙を見て、固まった。
「え、天黎様?!」
維月が、何の波動も感じないままに起こった事に愕然としていると、聡子は目を閉じることもなく膝をついて、ガクンと床に倒れた。
「聡子様!」維月は、慌てて聡子を上向きに寝かせた。「そんな…何をなさったのですか?!」
天黎は、落ち着いた瞳のままで言った。
「…記憶を消した。」
今の一瞬で?!
維月は聡子を見下ろした。
天黎からしたら、記憶一つのことで、手を上げる必要もなかったのだろう。
「そんな…では、月の宮に何故に居られるのか、分かっておられぬ状況に。」
天黎は、頷いた。
「そこのところは蒼に任せよう。そもそも聡子は主らの言うところの生娘ぞ。我とそういった関係を結んではおらぬからの。まあ、結べなかったという方が正しいか。」
維月は、聡子の開いたままの瞳を閉じてやり、息をついた。
「…月の眷属との婚姻は、そんなものなのだと説明するよりありませぬ。天黎様のお力に当たって記憶を失くしたとか…そのような理由でお里に戻した方が良いやも知れませぬわ。」と、息をついた。「…紡様といい…やはり記憶など、ない方が良いのですね。」
天黎は、頷いた。
「その通りよ。今生きている者たちより知っておることがあると思うと、どうしても己が上という心地になるのだの。維心や炎嘉のように、誠に上の命なら良いのだが、そうでないのにとなると厄介ぞ。一度黄泉で休んだら、生きた全てを忘れてやり直す方が良い。その方が気も楽よ、何しろ、しでかした事すら忘れてしまえるのだからな。全部覚えておって、その罪悪感やらに押し潰されぬ命が世に如何ほどあるものか。良い事も悪い事も、等しく無かったことになる、それが転生ぞ。全ての柵を捨てて、一からやり直せるのだから恵まれておるわ。」
それは、確かにその命の上でしでかした、全てを覚えていては心がもたないのかも知れない。
とはいえ自分は、覚えていたいと望む…。
維月は、記憶を消された聡子の気持ちを思うと、複雑だった。
あの時望み通りに黄泉へ行っていたら、今もあちらで記憶を持ったまま、地上を眺めていたのだろうか。
全部知っている、という、優越感と共に…。
次の日、その知らせは、塔矢の宮へ送られた。
聡子は、長く天黎の側近くに居た弊害で、記憶の大半を失くして倒れたのだと言う。
そもそも月の眷属は、婚姻という概念がないので、天黎と聡子は本当の意味での婚姻関係ではなかったようだ。
聡子はそれでも毎日穏やかに過ごしていたのだが、蓄積された力の弊害で、倒れて後は意識を戻さず、やっと目覚めた時には何も覚えていなかったということだ。
このまま月の宮で天黎の側に居ては、また同じ事になる、もしくはもっと悪い事になるだろう、と、蒼からそちらへ引き取ってもらえぬかと知らせて来たのだ。
恵麻は、言った。
「…そもそもが突然のことで、あちらに上がって二百年ほど、滅多に御文も来ないままで…聡子殿はお戻りにもならずに。どうしておいでなのかと、案じておりました矢先でございます。すぐにこちらへ迎え取りましょう。」
塔矢は、頷いた。
「何不自由なくやっておると、時々には文に返事をくれていたのだ。月の宮で時々に顔を見てもいたのだが…顔色も良かった。相手の気が強すぎるとこうなるか。かつて龍王も、婚姻相手を殺すやもと、なかなかに相手が決まらぬで、臣下が困ったことがあったとか聞いておった。維月殿は月であるから丸く収まり、後にも続き安堵したことがあったとか。聡子は結局婚姻関係にもなれずで、肩身が狭かったのやもしれぬの。やはり、普通の神には大きな気の眷属との婚姻は成り立たぬ。まして聡子は亡くした妃が体が弱かったこともあり、そう強い方ではない。此度のことで分かったわ。早うこちらへ帰してやろう。」
恵麻は、頷いた。
体の弱い聡子が、大きな気の眷属との婚姻など、最初から無理があったのだ。
それを、何もなく淡々と日々を過ごして来たのだから、労ってやらねばならない。
とはいえ、聡子にはその記憶すらないようだが…。
恵麻も塔矢も、やっと恵鈴のことが片付いたと思っていただけに、ため息をついたのだった。
「…聡子が帰されたと?」維心は、龍の宮で鵬からの報告に眉を寄せた。「…あやつの詠み人としての記憶は。大丈夫なのか、生きるのを許したのは、天黎の監視下にあるからなのでは。」
鵬は、困惑した顔で頷いた。
「は…。我ら青天の霹靂と、すぐにこちらに書状をお持ち致しました。蒼様にお聞きした方がよろしいのかと。」
そもそも、詠み人の存在を知っている神は少ない。
それを、利用されてはと隠したからだ。
今になって、それが解放されてしまうのは、何か意味があるのだろうか。
維心は、息をついた。
「…二日後に月の宮へ参るのだが、それまで待っておられぬの。一度あちらへ参る。後にまたすぐ戻るゆえ、案件はそれまでにまとめておけ。とりあえず、これを調べて安心せぬことには他に掛かれぬわ。」
鵬は、頭を下げた。
「は!」
「義心!」維心は叫んだ。「ついて来い!月の宮へ行く!」
そうして、維心は飛び立って行った。
鵬は、いったい何があったのかと、気が気でなかったのだった。




