過去の幻
維月は、じっと空を見つめ続けていた。
維心は、政務から戻って来て、そんな維月の背を見て言った。
「…月の宮はどうか?」
維月は、ハッとして振り返って、頭を下げた。
「維心様、お帰りなさいませ。」
維心は、維月の肩を抱いた。
「良い、表を上げよ。」と、維月の額に唇を寄せた。「そのように険しい顔をするでない。そんなに深刻な様であるのか?」
維月は、維心の腰に腕を回して、その胸に顔を埋めた。
「…華鈴様が。今、お父様のお手によって、消え去りました。残ったのは、紡様のご記憶だけで、蒼と婚姻したことすら何も覚えておられませぬ。」
維心は、維月を抱きしめて、ため息をついた。
「…そうか。」と、空を見上げた。「華鈴はそれを選んだのだの。それで良いのよ、本来、転生の瞬間に失われるはずの記憶であった。あれは、紡として華鈴より恵まれた環境の中で育って来た。華鈴のように、嫁がねば殺されるという恐怖もなく、己で嫁ぎ先を選ぶこともできる。もう、前世に縛られることはないのだ。」
維月は、維心に抱き着いたまま、頷いた。
「はい。後は…紡殿が記憶にないことで回りから何か言われぬように、回りを整えて差し上げねば。」
維心は、頷いた。
「そうだの。それは我に任せよ。悪いようにはせぬ。主と約したではないか。鵬に命じて、整えさせよう。主は案じることはない。蒼が見たのは、過去の幻であったのよ。」
維月は、何やら寂しい心地がして、維心の胸の温かさを感じながら、目を閉じた。
「維心様…何やら疲れてしまいました。本日はもう、奥へ参りとうございます。」
維心は、頷いて維月を抱き上げた。
「ならば参ろう。眠って、気持ちを切り替えるが良い。」
維心は言うと、そのまま維月を奥の間へと運んでくれた。
維月は、維心の胸に抱かれたまま、眠りについたのだった。
それから、しばらくは蒼は眠ったままになっていた。
碧黎が言うには、様子は見ているので心配ないとのことだ。
最初は泣いているだけだった蒼も、今は仮想空間の月の宮の庭で、ボーっと何かを考えながら座っているらしい。
たった一人きりの空間なので、己を見つめ直すにはちょうど良いかもしれない、と碧黎は言うが、維月は滅入ってしまわないか案じられてならなかった。
そもそもが、人の頃から精神的に弱いところがある蒼だったので、話し相手がいないと復活できないのではないかと思うのだ。
だが、碧黎は今回は良い機会だ、と言う。
蒼は、回りに補佐されてこれまで何とか復活して来たが、ここらでそろそろ、自分の心を自分で立て直せるだけの、力をつけるべきだと言うのだ。
確かにそうかもしれないが、華鈴を二度も失ってしまった蒼に、誰か寄り添ってやって欲しいとは、維月は思っていた。
紡はといえば、華鈴としての記憶を消してすぐに意識を失い、そのまま十六夜の運ばれて西の島南西の宮へと送り届けられた。
事情を知っているあちらの宮の、特に共に月の宮へと行っていた兄の翠玲と白翠は、案じて回りにしっかりと根回しを徹底し、目覚めた紡が混乱しないようにと気を遣った。
十六夜が説明してくれたには、碧黎は綺麗に紡の記憶から華鈴としての記憶が蘇ってからの事を消し去ってしまったので、杏子と共に湖へと出かけた辺りから、すっぽり記憶が抜け落ちているらしい。
つまり、紡はあのまま目覚めていないつもりでいて、目が覚めたら恐らくは、倒れたまま宮へと帰って来たと思うだろうとのことだった。
なので、翠玲と白翠は、それで話を合わせようということにした。
目が覚めたら、あのまま長いこと目を覚まさなかったので心配した、と言おうと構えていた。
翠明も綾も、話し合ってそれで行こう、と決めていた。
皆が見守る中で、紡は目を開いた。
「…あら…?」
目の前には、心配そうな綾と翠明の顔が見える。
その向こうには、翠玲と白翠の顔も見えた。
紡は、重い体を起こそうとした。
「お父様、お母様…」と、回りを見た。「…ここは、宮ですか?」
翠明が、頷いた。
「その通りよ。主、月の宮の湖で急に倒れたと連絡があってな。ならばと案じて、十六夜にこちらへ運んで来てもらったのだ。長らく目を覚まさずで、案じておった。眠っておるだけのようだったのに、一向に起きる様子もなかった。」
紡は、思い出そうと眉を寄せた。
「…そうでしたかしら…杏子様と、湖の水に触れようとしたのですわ。いえ、確か、触れたと思います。その時、フラッとふら付いて…十六夜様に助けていただいた、ところで気を失ってしもうたようです。」
翆玲が、頷いた。
「その通りよ。我らは訓練場で戯れておる最中であったゆえ、驚いた。しばらくそのまま月の宮の治癒の対に居たが、どこも悪くなさそうなのに全く起きないと案じてな。父上にお知らせしたら、すぐに連れて戻れと仰って。十六夜に運んでもろうたのだ。だが、目が覚めて良かった。」
紡は、頷いた。
「すっかりご迷惑をお掛けしてしまいました。杏子様にも…ご挨拶もできずで。」
白翠が、首を振った。
「また文でも書けば良い。あちらも案じて見送ってくれておった。我は、納弥とも仲良うなったゆえ、主が杏子殿にまた会えるように、申しておこう。」
紡は、何かが気にかかる気がしたが、それが何か分からないので、とにかく頷いた。
「はい。よろしくお願い致します。」
綾が、涙を浮かべて紡の頭を撫でた。
「…慣れぬ場所で疲れたのでしょう。とりあえず、ゆっくり休むと良いわ。目覚めて良かったこと…無理に外出して、外に慣れようとせずでも良いのですよ。何事も、ゆったりと進めましょう。」
紡は、綾を見て微笑んだ。
「はい、お母様。」
その顔に、何の苦悩もない。
翠明も綾も、翠玲も白翠もその様子に心底安堵して、そうして後は侍女に任せて、そちらを出たのだった。
居間へと戻ると、新光が待っていた。
そして、書状を差し出して、言った。
「…王。龍の宮の鵬殿より、ご連絡が。全て滞りなく済ませましたと、王にお知らせするようにと。」
翠明は、頷いた。
「そうか。」と、翠明は息をついた。「…主は分かっておるの?」
新光は、頭を下げた。
「は。侍女達より話を聞いておりましたので…全て、宮の中は問題なく。ご安心くださいませ。」
翠明は、新光にはハッキリと婚姻が成ったが、それを無かったことにする、とは言わなかった。
誰が聞いているのか分からなかったからだ。
だが、この宮の中で根回しするには、新光にはハッキリ分かっておいてもらわねばならない。
とはいえ、新光もこの宮の筆頭重臣、事実を知っていても、翠明がそんなことを言い出した意味は気取るはずだった。
それを信じていたが、新光は上手くやったようだ。
翠明は、頷いた。
「ならば良い。主には龍の宮より譲られた、刀のうち短い一本を懐剣として使うことを許そう。後で部屋に届けさせる。」
それが褒美ということだ。
臣下には、その時々の務めの果たし具合で、通常の報酬とは別に、特別な品を与えることがある。
それは、王からの最高の労いであり、他の臣下達に誇れる目に見える成果だった。
新光は驚いた顔をしたが、その意味を悟って耳を赤くすると、深々と頭を下げた。
「は!誠にありがたきこと、心より御礼申し上げまする。」
翠明は、頷いた。
「これからも面倒は起こる可能性がある。まだ、椿のことも解決しておらぬゆえ。主には気苦労を掛けるからの。とりあえず、此度はようやったわ。引き続き、おかしなことにならぬよう、見張って参るのだぞ。」
新光は、また頭を下げ直した。
「は!」
翠明は、窓から空を見上げた。
今頃蒼は、どうしているだろうか。
翠明は、綾を永遠に失う事など考えられない、と、蒼に同情しながら物思いに沈んだのだった。




