それどころでは
蒼は、相変わらずボーッと仮想空間の月の宮の、庭の池の側に座って呆けていた。
華鈴のことは、もう諦めた。
あの後、碧黎が戻って来て華鈴は全てを忘れて去ったと聞き、その時は荒れたが碧黎はそんな蒼には構わずさっさと消えてしまい、その後はもう、何日経っても誰も訪ねて来なかった。
維織の時は、正気に戻ったと碧黎が判断した頃に起き上がって来たが、自分はどうなのだろう。
直後はつらくて苦しくて、誰かに話を聞いて欲しいと十六夜を呼んだり恒を呼んだり、裕馬を呼んだりしていたが、誰も来ないのをみると、自分で何とかしなければならないのだとフッと悟って、それからは毎日、ここへ来てボーッと考えている。
考えているうちに、自分が過去にも一度、不死の命は皆を見送って生きて行く覚悟をしなければならないのだ、と、悟った事があったのを思い出した。
…そうだ、華鈴が死んだ時、もう妃は娶らないと決めたのは、必ず相手が先に死んで行くからなのだ。
が、杏奈の時は、命がかかっていたので、それは哀れだと急いで娶ってしまい、後に後悔した。
娶ったからには最後まで面倒は見るつもりであったが、また華鈴のように先に逝く時に、悲しい想いはしたくない、と、深く心は向けないようにしていた。
つまりは、今杏奈を遠くに置いておきたいと思うのは、その時にそうしようと蒼自身が決めていたからだった。
そうして、月の命になったことも手伝って、蒼は杏奈を遠ざけるようになった。
それでも安定していた心がまた、こんなふうに乱れることになったのも、華鈴が戻ったと知ったからだった。
…あれは、夢だ。
蒼は、思った。
昔見た幸福な夢が再び目の前に現れ、またそれから覚めるのが嫌で、タダをこねていた。
華鈴は、絶対に覚める夢であり、どんなに抗ってもそれを止めることはできないのに、蒼はそれを必死になって成そうとしていたのだ。
また夢は弾けて、それは消え去った。
紡のせいでも碧黎のせいでもなく、いつかは去る夢が、今去っただけなのだ。
そう思うと、自分が恥ずかしくなって来て、今度は碧黎が迎えに来なければいいのに、と思った。
戻った時に、あちらで維心はどんなふうに思って見ていたのかとか、翠明はどんな気持ちでいるのかとか、考え出すと堪らなかったのだ。
…女に狂うなんて、月失格だ。
蒼は、碧黎が自分をここに籠めた意味を悟っていた。
ただ、今はそれが恥ずかしくて、皆に顔向けできない心地だった。
蒼がフーッとため息をついて下を向いていると、いきなり池の水が、ピシャリと跳ねた。
…?
鯉でも跳ねたのだろうか。
蒼が思っていると、突然に空間全体がねじ曲がるような感じに見えて、かと思うと、一気に空が真っ暗になった。
「え…?」
蒼は、立ち上がった。
池の水は今や荒れ狂う海のようになっており、風が激しく渦を巻いて木々をなぎ倒す勢いで揺らした。
…ヤバい!
蒼は、急いで宮の方へと走った。
が、宮もグラグラと揺れていて、積み上げられた石が今にも崩れそうになっている。
…中に入るのは危ない。
蒼は、とにかくどこかに逃げないとと、急いで何もない湖の方へと飛んだ。
…碧黎様が怒ってるのか…?!
蒼は、いつまでもウジウジしていた己を後悔した。
このままでは、碧黎に心ごと消されてしまいそうな勢いなのだ。
湖が見えて来たが、そちらはそちらで激しく波打って溢れ、その水が辺り一帯を水没させて、降りられる状態ではなかった。
…どうしよう…。
蒼は、上空で激しい風に振り回されて、水びたしの地面へと叩き付けられる。
体はないはずなのに、その冷たさはまるで氷のように感じて、ガタガタと震えた。
「…碧黎様!」蒼は、叫んだ。「碧黎様ごめんなさい!オレ、オレもう恥ずかしいなんて言いません!戻ってみんなに謝りますから!」
碧黎のことだから、蒼が考えている事などお見通しなのだ。
だからいつまでもここに籠もって戻ろうとしないことに怒っているんだ…!
蒼はそう思ったが、不意に何かの影が動いたかと思うと、激しい風の中で十六夜がこちらを見下ろして浮いていた。
「蒼!」
蒼は、久しぶりに見る十六夜の姿に、涙を流して歓喜の声を上げた。
「十六夜!十六夜、助けて!もうオレムチャ言わないから!」
十六夜は、凄い勢いで降りて来て、蒼の腕を掴んだ。
「なんだって?とにかくこっちへ来い!親父が大変なんでえ、ここに居たら巻き込まれるぞ!」
「え?!」
何に巻き込まれるんだろう。
蒼は思ったが、そのまま目の前が暗くなり、ハッと目を開いた時には、奥の間の自分の部屋の、寝台の天井が見えた。
「…え。」蒼は、脇を見た。「十六夜?!」
十六夜は、蒼の横に膝をついて蒼の手を握りしめていたが、ハッと目を開いた。
「…ああ、戻ったか。良かった、オレに出来なかったらどうしようかと思ったぞ。が、恐らく親父がこっちのことに意識を向けられてねぇのよ。だからオレでもお前を引き摺り出せた。」
蒼は、重い体を起こした。
「…どういうこと?」
十六夜は、息をついて蒼から手を離した。
「簡単に言うと、お袋が消滅した。天黎と天媛がそれしかないってそうしたんでぇ。で、親父は片割れだから、影響を受けてて今、維月が何とかしてるとこ。」
簡単過ぎて何が何だか分からない。
「え…椿は死んだのか?」
十六夜は、そこからかと息をついた。
「ゆっくり話す。とにかくお前がおねんねしてる間に、いろんな事があったの。ちなみに紡は何も覚えてねぇし、神世は破談になったと思ってるぞ。お前、まさかまだごねるつもりじゃねぇだろうな。だったらまたおねんねさせるけどよ。」
蒼は、慌ててブンブンと首を振った。
「そんな、もうオレは正気だよ。あの時は…オレ、また夢を見たいと思ったんだと思う。とっくに諦めてたのに…不死の月なんだって、悟ってたのに。それより翠明に謝らないと。」
十六夜は、ホッとした顔をして、首を振った。
「あっちは理解してるさ。問題ない。とにかく今は親父。親父が立ち直らねぇとあちこち大変なんでぇ。」
蒼は、顔をしかめた。
「でも、碧黎様って一度も陽蘭を愛してたことなかったのに。それでも荒れるの?」
十六夜は、頷いた。
「理屈じゃねぇんだってよ。唯一の片割れが、存在しなくなるとかなり強い孤独感が襲って来るらしい。それに飲まれたら、地球は一気に氷河期だ。親父には頑張ってもらわねぇと。」
氷河期って。
「え、そんなことになるの?!」蒼は、慌てて碧黎の対を月から見た。そして、え、と顔を赤くした。「え、え、ちょっと、碧黎様それどころじゃない状態だけど。」
十六夜は、言った。
「あー見たのか。まあなあ、アレが一番それどころじゃなくなるだろ?陰の月にできることっていっちゃあ、アレしかねぇし。とはいえ、親父はアレだけだったら思考が無駄にあちこち分けられるから、多分無理だろって命も繋いでるんじゃねぇかな。さすがの親父も、命を繋ぐ時にゃ集中しねぇと無理だって言ってたしよ。親父もアレと同時に命まで繋いで、しばらくしたら持ち直すんじゃね?」
まあ、夢中っぽいけどさ。
蒼が思って赤い顔のまま黙っていると、十六夜は真顔で言った。
「…ところで、状況だ。全部1から話す。親父と維月のアレを覗いてる場合じゃねぇ。そっちは維月に任せて、これまでのことを話す。それから、お前がこれから何をすべきかってこともな。」
蒼は、顔を上げて十六夜を見た。
「…うん。なんで椿が死んで、なんで消滅なんてことになったのか、教えて欲しい。だって天黎様なら、碧黎様がこうなる事も、分かってたはずだし。それでもやったってことは、かなりまずいことになったんだろう?」
十六夜は、頷いた。
「そうだ。よく聞け。」
十六夜は、蒼が寝ている間に何があったのか、詳しく話した。
外は、少し気の放流が落ち着いて来ていた。




