去って行くもの
蒼は、自分の心情を碧黎から聞くという、奇妙な状況になっていた。
どうして自分が、華鈴を傍から離すことができなかったのか、どうしてそんなにも、離れることが許せなかったのかを、碧黎から聞いて、やっと理解していた。
自分は、怖がっていたのだ。
目を離した隙に、また華鈴が消えてなくなるのではないか、瞬く間に老いて、居なくなってしまうのではないか…。
また残されて黄泉へと旅立つことが確定ならば、限られた時を一瞬たりとも無駄にすることなく、傍に置いて過ごしていたい。
それが、蒼の深層に眠る望みだったのだ。
碧黎は、言った。
「…よう考えてみよ。主は杏奈が、共に過ごしてくれとうるさいと申しておったが、仮にそれが瑤姫であった場合、維心の手前そこまで手酷く拒絶するわけにもいかぬし、恐らく仕方なく毎日傍に置いただろう。政務に行くと申しても、共に参るとついて来る。友が来たゆえ話しに参ると言えば、己がここに居るのに傍を離れるなど夫のやる事ではないと退き留められ、居間から外へ出ることも叶わぬ。どう感じると思う。」
蒼は、王と妃は違うと言い返そうとしたが、口を閉じた。
立場的には違うかもしれないが、感じることは同じだ。
ただ、妃達は我慢するだけで、王と同じように感じるはずだった。
自分は、華鈴と杏奈が茶会を開くことすら許そうともせず、杏子が訪ねて来ては嫌な顔をして追い返し、侍女達には華鈴の部屋に誰も邪魔することがないよう、中に入れるなとまで言いつけていた。
…そういえば、華鈴は蒼様が変わられたと言っていた。
何も変わっていないと本気で聞いていなかったが、確かに蒼は、前世の華鈴たち、他二人の妃に執着することなく、皆に平等に接していたし、皆が仲良く過ごすことは良いことだと思っていた。
誰か一人を大切にするのではなく、皆を大切に、誰かに通えば誰かにも通い、きちんと不満がないようにと、考えて行動していた。
が、今回華鈴が戻ったのを知り、いきなり正妃にしたいと言った。
十六夜も維月もそれには反対し、炎嘉も翠明も杏奈の手前、上手くやれなくなるのではと案じて反対し、蒼は仕方なくいきなり正妃にはしなかった。
が、そんなことをしたら、確かに杏奈どころか華鈴自身も、杏奈とどうして接したらいいのか分からなくなって、ギクシャクとして良いことにはならなかっただろう。
それが、分かるはずなのにあの瞬間、全く蒼には頭に上らなかったのだ。
…オレ、狂っていたかも。
蒼は、顔を青くした。
突然に、あんなことをしてしまった自分を、華鈴はどう思ったのだろう。
「…オレ…もしかして、やってはいけないことをしたんじゃ。」
碧黎は、頷いた。
「維月は主を、モラハラ夫一直線とか申しておった。我にはいまいちよう分からぬ表現だが、主には分かるのではないか?」
モラハラ夫…。
蒼は、ますます顔色を失くしていく。
碧黎は、息をついて続けた。
「…まあ、主が反省しても、やってしもうたことは残ってしまうもの。」と、ふと視線を何やら一瞬、宙へと向けた。そして、続けた。「…今、華鈴が己の記憶を消し、紡として生きる事を決断した。この世から華鈴という記憶は消える…残るのは、紡という新しい意識だけぞ。」
蒼は、いよいよ土気色になった顔を上げて、碧黎を見上げた。
「碧黎様!もう、正気に戻りました、オレを戻してください!華鈴に謝らないと…華鈴は誤解してるんだ。オレは変わってない、昔のままのオレなのに!誤解してるから、華鈴としての意識を消してしまおうなんて思って…!説得しますから!」
碧黎は、息をついて首を振った。
「ならぬ。そもそもが、記憶というものは転生と共に消え去るもの。なぜなら、タダの神にはその記憶を伴うことで起こる弊害に、対応しきれないからぞ。新しく生きるためには、何も無い真っ白な状態の方が良いのだ。ゆえに、天黎はそのようにしておるのだからの。それを、責務と覚悟を持って転生しようとしておる神達が編み出した術を手に入れ、脇からそれを使って、大した覚悟もなく転生してしもうて…経験せずでも良い面倒を経験することになっておる。華鈴の選択は間違っておらぬ。もし、主が上手くやれておったらもしかしたら華鈴は記憶を持ったまま生きることもできたのかもしれない。が、これもまた運命ぞ。華鈴は、紡に体を明け渡し、華鈴としては永遠に去る決断をしておる。その選択を尊重して、見送ってやるが良いぞ。」
蒼は、ブンブンと首を振った。
「そんな…!ほんの三週間ほどだけでしたのに。オレ、もう反省もしたし、今度はうまくやります!本当に…碧黎様、どうかオレを戻してください…!」
だが、碧黎は、首を振った。
「…ではな。しばし反省しておるが良い。」
「碧黎様!」
蒼は叫んだが、碧黎はその場からスッと消えた。
「そんな…そんな華鈴…!!」
もう、会えないのか。
蒼は、その場に泣き崩れた。
一見同じ自分の宮の中だったが、誰も蒼のところへ駆けつけて来ることはなかった。
十六夜が見守る前で、碧黎は何の前触れもなく、スッと目を開いた。
十六夜は、それに気付いて、急いで碧黎に寄って行った。
「親父!戻ったか、蒼は?」
碧黎は、息をついた。
「…己では正気に戻ったとか申しておるが、未だ完全には回復しておらぬな。ただ、直後よりは己がやったことの自覚は出て参った。とはいえ…華鈴は、記憶を消すことを選んだであろう?炎嘉はもう別れを言うておったな。」
見てたのか。
十六夜は、頷いた。
「見てたのか。そうだ、炎嘉は最初から華鈴を説得するつもりだったみてぇだな。記憶は持って来るべきじゃなかったって言い方だった。華鈴も、炎嘉の話を聞いて、決心したみたいだったよ。」
碧黎は、息をつきながら頷いた。
「炎嘉は上手いことやりよる。己が思う方向へ、相手を誘導する能力を持っておる。その事に関しては、維心もあれには敵わぬだろうの。華鈴は、記憶を持って来てはならなかった。蒼が、そんな華鈴を受け入れるための器がないからぞ。此度は、どう考えても華鈴としての記憶を消しておくべきだ。炎嘉はようやったわ。」
十六夜は、頷いた。
「じゃあ…もう、消すのか?華鈴の記憶を。」
碧黎は、頷いた。
「蒼は、正気に戻ったゆえ、華鈴に謝って説得するとか申しておったが、もうこれ以上華鈴と接触させるつもりはない。何より、蒼自身のためにならぬからぞ。紡からは、華鈴としての記憶を戻した後の全てを消し去るつもりぞ。ゆえ、蒼との婚姻すら覚えておらぬ。消した後、南西の宮へ帰すが良い。その後、蒼のことはどうするのか考える。あまりにも嘆くようなら、華鈴が戻っておった事実すら、その頭から消し去るしかなかろうしな。」
十六夜は、大きなため息をついた。
「そうだな。もう消しちまったほうが良いかもしれねぇな。華鈴が死んだ後しばらく落ち込んでた時より、ずっと変になってたからよ。死んだ女が戻って来るなんざ、夢のように思うかもしれねぇが、良い事ねぇな。なんかオレ、今回のことで記憶持ってるってのが、面倒のもとなんだってやっと分かった気がする。」
碧黎は、歩き出しながら言った。
「全て無駄なことなどないのだ。必要だからこそ、そのようになっておる。普通は前世など、覚えておらぬものであろう?覚えておったら狂う者もおるからよ。それでも、何かの弾みで覚えておる者も居れば、維心達のように潤沢な気を使って、重い責務を担うために、記憶を留めて生まれ変わる者も居る。前者は不幸でしかなく、後者は覚悟を持っておるゆえ問題はない。そして、その問題の無い者達が、事も無げに毎日を生きておるゆえ、案外に記憶を持っておっても大丈夫だと思うようだが、実はそうではないのよ。十六夜、主も記憶を留めて生まれて来たが、主らの場合は同じ場所、同じ親、同じ境遇に生まれ出ておるゆえ、死んでおらぬも同然であって負担もなく生きておる。だが、普通はそうはいかぬ。親は死ぬし、自分の子から産まれて出てみても、時は進んでおって回りも変わり、時代も変わる。何一つ同じではなく、昔の通りに生きようとしても、もはやそれが許されぬ世になっておるやもしれぬ。そのストレスは並ではないし、つらいだけになってしまう。回りも、覚えておると関りが難しい。ゆえ、新しい生は真新しい記憶で始めるのが一番負担がなく良いのだ。」
十六夜は、頷いて、黙って碧黎の後に付き従った。
華鈴の、前世の記憶を全て消し去ってしまうのだ。




