決断
碧黎の部屋の前に到着すると、十六夜は声を掛けた。
「華鈴?紡か、もうどっちでもいい。炎嘉が来たぞ。」
部屋の中から、戸惑ったような気配がしたかと思うと、華鈴の声が答えた。
「どうぞ、お入りください。」
扉を開いて中へと入ると、華鈴は窓辺の椅子に座って、こちらを見ていた。
その顔は憔悴しきっていて、何度も涙を拭いたのか、化粧もかなり取れてしまっている。
炎嘉は、進み出て言った。
「…華鈴か。」
華鈴は、立ち上がって炎嘉に頭を下げた。
「はい、お父様。我は…どうしたら良いのか、分からぬようになってしまいました。」
炎嘉は、足を進めて華鈴の頭を撫でた。
「無理もない。主はただの神、我らのように過去を背負って尚今生生きるための、気力がないのよ。過去は持って来ぬ方が、本来楽に生きられる。だからこその黄泉のシステムなのだ。」
華鈴は、顔を上げて炎嘉を見上げた。
「お父様…ですが我は、蒼様をお慕いしておりました。ゆえにまた、幸福に生涯を共に生きようとこうして参ったのです。なのに…蒼様は、かつての蒼様ではありませんでした。」
炎嘉は、華鈴を促して椅子へと共に座りながら、頷いた。
「華鈴、それぞれに適応力というものがあっての。蒼は何も変わっておらぬ。むしろ昔よりも落ち着いた様になっていたはずなのだ。だが、蒼は主を愛するあまり、戻って来た主を側から離せぬようになってしもうた。何しろ、蒼は月であり不死で、主はまた先に逝く普通の女神ぞ。それが分かっておるだけに、また失う恐ろしさに狂い始めておる。ならば世にある間だけでも、できる限り側に置きたいと、強迫症のようになっておるのだな。あれを狂わせてしもうたのは、主ぞ。正確には、主の華鈴としての記憶だの。」
華鈴は、炎嘉を見上げた。
「…蒼様はお変わりになっておられぬと…?」
炎嘉は、頷いた。
「変わっておらぬ。今も言うたように、更に落ち着いた様になっておった。誰も、蒼がこんなことになるなど、考えてもおらなんだのに。主が戻ったばかりに、狂うてしもうたのよ。蒼は我らのように、精神的には強うない。我らはかつて戦も経験し、長く生きて他が先に死ぬことに慣れておる。悟って来ておるのよ…それこそ、維心や維月が先に逝ってしもうた時も、我は強く己を律してそれを表に出さずに耐え抜いた。が、蒼はその都度嘆いて、他の神達に助けられて立ち直って来た。華鈴、蒼は弱いのよ。ゆえ、やっと主が去ったことに折り合いをつけて立ち直っていたところに、また主が戻ったとなればおかしくもなる。死者が戻るのは、諸刃の剣ぞ。本来、誰かを愛した記憶は持たぬ方が良い。かつての亡霊でしかない…いつか消える、な。」
華鈴は、下を向いた。
十六夜は、珍しく黙ってそれを聞いている。
華鈴は、言った。
「では…お父様はもう、華鈴としての記憶は、無い方が良いと。」
炎嘉は、頷いた。
「我はそのように。だが、主が決めることぞ。主はどうよ?紡としての記憶しかない時、不幸であったか?華鈴でなければ、今生生きられぬと思うか。」
言われて、華鈴は考えた。
今生、父母は優しく戦などもなく、平和に楽しく過ごして来た。
兄弟や従兄弟にも恵まれ、皆と共に励み、華鈴の頃のような怖い想いもせずに済んでいる。
華鈴としての記憶が戻った時、あの頃戦火を逃れて逃げ回り、侍女が目の前で斬られて果てた姿も鮮明に脳裏に蘇って来た。
それゆえに、月の宮へと来てからの平穏な生は、それは毎日輝いて、楽しく感じていたのだ。
だが、今生紡としての自分は、生涯父王の宮に居ても良いと思っていたほど恵まれている。
毎日が楽しく平穏で、月の宮へ嫁がなくても十分に幸福だった。
そう、紡は幸福に生きていたのだ。
「…お父様…我は、我はこうして転生しましたのに、過去に縛られておったようです。確かに我は幸福で、かつて華鈴であった時のように、月の宮へ来なければ生き延びられぬようなこともございませぬ。紡は…きっと、ここへ嫁ごうとは考えなかったでしょう。」
炎嘉は、頷いた。
「だの。主は今生恵まれておる。前世はつらい思いをさせてしもうたが、もう今はそんな世ではない。華鈴よ、もう紡に生き方を選ばせてやってはどうか?華鈴は死んだ。幸福にの。だが、紡はどうか?同じように生きようと考えるのかの。」
華鈴は、首を振った。
「いいえ…実は、姉妹のように育った紅蘭や、友の恵鈴の縁談が決まって行くのを見て、我は女神にはそんな生き方しか許されないのだろうかと考えたのですわ。紡は、もっと自由を望んでおったようです。華鈴としての記憶が戻って…そんなことは忘れておったようです。」
炎嘉は、頷いた。
「そうか。そうだの、今時の女神の疑問やも知れぬ。別に嫁がぬでも上手くやれる方法はある。宮の役に立つ方法を探し、それを成して過ごしておる女神も多く居る。新しい生なのだ、別の生き方も、良いのではないかの?紡を、過去の自分から解放してやるが良い。碧黎ならそれができよう。」
華鈴は、涙を流しながら、微笑んで頷いた。
「はい。はい、お父様。我は…紡にこの体を明け渡し、誠の意味で黄泉へと向かいます。蒼様には…もう、とっくにお別れをしておりましたのに。」
炎嘉は、頷いて華鈴の頭を撫でた。
「良い子よ。では華鈴よ、我は主を見送れなかった。今ここで、主を見送ろう。難儀な時代をよう生き残ったの。そして、よう蒼に、仕えて最期まで生きた。さらばぞ。我は行く。」
炎嘉は、立ち上がった。
華鈴は、同じように立ち上がり、頭を下げた。
「敬愛するお父様、我に生を与えてくださり、ありがとうございました。我は幸福に生きました。これでお別れ致します。」
炎嘉は頷いて、そうして碧黎の対を出て行った。
十六夜は、最後までそれを見守ってから、碧黎に華鈴の決断を知らせるために、蒼を寝かせてある奥宮へと戻ったのだった。
奥へ入って行くと、碧黎が蒼の側に座り、じっと目を閉じていた。
恐らく、蒼のための空間に、蒼と話すために行っているのだろう。
碧黎からしたら、面倒この上ないだろう事だが、こうやって手を貸してくれている。
十六夜は、邪魔をしてはと黙ってそれを見守ることにした。
碧黎は、蒼を探して己が作った空間の、月の宮の中を歩いた。
恐らく蒼は、南の対に居るだろう。
ガランとして全く現実味のない宮の中を、碧黎は南へと向かった。
そこへ近づくと、やはり蒼の声が聴こえて来た。
「華鈴!どこへ行ったんだよ、十六夜!華鈴をどこへやった?!」
だが、この仮想空間の月が答えるはずはない。
だんまりな十六夜に、蒼は怒って更に叫んだ。
「十六夜!無視すんなよ!気配がどこにもない、どこに隠した!臣下も居ないなんてどういうことだ!」
碧黎は、ため息をついてそこへ足を踏み入れた。
「…それはここが、現実ではないからぞ。」
蒼は、ハッとしたように振り返った。
そして、碧黎が居るのを見て、凄い勢いでこちらへ走って来た。
「碧黎様!どういうことですか、誰も居ないなんて!華鈴は?華鈴はどこに隠したんです?!」
今にも掴み掛からんばかりの蒼に、碧黎は冷静に答えた。
「…そのようでは、帰すわけにはいかぬ。今申したであろう、主は我の作った月の宮の中に囚われておる。現実の主は月の宮の奥で眠っておるのだ。維織の時のことを覚えておるか?あれと同じぞ。」
蒼は、だんだんに分かって来たようで、その場で地団駄を踏んだ。
「そんな!帰してください!オレは、オレは華鈴と一緒に居ないと!」
碧黎は、首を振った。
「あちらはそれを望んでいない。」蒼が、ショックを受けた顔をする。碧黎は続けた。「説明しようぞ。よう聞くが良い。」
碧黎は、蒼が何故にそこまで華鈴に執着しているのか、その異常性をとくとくと話して聞かせたのだった。




